「ブルーな鎌倉」

長谷寺

「ブルーな鎌倉」

作:舞鶴夏

 

20代の頃、私は仙台から何度か鎌倉を訪ねました。その頃の私は光の見えない道を歩いていた頃で、鎌倉を尋ねると長谷寺の洞窟を訪ねました。

長谷寺に弁天窟という洞窟があります。その洞窟に入るのです。洞窟にはロウソクを持って入ります。弁天窟は弘法大師が修行された場所でその洞窟の中に弁天様があり、ロウソクを奉納するのです。

30年も前の事で、あまり記憶にはないのですが「鎌倉にまた来たい」と言うのが私の願いでした。長谷寺は結婚して横浜の金沢区に住み娘が生まれてからも訪ねたことがありました。その頃の私は洞窟に入る事はありませんでした。洞窟があることも分からなくなっていました。

そして娘が小学生になると北鎌倉で絵を習い始め金沢区から北鎌倉に通いました。娘が高校生になると私は鎌倉のホテルでアルバイトをしに行きました。金沢区から中区に住んでも鎌倉に仕事に行きました。鎌倉で仕事をしたのは2011年〜2018年。

私は由比ヶ浜から見る空が好き。そして、長谷寺の見晴台から見る町と海。安国論寺の富士見台から見る空と海が好き。ブルーな鎌倉が大好きです。

なっちゃん仙台でバレエを習う

なっちゃんは幼稚園と小学校は黒のランドセルを背負って、目の前にあるカトリックの学校に通いました。
なっちゃんは小学2年生の2月にバレエを習い始めました。バレエを習った理由はランドセルを背負うだけで肩がこり、いつも泣きながら家に帰ったからでした。
なっちゃんは斜頸で生まれました。首の筋肉が硬くなって頭が横に傾いて生まれてきたのですが、自然と治ったそうです。
但し、ランドセルを背負いうと肩が凝り、バレエを習えば健康になるとお友達のお母さんから勧められ、近所のお友達と一緒にバレエを習い始めました。
なっちゃんは、小さい頃からあまり本を読むのが好きではない女の子でした。
ある日、メメというお友達から「なつちゃん、赤い鳥の本を読んで見ない、面白かったわよ」って言われても、なっちゃんは本を読みのが大嫌いでした。なっちゃんは、担任の先生に頼み、放課後、「一房のぶどう」の本を読んでもらいました。「先生ありがとう。明日、メメに本を読んで貰ったことを話さなきゃ。やっぱりお友達は大切だわ。だって本の話ができるんだもの。」
なっちゃんは担任の先生にこう、話しました。なっちゃん家はね。お父さんもお母さんも仕事してるでしょ。だからおばあぁちゃんがいつも夜になると「したきり雀」のお話を聞かせてくれるの。ただし、途中で寝ちゃうの。おじいちゃんとおばあちゃんは昔、東京の目黒に住んでいて雀のお宿がある近所に住んでいたと話てくれるの。本当に雀のお宿があるんだって。
黒いランドセルを背おい、なっちゃんは目の前の家に帰ります。
いつも、なっちゃんは家に帰ると絵を描いていました。今日の絵は葡萄でした。
なっちゃんが絵を描いているので、自然と弟と妹も絵を書くようになったのです。だから、なっちゃんはいくつになっても、絵を描いているのが好きなの子なのです。
なっちゃんのバレエの発表会のプログラムには東京のバレエの先生の写真があり、祝辞が書かれていました。
「東京の空からご成功をお祈りしております」
なっちゃんはいつか、東京のバレエの先生に会って見たいなーと思っていました。
なっちゃんが20歳になった頃、バレエの勉強に東京に行きたいと親と親戚の猛反対を受けながらも、東京の目黒で一人暮らしを始めました。東京のバレエの先生の家は、なっちゃんが小さい頃、おばあちゃんに、聞かせれた「雀のお宿公園」の近所にありました。
「上田」と言う苗字が書かれた家になっちゃんは入っていきました。
「あら、なっちゃん。よくここがわかったわね」
なっちゃんは「雀のお宿公園を探しているうちに見つけることができました」と無邪気に微笑みました。
目黒駅の近所にある日本料理屋でアルバイトをしたりしながら、バレエの勉強をしたのですが、風邪をこじらせ、体調が悪くなってしまった、なっちゃんは仙台に帰ることを決めたのです。
それで上田家を訪ね体調が悪いので仙台に帰ると言う事をお話したのでした。

先の見えない未来

なっちゃんは、これからの自分の人生に初めて悩みました。自分はこれからどう生きていけばいいのだろうか?

なっちゃんは小さい頃から上田先生に会いたいと思いながらバレエを習っていました。きちんとした基本の動きをマスターしたい。でもその先には何があるのだろうか?なっちゃんは自分の先の人生がわからなくなってしまったのです。

上田先生の家を訪ねる。

上田:「身体がよくなったらまたお稽古場に来てくださいね。」

なっちゃん:「はい」

なっちゃんの夢はバレエ団の公演に出演する事だったけれど、体調を悪くしたなっちゃんには静養が必要になり、バレエを休まなければならないなったのです。

なっちゃんの夢の東京一人暮らしは8ヶ月で終わり、一人暮らしの部屋をお母さんと片付け、お母さんと一緒にバレエ団に挨拶してなっちゃんは仙台に帰りました。

なっちゃんはお母さんの小料理屋のお手伝いをして、広瀬川の土手を走り、絵を習いに宮城県の大河原まで出かけていきました。絵を習う予定が絵のモデルのアルバイトを始め、スケッチ旅行に出かけました。そのうち仙台の会社に勤め、同人誌の詩の部門で受賞、ノンフィクション部門で受賞。バレエ童話を描き始め、夢はバレエ童話を書く作家を目指すようになったのです。バレエのレッスンも仙台で再開し元気を取り戻しました。

