「ブルーな鎌倉」

「ブルーな鎌倉」

音色 絵:渡邉順子

文:渡邉順子

 

20代の頃、私は仙台から何度か鎌倉を訪ねました。その頃の私は光の見えない道を歩いていた頃で、鎌倉を尋ねると長谷寺の洞窟を訪ねました。

長谷寺に弁天窟という洞窟があります。その洞窟に入るのです。洞窟にはロウソクを持って入ります。弁天窟は弘法大師が修行された場所でその洞窟の中に弁天様があり、ロウソクを奉納するのです。

30年も前の事で、あまり記憶にはないのですが「鎌倉にまた来たい」と言うのが私の願いでした。長谷寺は結婚して横浜の金沢区に住み娘が生まれてからも訪ねたことがありました。その頃の私は洞窟に入る事はありませんでした。洞窟があることも分からなくなっていました。

そして娘が小学生になると北鎌倉で絵を習い始め金沢区から北鎌倉に通いました。娘が高校生になると私は鎌倉のホテルでアルバイトをしに行きました。金沢区から中区に住んでも鎌倉に仕事に行きました。鎌倉で仕事をしたのは2011年〜2018年。

私は由比ヶ浜から見る空が好き。そして、長谷寺の見晴台から見る町と海。安国論寺の富士見台から見る空と海が好き。ブルーな鎌倉が大好きです。

「鎌倉とバレエ」

1990年

仙台の本屋で『日本ではじめてのバレエ学校 白鳥の夢はるか』まごめやすこ作と言う本に「わたしがバレエを教えていただいた。東優作先生は、こんな話をしてくださいました。ぼくが、バレエを習いはじめたのは、昭和5年。そのころバレエ学校は、鎌倉の七里ガ浜に1軒あるだけでした。東優作先生は、そのバレエ学校にはいるため、わざわざ宮城県の仙台から、でてこられたということです。」
私は友達と鎌倉へ行きエリアナ・パブロワ館を訪ねたのでした。

伊達の風 組曲(東勇作 ダンサー)

なっちゃん仙台でバレエを習う

なっちゃんは幼稚園と小学校は黒のランドセルを背負って、目の前にあるカトリックの学校に通いました。
なっちゃんは小学2年生の2月にバレエを習い始めました。バレエを習った理由はランドセルを背負うだけで肩がこり、いつも泣きながら家に帰ったからでした。
なっちゃんは斜頸で生まれました。首の筋肉が硬くなって頭が横に傾いて生まれてきたのですが、自然と治ったそうです。
但し、ランドセルを背負いうと肩が凝り、バレエを習えば健康になるとお友達のお母さんから勧められ、近所のお友達と一緒にバレエを習い始めました。
なっちゃんは、小さい頃からあまり本を読むのが好きではない女の子でした。
ある日、メメというお友達から「なつちゃん、赤い鳥の本を読んで見ない、面白かったわよ」って言われても、なっちゃんは本を読みのが大嫌いでした。なっちゃんは、担任の先生に頼み、放課後、「一房のぶどう」の本を読んでもらいました。「先生ありがとう。明日、メメに本を読んで貰ったことを話さなきゃ。やっぱりお友達は大切だわ。だって本の話ができるんだもの。」
なっちゃんは担任の先生にこう、話しました。「なっちゃん家はね。お父さんもお母さんも仕事してるでしょ。だからおばあぁちゃんがいつも夜になると『したきり雀』のお話を聞かせてくれるの。ただし、途中で寝ちゃうの。「おじいちゃんとおばあちゃんは昔、東京の目黒に住んでいて雀のお宿がある近所に住んでいたと話てくれるの。本当に雀のお宿があるんだって。」
黒いランドセルを背おい、なっちゃんは目の前の家に帰ります。
いつも、なっちゃんは家に帰ると絵を描いていました。今日の絵は葡萄でした。
なっちゃんが絵を描いているので、自然と弟と妹も絵を書くようになったのです。だから、なっちゃんはいくつになっても、絵を描いているのが好きなの子なのです。
なっちゃんのバレエの発表会のプログラムには東京のバレエの先生の写真があり、祝辞が書かれていました。
「東京の空からご成功をお祈りしております」