そんなある日、なっちゃんはお友達立と鎌倉を訪ねたのです。

友達と鶴岡八幡宮、鎌倉文学館、七里ヶ浜にあったエリアナ・パブロワ館を訪ね、とても楽しい会話をしながら、美味しい食事をして、鎌倉を歩き廻りました。

その頃のなっちゃんは仙台からたまに東京に行き、六本木にあるスタジオ一番街で小川亜矢子先生のオープンクラスを受けたり、桃子先生のお稽古場に行き、体調がよくなったと報告したり、鎌倉を訪ねたり、東京でバレエ公演を見たりと大忙しの日々でした。なっちゃんは仙台のバレエ学校の発表会で「コッペリア」の祈りのソロを踊るようになった頃、大好きなフラミフィ先生の仕事場に電話を入れました。

スラミフィ先生:「観光旅行でミラノに来ますか?」

「大丈夫、問題ない。私のレッスン。是非です」

1991年 なっちゃん25歳

なっちゃん、ミラノ・スカラ座バレエ団でレッスンを受ける。

なっちゃんは18歳の時に盛岡でバレエ教師スラミフィ先生の講習会を受けました。19歳の時には仙台でスラミフィ先生のレッスンを受けました。1989年には体調がよくなってから桃子バレエ団でスラミフィ先生のレッスンを受け、1990年に桃子バレエ団で再会し、スラミフィ先生を取材しました。

コスモス文学という同人誌のノンフィクション部門で入選を受賞し、本を出版しょうと思うようになったからでした。しかし、本の出版ではなく「瀕死の白鳥」を踊るための大切な資料になったのです。

1938年3月 ロシア

「スラミフィ・メッセレル 29歳。
私はボリショイ・バレエ団のプリマ・バレリーナでした。まだ、日本の国知らない頃でした。
プリセツカヤのお父さんは1937年5月1日に逮捕されました。無実の罪で。」
*1930年後半、スターリンは反対派を排除・処刑する。『大粛清』と呼ばれ、死亡者8百万〜1千万人といわれる。

「あの時、よくない時間でした。私にはお姉さんいます。ラヒリ・メッセレル。ラヒリ子どもたち、マイヤ・プリセツカヤ、アリクサンドル・プリセツキー、アザーリ・プリセツキー。
私は眠りの森の美女を踊るために楽屋でメーキャップをしていました。急にお姉さんの子供が私を訪ねて来ました。私はびっくりしました。何故ならばボリショイ劇場の楽屋に子供は入ることはできません。、私は何かあった、何かあったと思いました。その前にお姉さんのご主人、プリズンに連れて行かれました。
みんな、みんな夜誰か来ます。連れて行かれます。舞台に立たなければ。一幕のメロディーが始まりました。私は子ども達を私の楽屋に待たせました。子ども達にどうやって劇場に来たか聞きました。
プリセツカヤ『お母さん、スラミフィ叔母さんのいる劇場行きなさい。早く早く』言いました。
スラミフィ・メッセレル『アザーリはどこにいますか?』
プリセツカヤ『わからなーい』
私は兄 アサフ・メッセレルと踊っていました。
アサフの楽屋に行きました。
アサフ『ノーパニック。ノーパニック』
『踊って下さい』
「私は2幕のメロディーを聞きましたから、舞台に立ちました。この日の舞台は何を踊ったか覚えていません。私はマイヤとアリクを連れて子供達の家(ラヒリの家)に行きました。ドアは閉まったままでした。
だれもいない。
何度もドアをたたきました。
よく朝早く、お姉さん(ラヒリ)の家に行きました。ドアは閉まったままでした。だれもいない。なんどもドアをたたきました。次の日の朝早く、お姉さんの家に行きました。2人のミラタリーが立っていました。お姉さんの赤ちゃん(アザーリ・プリセツキー)とお姉さんはモスクワ市にあるブトィルスカヤ刑務所に連れて行かれました。」

マイヤはスラミフィ・メッセレルの家に、弟のアレクサンドルはスラミフィの兄アサフ・メッセレル宅に引き取られることになる。

姉ラヒリの居場所が全く分からなくなった頃、
「私は郵便局でとても小さい手紙を見つけました。新聞の端切れ。当時はトイレットペーパーがありませんから新聞紙を使ってました。
エンピツもない場所だったので、マッチの燃えかすで字を書いた手紙。アクモリンス収容所。」

*この事についてプリセツカヤの自伝「闘う白鳥」にこう書かれている。
—母は窓際に陣取る。手には新聞の切れ端が握りしめられていた。そこには、マッチ棒の硫黄で書き込んだミータ(スラミフィ・メッセレル)の住所。小さな字でアクモリンス収容所と書かれている。列車が人気のない踏切で一時停止をしたとき、小旗を手にした、綿入りジャンパーの暗い顔つきの女性と目が合った。母は丸めたメモを指先で女性の足元にはじき飛ばした—。

お姉さんを訪ねるためには、大人も子供も、家畜運搬用列車に乗るしかなく、メッセレル先生はその列車でカザフ共和国チムケントにお姉さんを訪ねて行く。

「ちょうど、ボリショイ・バレエ団、夏休みでした。私は駅へ行きました。たくさんの人、駅でキップを待ちます。私はとても若いでした。細い、細いでした。ボリショイ・バレエのプリマ・バレリーナ。一年に一回、無料で旅行が出来ます。私は駅ですぐ旅行のキップをもらいました。私は一週間かけてカザフスタンに行きました。」

「何もない所、食べる物もない。とても小さい家がありました。プリズンにお姉さんから届いた手紙を見せました。私はトラックに乗り何もない場所を走り続けました。小さい建物。とても偉い人に私は会いました。お姉さんに会いたい。
とても長い時間、部屋で待ちました。
やっとお姉さんに会えました。
収容所で重いものを運ばせられ、手押し車を引かされ重度のヘルニアにかかっていました。
私は腰の手術を受けさせてほしいと頼みました。
色々、色々努力しました。」

1941年4月に姉のラヒリとプリセツカヤの弟アザーリ・プリセツキーは釈放され帰って来る。

*このお話を聞き、1991年が初演、その後、2000年に鎌倉で踊り、横浜で「瀕死の白鳥」を踊るバレリーナになりました。

なっちゃんはスラミフィ先生から「アルファベットがすべて覚えられなければ単語は書けない」

バレエの基礎の大切さを教えた先生がスラミフィ先生でした。

なっちゃんが20歳の時に東京で、スラミフィ先生がロシアで踊ったグリンカ作曲「ルスランとリュドラ」の主役を踊りました。25歳になった、なっちゃんは仙台からスラミィ先生を訪ねイタリアのミラノ・スカラ座バレエ団に行ったのです。