なっちゃんはいつか、東京のバレエの先生に会って見たいなーと思っていました。

1982年

高校1年生の時だった。日本バレエ協会東北支部「全国合同バレエの夕べ」に出演するため東京の郵便貯金ホールに出かけた。郵便貯金ホールの隣にあるホテルのロビーで谷桃子先生を見かける。当時、私は仙台のバレエ研究所に通っていた。その研究所の発表会のプログラムに谷桃子先生の祝辞と顔写真が載っていたのを見たことがあったが、写真でしか見たことがない谷先生が目の前を通り過ぎた。まるでシルフィードの妖精のように。16歳で谷桃子バレエ団・研究所の中等科クラスを受けさせて頂き、谷先生とも挨拶を交わした。その後、1986年5月4日、盛岡の黒沢先生のスタジオで谷桃子先生とお会いし東京暮らしを始めることになる。

なっちゃんが20歳になった頃、「バレエの勉強に東京に行きたい」と言うと。親と親戚の猛反対を受けました。
それでも、なっちゃんは東京に出かけて行ったのです。
なっちゃんは東京の目黒で一人暮らしを始めました。東京のバレエの先生の家は、なっちゃんが小さい頃、おばあちゃんに、聞かせれた「雀のお宿公園」の近所にありました。
「上田」と言う苗字が書かれた家になっちゃんは入っていきました。
「あら、なっちゃん。よくここがわかったわね」
なっちゃんは「雀のお宿公園を探しているうちに見つけることができました」と無邪気に微笑みました。
目黒駅の近所にある日本料理屋でアルバイトをしたりしながら、バレエの勉強をしたのですが、風邪をこじらせ、体調が悪くなってしまったのです。
なっちゃんは仙台に帰ることを決めたのです。
それで上田家を訪ね体調が悪いので仙台に帰ると言う事をお話したのでした。

先の見えない未来

なっちゃんは、これからの自分の人生に初めて悩みました。自分はこれからどう生きていけばいいのだろうか?

なっちゃんは小さい頃から上田先生に会いたいと思いながらバレエを習っていました。きちんとした基本の動きをマスターしたい。でもその先には何があるのだろうか?なっちゃんは自分の先の人生がわからなくなってしまったのです。

上田先生の家を訪ねる。

上田:「身体がよくなったらまたお稽古場に来てくださいね。」

なっちゃん:「はい」

なっちゃんの夢はバレエ団の公演に出演する事だったけれど、体調を悪くしたなっちゃんには静養が必要になり、バレエを休まなければならないなったのです。

なっちゃんの夢の東京一人暮らしは8ヶ月で終わり、一人暮らしの部屋をお母さんと片付け、お母さんと一緒にバレエ団に挨拶してなっちゃんは仙台に帰りました。

なっちゃんはお母さんの小料理屋のお手伝いをして、広瀬川の土手を走り、絵を習いに宮城県の大河原まで出かけていきました。絵を習う予定が絵のモデルのアルバイトを始め、スケッチ旅行に出かけました。そのうち仙台の会社に勤め、同人誌の詩の部門で受賞、ノンフィクション部門で受賞。バレエ童話を描き始め、夢はバレエ童話を書く作家を目指すようになったのです。バレエのレッスンも仙台で再開し元気を取り戻しました。

そんなある日、なっちゃんはお友達立と鎌倉を訪ねたのです。

友達と鶴岡八幡宮、鎌倉文学館、七里ヶ浜にあったエリアナ・パブロワ館を訪ね、とても楽しい会話をしながら、美味しい食事をして、鎌倉を歩き廻りました。

その頃のなっちゃんは仙台からたまに東京に行き、六本木にあるスタジオ一番街で小川亜矢子先生のオープンクラスを受けたり、桃子先生のお稽古場に行き、体調がよくなったと報告したり、鎌倉を訪ねたり、東京でバレエ公演を見たりと大忙しの日々でした。

なっちゃんのバレエ鑑賞日記
19879
私はシュットガルトバレエ団公演「ゲテ・パリジェンヌ」の作品を観に東京に出かけた。
19875月まで東京一人暮らしをしていたが、体調を崩し静養の為に仙台に帰る。
久しぶりにバレエの公演が見たいと思い、見に行った。
ベジャール版「パリの喜び」
ベジャールによる自伝的な作品。陽気だけど哀愁。ベジャールがバレエを習った教師役をマルシア・ハイデが演じた。
私が小さい頃のバレエ鑑賞は東北電力ホールでスクリーンで映画を見るようにバレエを観ていた。今も映画館で海外のバレエ団の古い映像がみられる日があるのと同じです。
スクーリンで観た古いバレエ「じゃじゃ馬ならし」
シェイクスピアの喜劇をバレエにした作品で、マルシア・ハイデの演じるキャタリーナが大人しく結婚するまでの物語。
本当に面白いバレエだった。