なっちゃんは、スラミィ先生の泊まっている、ミラノのホテルに電話しました。そして、宿泊するホテルもスラミフィ先生と同じホテルに予約を入れ、1週間、ミラノ・スカラ座バレエ団でゲスト教師、スラミフィ先生のレッスンを受けたのです。毎日、スラミフィ先生と一緒にスカラ座に出勤。スラミフィ先生のサインがあるだけで、なっちゃんはバレエ団のレッスンを受けることができたのです。

スラミフィ先生の家はイギリスにありましたが、よく東京に仕事で出かけることが多い先生で、なっちゃんが連絡をとった時はイタリアでバレエ団のゲスト教師の仕事をしていました。

スラミフィ先生:「貴方はバレリーナですから痩せている事が大切です」

なっちゃんの身長160センチ、体重43キロ

50歳過ぎても、なっちゃんの体重にあまり変わりません。

朝 10:00-12:00までスラミフィ先生のレッスンを受けました。午後からはゆっくりミラノの街を散歩して、1週間と言う短いイタリア暮らしを経験しました。

なっちゃんは仙台で会社に勤め、土曜、日はたまに東京に行き六本木のスタジオでオープンクラスのレッスンを受け、普段はバレエ学校の生徒。それが海外のバレエ団の稽古場でレッスンができるだなんて。なっちゃんにとって、スラミフィ先生はバレエの神様。スラミフィ先生がいれば、鬼に金棒。

スラミフィ先生と出会ったなっちゃんは、その後、仙台で「瀕死の白鳥」を踊り、桃子バレエ団の公演に出演し、結婚、横浜でバレエの先生になりました。

なっちゃんは56歳になり、若い時に夢見た、バレエ童話作家になる夢を叶えたいと思っているのです。

上田桃子先生から学んだバレエ

ミラノ・スカラ座バレエ団でスラミフィ先生のレッスンを受けてからなっちゃんはどうしてもスラミフィ先生に振り付けして頂いた「瀕死の白鳥」を仙台で踊りたいと思うようになりました。

「瀕死の白鳥」は仙台で開催されたスラミフィ先生の講習会で教わったのです。

その頃のなっちゃんはバレエ学校でバレエを習っていましたが、バレエダンサーになるため、別のバレエスクールで日々、スタジオを借り、毎日のように「瀕死の白鳥」の練習に励みました。仕事が終わるとスタジオで自習。もうバレエダンサーになったような生活ぶりでした。

そして六本木にあるオープンクラスでレッスンを受け、桃子先生から「瀕死の白鳥」を指導していただきました。

桃子バレエ団の稽古場
桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導を受ける。
「私より先に死ぬな」、「年功序列」と先生に言われ、最後の場面ではいつも手首をひねる程度で、先生の目の前で息を止めることはありませんでした。
1991年の「瀕死の白鳥」のリハーサルでは真剣な部分もあったが「死」に対しては、まだこれから学ぶものという未来があり、谷先生自身もいつかは訪れる死であっても「今はなっちゃんに教えていると楽しいわ~」という雰囲気の中でのリハーサルだった。但し、「まっとうして死ぬ」という言葉になると、まるで先生自身に言い聞かせているかのように真剣になられた。
仙台から上京し、桃子バレエ団・研究所に学び始めた私の心には「諦めが肝心」という答えが先に出ていて、自分自身の心に負けていた。8ヶ月間の東京暮らしを終え帰省した私は、絵のモデルをしながら、絵を描き、気持ちの整理をしていた。桃子先生からは「お元気になられたら、何時でも桃子バレエ研究所にいらして下さい。あせらずに…ね」というお手紙を頂戴した。そして1986年に桃子バレエ団・研究所で学んでから5年の歳月を経て、ついに、やっと桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導を受けることができた。
桃子バレエ団・研究所の初等科・中等科のレッスンを受けている私が、谷桃子先生のレッスンを受け、直接指導をうける日なんて来ない、諦めが肝心だわ、私は思っていた。私はたぶん谷先生に「東京へは遊びに来ただけです。」と話し仙台に帰ったように思う。

大きな夢が破れた気持ちだった。8歳からバレエを始めた私は、桃子先生の写真を眺めながら、いつか桃子バレエ団に入って公演に出演するのが夢だった。日本バレエ協会の東北支部の主役だって踊れたし、次の夢は谷桃子バレエ団の団員になること。だが、東京暮らしを始めた途端、その夢を現実にするのは到底無理な話だと逃げ出した。(笑)。でもこの無理を何とか可能にすることができた。桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導も受け、再び、桃子バレエ団でバレエを学ぶようになりましたが、心が弱い事と靭帯の怪我が原因で桃子バレエ団の1983年の新春公演「ドンキホーテ」に出演し、結婚バレエを辞め、出産がバレエの先生になりました。

 

*2000年に「瀕死の白鳥」を踊る時には「きちんと息を止めて踊りなさい」という指導を頂き踊りました。

なっちゃんが「瀕死の白鳥」を踊ることになった時に桃子先生から一冊の本(風の芒)を頂きました。

「激しく突っ走り何でもやりぬいた母」

私が三歳のとき、踊りの女神と言われるアンナ・パブロワが来日し、私は連れられて神戸の聚楽館へ行ったのでした。親子ともどもその美しさに魅了され、それから私は音楽が鳴り始めると、パブロワのまねをして踊り出したそうです。母はいつまでもその美しさを忘れることができなかったらしく、後年私が踊るようになってからは「アンナ・パブロワは、ああだった、こうだった」と、私に話して聞かせました。私はときには「世界的な美しい踊りの女神を頭において批判されるのはたまらない。彼女と同じように踊れといっても、とても無理な話よ」と反発したものでした。

昭和58年12月号記載「シリーズ エッセイ 私のお母さん9」ー風の芒より

 

アンナ・パブロワの日本公演 1922年(大正11年)

東京9月10日〜29日 帝国劇場

横浜9月30日〜10月3日 横浜劇場

名古屋10月4,5 日 末広座

大阪 10月6 日〜10日 角座

神戸 10月11日〜17日 衆楽座

京都 10月18日〜21日 南座

岡山10月23日 岡山劇場

広島10月24日 壽座

博多10月26、27日 大博劇場

門司10月28、29日 凱旋座

鎌倉の思い出

七里ヶ浜を訪ねると。海と風からできる波音のメロディーが聴こえる。ブルー色のレオタードを着たバレリーナたちが楽しげに舞う姿を想像してしまう。いつも七里ヶ浜の海はキラキラ光り輝いている。

1990年に友達と鶴岡八幡宮、鎌倉文学館、七里ヶ浜にあったエリアナ・パブロワ館を訪ね、なっちゃんは2000年に鎌倉芸術館で「瀕死の白鳥」を踊りました。

2001年になっちゃんは娘にバレエを教えるためにバレエスクールを開設しました。そしてたった一人の生徒と共に鎌倉の舞台に立ちました。そして横浜で15年バレエを教え、仙台に帰りました。

七里ヶ浜のバレリーナたち

海には響き渡るリズムがる。

永遠のリズム。

海は生命の浄化であり、芸術は深化し続ける

なっちゃんはスラミフィ先生に「瀕死の白鳥」の振り付けを教わり、桃子先生に指導を受け「瀕死の白鳥」を踊りましたが「瀕死の白鳥」を踊ったバレリーナたちについても勉強しました。

エリアナ・パブロワ

「日本バレエの母」と呼ばれる

ロシア革命を逃れて来日したエリアナ・パヴロバは、関東大震災の直後から鎌倉・七里ガ浜に住み、多くの門下生にバレエの魅力を伝えましたバレエ教師・バレリーナ。

貝谷八百子

1921年3月15日-1991年3月5日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に“自分の心を素直に信じそれに従うという思い、まごころ哲学の里見弴の言葉を意識して描きました。

安国論時の富士見台から見た空

安国論寺の富士見台から見た眺め

由比ヶ浜のローソン近くの空

鎌倉の海から感じる文学

鎌倉の海は由比ヶ浜・稲村ヶ崎・七里ヶ浜。

由比ヶ浜

由比ヶ浜に行ったらピンク色の桜貝を拾う

だから「さくら貝の歌」の碑があるのだと思っていた。

さくら貝の歌は短歌をもとに土屋花情が作詞、八州秀章が作曲しました。

さくら貝の歌について調べてみました。

鎌倉・由比ヶ浜の近くに住む青年が、胸を病んで18歳で亡くなった恋人を偲んで、短歌を作りました。

わが恋のごとく悲しやさくら貝
  片ひらのみのさみしくありて

この和歌に作詞:土屋花、作曲:八州秀章で、できた歌「さくら貝の歌」

美わしきさくら貝ひとつ
去りゆけるきみに捧げん
この貝は去年(こぞ)の浜辺に
われひとりひろいし貝よ

1949年(昭和24年)NHKのラジオ歌謡に放送され、1954年(昭和34年)に第一回レコード大賞を受賞。

鎌倉の由比ヶ浜を尋ねたら「さくら貝の歌」の碑を見つけ、さくら貝を見つけて下さい。

桜貝拾った 由比ヶ浜

由比ヶ浜

鎌倉海濱ホテルの碑をみて、文学を感じる。

由比ヶ浜で夏目漱石の「心」の文章が思い浮かぶ

夏目漱石「心」

明治末期の夏休みに鎌倉の由比ヶ浜に海水浴に行た「私」と「先生」

 私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書(はがき)を受け取ったので、私は多少の金を工面(くめん)して、出掛ける事にした。
夏目漱石は北鎌倉の円覚寺の帰源院に止宿して「門」「夢十夜」と言った作品を書く。
友人の所有する長谷の別荘に滞在し「こころ」の作品を書いた。
大正時代は芥川龍之介は由比ヶ浜の海浜ホテルの近くに下宿し「羅生門」を出版。材木座に新居を構え「地獄変」「蜘蛛の糸」「奉教人の死」を執筆する。
大正8年(1919年)有島武郎が「或る女」の後編を円覚寺の松嶺院で書き始めた。
*『或る女』は、有島武郎が大正時代に発表した長編小説。 1911年1月『白樺』の創刊とともに「或る女のグリンプス」の題で連載を始め、1913年3月まで16回続いた。これは前半のみで、その後、後半を書き下ろしで『或る女』と改題して、1919年叢文閣から『有島武郎著作集』のうち二巻として前後編で刊行した。

有島武郎の「カインの末裔」・「或る女」・童話「一房の葡萄」(単行本として1922年に刊行された)・「生まれ出づる悩み」を少しは読んだことがあった。

児童雑誌 赤い鳥(全3巻)

私が小学生の頃、仙台の小学校の図書館に赤い鳥の本があった。

2022年7月に上野にある国際子ども図書館を訪ねた。あの図書館でゆっくり「赤い鳥」の本を読みたいと思った。

国際こども図書館

階段

くもの糸 芥川龍之介

ないてほめられた話  有島生馬

一房のぶどう 有島武郎

*詩人・作曲家
北原白秋・山田耕作らの作品が書かれている本
有島武郎(1878年3月4日-1923年6月9日)小説家
住所 〒048-1531 北海道虻田郡ニセコ町字有島57番地
有島武郎記念館がある
有島武郎の経歴
学習院中等科卒業後、農学者を志して北海道の札幌農学校に進学、洗礼を受ける。1903年に渡米。ハバフェード大学で1年ほど歴史、経済学を学び。帰国後、志賀直也や武者小路篤(むしゃのこうじさねあつ)らと共に同人「白樺」に参加する。
1923年、軽井沢の別荘で波多野秋子と心中した。