じゃじゃ馬ならしのハイデ

女優バレリーナ、マルシア・ハイデが演じる、「パリのよろこび」バレエ教師 マダム・ローザンヌを見て、私は最後に大泣きした。今も最後のシーンが蘇る時がある。
記憶も薄れているけど、海外のバレエ作品に触れるのは本をよむことに似ている。
1988年 バレエ学校に入学(仙台)
    「日ソ友好バレエコンサート」に出演
*東京に行き牧阿佐美バレエ団の公演を見に行くようになる。

牧阿佐美先生
橘バレエ学校 仙台教室

1989年バレエ鑑賞記録

仙台から東京へ行き観たバレエ公演の記録

3月5日

東京五反田簡易保険ホール

牧阿佐美バレエ団 公演「ドン・キホーテ」 キトり:川口ゆり子

*当時、仙台のバレエ学校の発表会では川口ゆり子先生と今村博明先生が踊って下さっていました。

ドン・キホーテ

3月10日

上野文化会館

89 都民芸術フェスティバル 日本バレエ協会公演

「ドン・キホーテ」

振付:谷桃子

ドン・キホーテ

5月21日

東京上野文化会館 パリ・オペラ座

パリ・オペラ座バレエ学校公演「ラ・シルフィード」

パリ・オペラ座バレエ学校

7月22日

東京バレエ団創立25周年記念公演

東京バレエ団

11月18日

深川秀夫の世界

深川秀夫の世界

「本日休演」

楽屋に行き、谷桃子バレエ団の大塚礼子、尾本安代さんたち会う。

12月12日

スェーデン国立 クルベリーバレエ団「ジゼル」

クルベリーバレエ団のジゼルに刺激を受けた。

クルベルーバレエ団

1990年

仙台と東京で観たのバレエ鑑賞の記録

松山バレエ団公演

「白鳥の湖」

宮城県民会館

3月29日

桃子バレエ団 移動公演(仙台)

「白鳥の湖」イズミティ21

仙台で先生と仙台こけしと私1990年

30日 山形県民会館

4月20日(東京)

シュットガルトバレエ団公演

「眠れる森の美女」

上野文化会館

5月18日

服部智恵子追悼公演(東京)

五反田簡易保険ホール

6月23日(東京)

第1回インターナショナルエトワール・ガラ

五反田簡易保険ホール

24日

スタジオ一番街サタデーパフォマンス

新宿シアターアップル

10月(東京)

20日、牧阿佐美バレエ団「ナムール」

21日、ユニバーサル団公演

22日、「マンダラ」松山バレエ団公演

24日、BALLET CAPSULE(堀内元)

11月24日

牧阿佐美バレエ団「ホフマン物語」

 

1990年

4月20日(東京)

シュットガルトバレエ団公演

「眠れる森の美女」

スタジオ一番街でレッスンを受け、桃子バレエ団に行き、桃子先生と再会。友達と鎌倉に行く。

鎌倉のエリアナ・パブロワ館を訪ね、バレエの神様に導かれ1991年、ミラノへと旅立ました。

なっちゃんは仙台のバレエ学校の発表会で「コッペリア」の祈りのソロを踊るようになった頃、大好きなスミフィ先生の仕事場に電話を入れました。

スラミフィ先生:「観光旅行でミラノに来ますか?」

「大丈夫、問題ない。私のレッスン。是非です」

1991年5月31日ー6月7日

5月30日仙台-千葉のホテル泊し、帰りは成田空港着、東京のホテル泊して9日に仙台に帰る。

夢見るバレリーナ

小さい頃に見た「夢見るバレリーナ」の本。ミラノ・スカラ座バレエ学校で学ぶアレッサンド・フェリの生まれたミラノへ行く。夢が叶う。

 

 

1991年 なっちゃん25歳

なっちゃん、ミラノ・スカラ座バレエ団でレッスンを受ける。

なっちゃんは18歳の時に盛岡でバレエ教師スラミフィ先生の講習会を受けました。19歳の時には仙台でスラミフィ先生のレッスンを受けました。1989年には体調がよくなってから桃子バレエ団でスラミフィ先生のレッスンを受け、1990年に桃子バレエ団で再会し、スラミフィ先生を取材しました。

1990年にコスモス文学という同人誌のノンフィクション部門で入選を受賞し、本を出版しょうと思うようになったからでした。しかし、本の出版ではなく「瀕死の白鳥」を踊るための大切な資料になったのです。

1990年10月20日・21日に記録する。
とても難しいお話だった。
メッセレル先生の日本語で書くことにする。

1938年3月 ロシア

「スラミフィ・メッセレル 29歳。
私はボリショイ・バレエ団のプリマ・バレリーナでした。まだ、日本の国知らない頃でした。
プリセツカヤのお父さんは1937年5月1日に逮捕されました。無実の罪で。」
*1930年後半、スターリンは反対派を排除・処刑する。『大粛清』と呼ばれ、死亡者8百万〜1千万人といわれる。