*1988年、「華の乱」にも有島武郎と波多野秋子をモデルにした映画が上演された。

1988年 監督:深作欣二

与謝野晶子ー吉永小百合

有島武郎ー松田優作

波多野秋子ー池上季実子

松井須磨子=松坂慶子

*「白樺派」について

1910年(明治43年)創刊の文学同人誌「白樺」を中心にして起こった文芸思潮。

本誌は武者小路実篤、志賀直哉ら上流階級の青年たちによって創刊された。有島武郎など学習院の関係者が多く集まる。

その他のメンバーに、有島生馬、里見弴がいた。

白樺派は個性主義・自由主義を基調とした。

「白樺」は関東大震災の影響により廃刊となった。

大佛次郎が長谷の大仏裏に住んだのが1921年(大正10年)。

昭和に入り、鎌倉文士たちの中心となるのが、1936年(昭和11)久米正雄の呼びかけによって構成された「鎌倉ペンクラブ」だ。メンバーには、川端康成、林房雄、深田久弥、里見弴、小林秀雄、大佛次郎、大岡昇平、太田水穂、神西清、高浜虚子、横山隆一、中里恒子、野田高悟、今日出海、小杉天外、小牧近江、三好達治、島木健作ら鎌倉在住の文学者などが名を連ね、大いに親睦を深める場となった。

江ノ電の「由比ヶ浜駅」、昔の江ノ電の列車が置かれている公園、由比ヶ浜から逗子方向に歩いて行くと材木座の海がある。
私は由比浜の海を見るのが大好きです。そこには文字の流れる旋律があるからです。
鎌倉八幡宮からまっすぐな道を歩き続け
由比ヶ浜の海にたどり着く。
さざなみの音が聴こえ始める。
風が吹いて聴こえるリズム。
「おかえり」
「おかえり」と波が歌い出す。
心の奥まで打ち寄せる波音のしらべ。
私は鎌倉に帰ってきた。
由比ヶ浜から聴こえるメロディーは永遠に変わることはないリズム。
-舞鶴夏の詩-

由比ヶ浜にあったホテル

鎌倉地図

古い江ノ電

材木座

由比ヶ浜駅

 

稲村ヶ崎

稲村ヶ崎の由来

由比ヶ浜と七里ヶ浜に分ける岬の地形が、稲束を積み上げた稲むらに似ていることから名付けられた。

由比ヶ浜から急な坂道を登ると稲村ヶ崎温泉がある。その温泉に浸かりまた由比ヶ浜に帰る。

「世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも 」鎌倉右大臣 百人一首93番

多分、由比ヶ浜から稲村ヶ崎まで歩く道のりの中にこの和歌の碑があった。

松の屋敷

大正9年(1920)神奈川県鎌倉郡鎌倉町極楽寺(現在の鎌倉市稲村ヶ崎)にある新渡戸稲造の別荘に有馬生馬が肺炎で静養するため移り住んだ。別荘の近くに空き家になった西洋館があった。有島生馬が明治23年(1890)にイタリアの生糸貿易商ヴィヴァンティが建てた西洋館を大正10年(1921)に買取る。「松の屋敷」と呼ばれる館は日本近代洋画の活動場となり、昭和の文学者、芸術家が訪れた館になった。

新渡戸稲造の言葉に「人という字は人と人が支えあってできている。」がある。

*「松の屋敷」は昭和57年(1982)10月に有島生馬記念館として蘇った。

長野県長野市信州新町上上条88-3

東西南北の鎌倉の案内地図も見つけてください。

 

 

百人一首

稲村ヶ崎温泉

松の屋敷

西

 

 

エリアナ・パブロワ

「日本バレエの母」と呼ばれる

 

ロシア革命を逃れて来日したエリアナ・パヴロバは、関東大震災の直後から鎌倉・七里ガ浜に住み、多くの門下生にバレエの魅力を伝えましたバレエ教師・バレリーナ。

旧里見弴邸に「七里ヶ浜パブロワ館」の本があった。

七里ヶ浜パブロワ館

暖炉の上にある本

 

1927年 鎌倉の七里ヶ浜に「エリアナ・パブロワ学校」が開設された。

1941年にエリアナ・パブロワは中南支慰問先で病没。

*エリアナ・パブロワの死後は妹のナデジタさんがスタジオを続けました。

鎌倉パブロワ記念館として公開されましたが1996年に閉鎖。

 

鎌倉パブロワ記念館

エリアナ・パブロワ

1990年に鎌倉パブロワ記念館内の写真

日本のバレエでも紹介されています。

今は無き、エリアナパブロワ館の壁には「しらとりは哀しからずやそらのあを うみのあをにも染まずたたよふ」若山牧水の和歌が書かれていました。

 

アンナ・パブロワ

ロシア革命の後、バレエ団を結成してインドや中国などを巡るアジアツアーを行っていたアンナ・パブロワは、1922年に日本で「瀕死の白鳥」を踊る

アンナ・パヴロワはロシアのサンクトペテルブルクに生まれました。9歳の時に母と初めてバレエの舞台「眠れる森の美女」を観劇したことがきっかけでバレリーナを志し、バレエ学校へ入学。その後クラシックバレエの基礎を築いたといわれているマリウス・プティパに認められ、1903年には改訂版『ジゼル』で成功を収めました。

1907年にはミシェル・フォーキン振付の『白鳥』を踊って話題となり、世界的有名バレリーナとして花を咲かせました。

1922年(大正11年)アンナパブロワが来日した。

日本公演は多くの文人も鑑賞しており、芥川龍之介は『露西亜舞踊の印象』で「僕は兎に角美しいものをみた」と賞賛している。

「立ち止まることなく一つの目的を追い求めること。これが成功するための秘密です」

 

 

アンナ・パブロワの写真が表紙の「バレリーナの肖像」鈴木晶

アンナ・パブロワの絵本

瀕死の白鳥
アンナ・パブロワ

 

エリアナ・パブロワに学んだ先駆者たち

 

東勇作、貝谷八百子、橘秋子、服部智恵子、島田廣らがその代表。

「波の音と風の音にあけくれる七里ガ浜」

 牧秋子(1907年〜1971年)

1930年エリアナ・パヴロワに師事。内弟子となる。

1932年エリアナのもとから独立。

1933年4月9日、杉並区宮前に「橘秋子舞踊研究所」を設立した。

1933年5月12日、娘、牧阿佐美を出産。

 