「あの時、よくない時間でした。私にはお姉さんいます。ラヒリ・メッセレル。ラヒリ子どもたち、マイヤ・プリセツカヤ、アリクサンドル・プリセツキー、アザーリ・プリセツキー。
私は眠りの森の美女を踊るために楽屋でメーキャップをしていました。急にお姉さんの子供が私を訪ねて来ました。私はびっくりしました。何故ならばボリショイ劇場の楽屋に子供は入ることはできません。、私は何かあった、何かあったと思いました。その前にお姉さんのご主人、プリズンに連れて行かれました。
みんな、みんな夜誰か来ます。連れて行かれます。舞台に立たなければ。一幕のメロディーが始まりました。私は子ども達を私の楽屋に待たせました。子ども達にどうやって劇場に来たか聞きました。
プリセツカヤ『お母さん、スラミフィ叔母さんのいる劇場行きなさい。早く早く』言いました。
スラミフィ・メッセレル『アザーリはどこにいますか?』
プリセツカヤ『わからなーい』
私は兄 アサフ・メッセレルと踊っていました。
アサフの楽屋に行きました。
アサフ『ノーパニック。ノーパニック』
『踊って下さい』
「私は2幕のメロディーを聞きましたから、舞台に立ちました。この日の舞台は何を踊ったか覚えていません。私はマイヤとアリクを連れて子供達の家(ラヒリの家)に行きました。ドアは閉まったままでした。
だれもいない。
何度もドアをたたきました。
よく朝早く、お姉さん(ラヒリ)の家に行きました。ドアは閉まったままでした。だれもいない。なんどもドアをたたきました。次の日の朝早く、お姉さんの家に行きました。2人のミラタリーが立っていました。お姉さんの赤ちゃん(アザーリ・プリセツキー)とお姉さんはモスクワ市にあるブトィルスカヤ刑務所に連れて行かれました。」

マイヤはスラミフィ・メッセレルの家に、弟のアレクサンドルはスラミフィの兄アサフ・メッセレル宅に引き取られることになる。

姉ラヒリの居場所が全く分からなくなった頃、
「私は郵便局でとても小さい手紙を見つけました。新聞の端切れ。当時はトイレットペーパーがありませんから新聞紙を使ってました。
エンピツもない場所だったので、マッチの燃えかすで字を書いた手紙。アクモリンス収容所。」

*この事についてプリセツカヤの自伝「闘う白鳥」にこう書かれている。
—母は窓際に陣取る。手には新聞の切れ端が握りしめられていた。そこには、マッチ棒の硫黄で書き込んだミータ(スラミフィ・メッセレル)の住所。小さな字でアクモリンス収容所と書かれている。列車が人気のない踏切で一時停止をしたとき、小旗を手にした、綿入りジャンパーの暗い顔つきの女性と目が合った。母は丸めたメモを指先で女性の足元にはじき飛ばした—。

お姉さんを訪ねるためには、大人も子供も、家畜運搬用列車に乗るしかなく、メッセレル先生はその列車でカザフ共和国チムケントにお姉さんを訪ねて行く。

「ちょうど、ボリショイ・バレエ団、夏休みでした。私は駅へ行きました。たくさんの人、駅でキップを待ちます。私はとても若いでした。細い、細いでした。ボリショイ・バレエのプリマ・バレリーナ。一年に一回、無料で旅行が出来ます。私は駅ですぐ旅行のキップをもらいました。私は一週間かけてカザフスタンに行きました。」

「何もない所、食べる物もない。とても小さい家がありました。プリズンにお姉さんから届いた手紙を見せました。私はトラックに乗り何もない場所を走り続けました。小さい建物。とても偉い人に私は会いました。お姉さんに会いたい。
とても長い時間、部屋で待ちました。
やっとお姉さんに会えました。
収容所で重いものを運ばせられ、手押し車を引かされ重度のヘルニアにかかっていました。
私は腰の手術を受けさせてほしいと頼みました。
色々、色々努力しました。」

1941年4月に姉のラヒリとプリセツカヤの弟アザーリ・プリセツキーは釈放され帰って来る。

*このお話を聞き、1991年が初演、その後、2000年に鎌倉で踊り、横浜で「瀕死の白鳥」を踊るバレリーナになりました。

*2007年は骨髄バンクチャリティーコンサートに2月 目黒パーシモンホール。4月 神奈川県民ホール。8月 宮城県民ホール。やっと生まれ故郷 仙台でも、「瀕死の白鳥」を踊ることができました。私がマイヤ・プリセスカヤさんの踊る「瀕死の白鳥」を見た宮城県民ホールで踊られたことに感謝しています。