橘バレエ学校創立者(牧秋子)
私も仙台の橘バレエ学校でバレエを3年間、学びました。

そして 1990年に鎌倉にあるエリアナ・パブロワ記念館を訪ねたのです。

 

エリアナ・パブロワに学んだダンサー 東勇作

1910年(明治43)年〜71(昭和46)年

仙台市出身。12 歳、横浜でアンナ・パブロワの来日公演を観て感銘を受け、1930年、エリアナ・パブロワの内弟子となる。

「日本人の特色を生かしたバレエを作りたかったのです。」

舞踊という芸術は、舞台で踊っているその瞬間に人の心を打たなければなりません。
踊っている舞踊家の心が、技術を通して出てこなければいけないのです。
バレエの魅力といってもそれはやはり人間の魅力です。

東勇作

*2014年 仙台の西公園に東勇作氏が踊った「牧神の午後」の像が設置された。

1930年に東勇作氏が鎌倉のエリアナ・パブロワの弟子になり1936年には東勇作バレエ団を開設。

 

東勇作に出会いバレエの世界に入り、海外のバレエ団で踊った

バレリーナ 小川亜矢子

作:小川亜矢子

 

彼女は京都に生まれ、12歳で東勇作に師事し、バレエの世界へ入った。その後、小牧バレエ団に移る。1953年(昭和28)年、小牧バレエ団の『眠れる森の美女』公演にゲスト・ダンサーとして来日したソニア・アロワの紹介により、1953年(昭和28)年に20歳でイギリスへ渡り、サドラーズ・ウエルズ・バレエ・スクールで2年間学んだ。
小牧バレエ団では、1959年(昭和54)年のマーゴ・フォンテインを迎えての公演で、『白鳥の湖』で2羽の白鳥を、『眠れる森の美女』でリラの精を踊るなどの舞台を重ね、長身を使った切れ味のよい踊りで注目された。私はその時の彼女のリラの精を見ているが、さすがに緊張した彼女のやや堅めの踊りが記憶に残っている。
評論家の山野博大氏が書かれた、故小川亜矢子先生のバレエ評論
22歳の時に、イギリスの日本文学研究者のアイヴァン・モリスと結婚し、彼と共にパリに渡ったことで、フランスのバレエを学ぶ機会を得た。さらに彼がコロンビア大学の東洋学部の教授として招聘され、1960年(昭和35)年にはアメリカへ。ニューヨークのメトロポリタンオペラバレエ団で国際的に活躍、ローザンヌ国際バレエコンクールの審査員も務めた。2015年1月7日に亡くなる。
イギリスの日本文学研究者のアイヴァン・モリス
英語圏での古典・近代日本文学の研究進展に寄与し、英文著書のほか三島由紀夫の金閣寺、大佛次郎「旅路」など多数を英訳。同学のドナルドキーン友人であった
二人は離婚した。
小川亜矢子先生のスタジオに通った日々の思い出

私は結婚した当時、東京の杉並に住んでいたので独身時代よく通ったスタジオ一番街のオープンクラスにまた通ってみょうと思うようになりました。しかし、スタジオ一番街は青山にあるベルコモンズの中にスタジオに変わり、名前も「青山ダンシング・スクエア」と言いました。子どもを連れてスタジオに行かなければならないこともあり、あまりスタジオ通いはできませんでしたが、杉並に住んでいたので新宿村スタジオを借りてレッスンしていた事もありました。青山ダンシング・スクエアで学んでいた先生が安藤雅孝先生で、発表会では安藤先生振付のリベルタンゴの曲で生徒20人ぐらいで踊りしました。

その後、2005年に安藤先生、振り付けの「ゆうづる」に出演しました。

安藤先生振り付けの舞台に立つ

2005年 中島久・卯埜賀寿江バレエ研究所にはABC・FACTORYバレエ団があり「ゆうづる」と言う作品に出演しました。

振付家は安藤雅孝

バレエ:ゆうづる
プロデューサー:卯埜賀寿江、
演出・振付:安藤雅孝
キャスト  つう:中島綾子、陽輔:船原孝路、ケンエモン:菊池研
      ほか、ABC・FACTORY
2005年12月25日 東京芸術劇場小ホール
舞鶴夏は2000年に鎌倉で「瀕死の白鳥」を踊り、2002年に横浜市磯子にバレエスクールを開設。
骨髄バンクのチャリティーコンサートで「瀕死の白鳥」を踊り続けながら様々な舞台の公演にも出演していた。
2005年 中島久・卯埜賀寿江バレエ研究所にはABC・FACTORYバレエ団があり「ゆうづる」
ダンスカナガワフェスティバル2010年ー2015年
多胡版「くるみ割り人形」
2017年にバレエスクールを閉校。
2018年に仙台に帰りJUNブログに執筆を続けている。

メッセレル先生のお兄さんが書かれた本

1990年 谷桃子バレエ団公演「シンデレラ」の舞台の楽屋にてメッセレル先生

JUNバレエスクールを紹介する文章 スラメフィ・メッセレル

バレエ大国

2020年2月29日に仙台で「バレエ大国」の本を購入。
私自身もメッセレル先生へのインタビューや資料を元に書いておきます。

スラミフィ・メッセレル先生は、1908年8月27日に8人兄弟の6番目の子として、リトアニアの歯科医の家庭に生まれる。

兄のアサフ・メッセレルはボリショイ・バレエ団のダンサー・教師。著書に「ボリショイ・バレエの技法」があります。旧ソビエト時代、アサフ・メッセレルとスラミフィ・メッセレルは多くの海外公演に参加されました。フランス・ドイツ・デンマーク・オランダ・スウェーデン・ノルウェー・ユーゴスラビア・ブルガリア・ルーマニア・イラン・中国など。

「1960年、ソ連の文化省から日本にバレエ学校がオープンし経験豊かな教師を必要としているというお話があるまで、日本の国、行ったこと無かったです」(メッセレル先生談)

 

 

闘う白鳥

マイヤ・プリセツカヤ

1925年11月20日生まれ。
死没:2015年5月2日(89歳)

1968年、プリセツカヤさんが初めて日本に招かれ「白鳥の湖」を披露する。プリセツカヤさんの踊る「瀕死の白鳥」はその芸術性の高い演技で日本の多くのバレエファンを魅力した。マイヤ・プリセツカヤさんの母方の叔母がスラミフィ・メッセレル先生。
父:ミハイル・プリセツキーは、スターリンの粛清により1938年に銃殺刑に処された。サイレント映画女優だった母ラリサ・プリセツカヤ(スラミフィ・メッセレル先生のお姉)は、人民の敵」の妻と言う理由でカザフスタンへ強制送致される。そん時代のお話です。
1990年10月20日・21日に記録する。
とても難しいお話だった。
メッセレル先生の日本語で書くことにする。

*「闘う白鳥」はプリセツカヤ自身が書いた自伝がある。

 

「瀕死の白鳥」を踊る時にメッセレル先生から頂いたメッセージ

メッセレル先生がプリセツカヤに「瀕死の白鳥」を振付したと書かれています。

プリセツカヤさんが踊る「瀕死の白鳥」

 

メッセレル先生が姪のプリセツカヤさんに「瀕死の白鳥」を振り付けしたのは1941年のことでした。

メッセレル先生からこの救出劇のお話を聞いた翌年の1991年に、メッセレル先生振り付け、谷桃子先生指導の「瀕死の白鳥」を仙台で踊る。
その後結婚し、子育てしながらJUNバレエスクールを開設。10年近く「瀕死の白鳥」を踊り続ける.

2000年に鎌倉芸術館で踊った「瀕死の白鳥」

2000年から2010年まで踊り続けた「瀕死の白鳥」の最後の写真

藤井修治先生の
「瀕死の白鳥」の評論

『瀕死の白鳥」を桃子先生に指導を受けているシーン1991年

 

酒井はな

 Hana Sakai

アメリカ合衆国ワシントン州シアトル生まれ。日本に帰国後に鎌倉で育つ。
5歳からバレエを始め、畑佐俊明に師事。橘バレエ学校、牧阿佐美バレエ団出身。
14歳で牧阿佐美バレエ団公演でキューピット役に抜擢され一躍注目を浴びる。18歳で主役デビュー。以後主な主役を務める。新国立劇場バレエ団設立と同時に移籍。柿落としにより、主役を務める。クラシック・バレエを中心に活動しているがコンテンポラリー・ダンスやミュージカルにも積極的に挑戦、 新境地を拓く。進歩し続ける技術・表現力、品格ある舞台で観客を魅了する日本を代表するバレエダンサーの一人といわれている。
現在新国立劇場バレエ団名誉ダンサー、シニア・ソリスト。
村松賞新人賞、舞踊評論家協会新人賞、中川鋭之助賞、芸術選奨文部大臣賞新人賞、服部智恵子賞など受賞歴多数。
2007年舞踊評論家協会賞受賞。2008年芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

私が鎌倉の本間陽子先生のスタジオの発表会で「瀕死の白鳥」を踊りました。酒井はなさんが観にきて下さりました。

本当にありがとうございました。

渡邉順子

本間陽子先生とメッセレル先生

酒井はなさんと私2000年写真テス

 

 

 

 

 

 

参考にしたバレエの本

闘う白鳥

日本のバレエ

鎌倉パブロワ記念館

七里ヶ浜パブロワ館

メッセレル先生のお兄さんが書かれた本

メッセレル先生について描かれているページがあります。

バレエ王国ロシアへの道

アンナ・パブロワの絵本

私の人生が変わった本
鎌倉のエリアナ・パブロワ館を訪ねる。

参考に読んだ本
(東優作)

日本のバレリーナ

マイヤプリセツカヤの本

ロシアバレエ史

東優作 仙台出身のダンサー・バレエの先生

谷桃子バレエ団

作:小川亜矢子

谷先生のお母様の遺稿集(風の芒)

1990年7月コスモス文学新人賞(同人誌)詩の部門 佳作

9月コスモス文学新人賞(同人誌)ノンフィクション部門 受賞

2000年 第14回新風舎 出版 ノンフィクション部門で2次までは通過 

本の出版までにならなかった。

2022年7月から「ブルーな鎌倉」を描きはじめている。

2020年「谷戸の風にのって」を執筆した。

谷戸の風ー作 山内静夫

多情仏心ー作 里見弴

 

谷戸の風 山内静夫

多情仏心
里見弴

谷戸の風は小津安二郎の映画作品の多くをプロデュースした山内静夫氏の著書「谷戸の風」からヒントを得て作曲。

鎌倉の地には沢山の谷戸がありますが、そこに吹く季節の風、聴こえそうで聴こえない桜の花びらの舞い上がる春の風音。
新緑の木々を渡る風の音。枯葉をくすぐる秋の風。
そして、冬はまるで空気が音を飲み込むかのように静寂な風の音。そんな風の音を人生に重ね4楽章からなる組曲として旋律を書き上げてみました。四季折々の風の音と人生の日々を重ねてお楽しみいただければと思います。
吉川久子「鎌倉」CD解説より

吉川久子さんの音楽を聴き、2020年より書き上げたのが「谷戸の風にのって」です。

谷戸の風にのって 1

谷戸の風にのって2

谷戸の風にのって 3

谷戸の風にのって 4

谷戸の風にのって5

谷戸の風にのって6 春

谷戸の風にのって7

2022年 谷戸の風8

2022年 谷戸の風9

 

2022年7月に旧里見邸を訪ね「ブルーな鎌倉」を執筆しはじめました。

 

石川邸
里見弴邸 人気作家
鎌倉市西御門1-13-10
里見弴が自ら設計し建築した建物

*「ブルーな鎌倉を書く前に」と言う随筆もあります。

鎌倉 里見弴邸

1926年(大正15年)に里見邸は建てられた。

長編「安城家の兄弟」の舞台になった家。

「善心悪心」「多情仏心」「極楽とんぼ」が代表作。

映画監督:小津安二郎とも親しくしていた。

彼岸花の書き下ろしなど映画制作にも関わった。(1958年)

里見弴が38歳の時に建て、48歳まで過ごし家。

その後、扇ガ谷に住み94歳で亡くなる。

里見邸は昭和11年に里見に手放した後は米軍の接収後、ホテルとしても使われ、赤い絨毯がそのまま残されている。

「谷戸の風」山内静夫

われら昭和世代

私は大正14(1925)年の生まれ。大正15年は昭和元年であるから昭和の年代と私の生年月日は全く同じである。昭和の年代は従って非常にわかりやすかった。

生まれたばかりの1歳の時に父が初めて自分の家を鎌倉・西御門に建てた。洋風建築の大きな家で、その頃の西御門辺りでは目立つ豪邸だった。私はそこから二階堂の第二小学校へ通った。

西御門は鎌倉特有の谷戸で、谷戸の入り口の左側には鎌倉師範学校の大きな炊事場があって、朝早くから賑やかだった。

「ブルーな鎌倉」を書く前に

お茶とおにぎり

鎌倉名建築探し

バレエ台本を書いてみよう5.6なども参考にしています。

バレエ台本を描いて踊ってみよう5

バレエ台本を描いて踊ってみよう6

東勇作について

伊達の風 組曲1

伊達の風 組曲2

伊達の風 組曲3

伊達の風 組曲4

エリアナ・パブロワ

鎌倉情報

鎌倉仕事

ダンスカナガワフェスティバル

ダンスカナガワフェスティバル2010年〜2015年

仙台に帰ってきた

「仙台に帰ってきた」2018年7月

 

虹の彼方には「瀕死の白鳥」について書いています。

メッセレル先生・プリセツカヤ。東京バレエ団・谷バレエ団の舞台を観に行っていた日々の記録など。

虹の彼方に1

虹の彼方に2

虹の彼方に3

虹の彼方に4

虹の彼方に5

虹の彼方に6

虹の彼方に7

虹の彼方に8

渡邉順子経歴

渡邉順子 経歴

「瀕死の白鳥」関連リンク

「瀕死の白鳥 物語1」

「瀕死の白鳥物語2」メッセレル先生に学んで。

「瀕死の白鳥物語3」

「瀕死の白鳥物語4」

「瀕死の白鳥物語5」

「瀕死の白鳥物語6」

「瀕死の白鳥物語7」

「瀕死の白鳥物語」遺言

「瀕死の白鳥」の練習風景 

バレエ関連 「瀕死の白鳥」

アンナ・パブロワ

アンナ・パブロワ

私が住んでいた中区の思い出を綴っている「懐かしの本牧暮らし3」

懐かしの本牧暮らし1(横浜編)

懐かしの本牧暮らし2(横浜)

懐かしの本牧暮らし3(横浜)

新国立バレエ団

新国立劇場バレエ団鑑賞記録

最後に

私は右足の靭帯を若い時に怪我し、バレエを辞めた時期もありましたが、激しい動きをしなければなんとかバレエを続けられるようになり、バレエの先生になりました。

私は1991年に「瀕死の白鳥」の指導を谷桃子先生にして頂き、その後、結婚してJUNバレエスクールを開設し15年ほどバレエを教え「瀕死の白鳥」を10年ほど踊りました。

仙台に帰ってからはブログに「仙台暮らし」などを書き、ジムで体操の助手の仕事をした事もありました。外反母趾がひどくなり、2021年、宮城県美術館の創作室に通い絵本などを書いてみようと思うようになりました。

コスモス文学で受賞し、一般公募の募集で2次まで進み、本の出版までは行きませんでしたがブログを立ち上げ。色々書くようになりました。今回はやっと自分の中では大作「ブルーな鎌倉」を執筆しました。是非、皆さんに読んで頂きたいと思います。

私は子どもにバレエを教えていたので次はバレエ童話に挑戦する予定です。

私が「瀕死の白鳥」を踊ることになった時に谷先生から一冊の本(風の芒)を頂きました。

「激しく突っ走り何でもやりぬいた母」 谷桃子が書かれた文章を少し紹介します。

私が三歳のとき、踊りの女神と言われるアンナ・パブロワが来日し、私は連れられて神戸の聚楽館へ行ったのでした。親子ともどもその美しさに魅了され、それから私は音楽が鳴り始めると、パブロワのまねをして踊り出したそうです。母はいつまでもその美しさを忘れることができなかったらしく、後年私が踊るようになってからは「アンナ・パブロワは、ああだった、こうだった」と、私に話して聞かせました。私はときには「世界的な美しい踊りの女神を頭において批判されるのはたまらない。彼女と同じように踊れといっても、とても無理な話よ」と反発したものでした。

昭和58年12月号記載「シリーズ エッセイ 私のお母さん9」ー風の芒より

 

谷桃子先生から「瀕死の白鳥」を指導して頂き、右脚の靭帯を痛めた足で私も10年横浜に「瀕死の白鳥」を踊り続けました。

横浜で10年 踊り続けた「瀕死の白鳥」

2000年

 4月鎌倉芸術劇場、5月横浜市イズミ公会堂

2001年

JUNバレエスクール開設、12月鎌倉芸術劇場、12月根岸駅前ステップジョイホール

2002年

骨髄バンク命のつどいチャリティーコンサート

8月関内ホール、相模大野グリーンホール

2003年

「白鳥の湖」相模大野グリーンホール

2004年

骨髄バンク命のつどいチャリティーコンサート

9月関内ホール、11月よこすか芸術劇場

2005年

骨髄バンク命のつどいチャリティコンサート

6月八王子芸術劇場、11月関内ホール

2006年

骨髄バンクチァリティーコンサート

9月関内ホール、10月よこすか芸術劇場

2007年

骨髄バンクチャリティーコンサート

2月目黒パーシモンホール、4月神奈川県民ホール

2008年

骨髄バンクチャリティーコンサート

4月神奈川県県民ホール、10月テアトルフォンテ Yバレエ

2009年

10月テアトルフォンテ Yバレエ新作「白鳥」

2010年 ダンスカナガワフェスティバル 6月神奈川県立音楽堂

8月いわきアリオス、10月テアトルフォンテ Yバレエ

アンナパブロワの「瀕死の白鳥」に似せた最後のシーン

 

 

 

谷先生から頂いたサイン

谷先生のお母様の遺稿集

谷先生とお母様

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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