瀕死の白鳥の歩み

2000年 4月鎌倉芸術劇場・5月横浜市イズミ公会堂

2001年 JUNバレエスクール開設・12月鎌倉芸術劇場・根岸駅前 ステッジョィホール

2002年 8月関内ホール・相模大野グリーンホール

2003年 白鳥の湖 相模大野グリーンホール

2004年 9月関内ホール・11月よこすか芸術劇場

2005年 6月八王子芸術劇場・11月関内ホール

2006年 9月関内ホール・10月よこすか芸術劇場

2007年 2月目黒パーシモンホール・4月神奈川県民ホール・8月宮城県民会館

2008年 4月神奈川県民ホール・10月テアトルフォンテ

2009年 10月テアトルフォン

2010年 6月神奈川県立音楽堂・8月いわきアリオス・10月テアトルフォン

白鳥の羽

 

なっちゃんはスラミフィ先生から「アルファベットがすべて覚えられなければ単語は書けない」

バレエの基礎の大切さを教えた先生がスラミフィ先生でした。

なっちゃんが20歳の時に東京で、スラミフィ先生がロシアで踊ったグリンカ作曲「ルスランとリュドラ」の主役を踊りました。25歳になった、なっちゃんは仙台からスラミィ先生を訪ねイタリアのミラノ・スカラ座バレエ団に行ったのです。

なっちゃんは、スラミィ先生の泊まっている、ミラノのホテルに電話しました。そして、宿泊するホテルもスラミフィ先生と同じホテルに予約を入れ、1週間、ミラノ・スカラ座バレエ団でゲスト教師、スラミフィ先生のレッスンを受けたのです。毎日、スラミフィ先生と一緒にスカラ座に出勤。スラミフィ先生のサインがあるだけで、なっちゃんはバレエ団のレッスンを受けることができたのです。

スラミフィ先生の家はイギリスにありましたが、よく東京に仕事で出かけることが多い先生で、なっちゃんが連絡をとった時はイタリアでバレエ団のゲスト教師の仕事をしていました。

スラミフィ先生:「貴方はバレリーナですから痩せている事が大切です」

なっちゃんの身長160センチ、体重43キロ

50歳過ぎても、なっちゃんの体重にあまり変わりません。

朝 10:00-12:00までスラミフィ先生のレッスンを受けました。午後からはゆっくりミラノの街を散歩して、1週間と言う短いイタリア暮らしを経験しました。

イタリアのミラノでレッスンを受けただけだったので、他の街には行けませんでした。ヴェローナの街を訪ねればもっとシェクスピアの文学にも触れることができたのになーと思いす。ヴェローナはウィリアム・シェクスピアの不朽の名作「ロミオとジュリエット」の舞台になった街です。「ロミオとジュリエット」のバレエは様々なバレエ団、公演で見ましたがヴェローナを訪ねればもっと深く作品に触れることができるのだろうと思いました。

須賀敦子
(1929-1998)

1929年生まれ。聖心女子大学卒業。24歳で初めてイタリアを訪れ、29歳からの13年をイタリアで過ごす。

1961年、ジュゼッペ・リッカと結婚、谷崎潤一郎をはじめとする日本文学の伊訳を多数出版。

6年後に夫が急逝。1971年帰国。1972~1984年慶応義塾大学外国語学校で講師を務める。1973年上智大学国際部比較文化学科非常勤講師、同部大学院現代日本文学科兼任講師(後に比較文化学部教授)。56歳でイタリア体験をもとにした文筆活動を開始。1991年『ミラノ 霧の風景』(白水社)で女流文学賞
講談社エッセイ賞を受賞。1998年心不全で他界。

ブログ作業中の呟き JUN日記

ブログ作業中の呟き JUN日記

ウンベルト・サバ

サバの母親はユダヤ人。幼いサバはこの町のゲットーで育ってられた。若くして職につき、自らの生計をたてねばならなかったサバは、自分の中に流れるユダヤ人の血に深い愛着を持ち、すすんで父親のイタリア名を棄て、ヘブライ語でパンを意味する、サバというペンネームを撰んだ。

ユリニーズ

若いころ おれは ダルマチアの

沿岸で 海を渡った。波がしらに

小さい島々が 見えかくれして まれに

鳥が一羽 獲物を狙って 羽を休めた

藻に被われた 島々は ぬるぬるして

エメラルドのように 太陽に燦いた。満ち潮と

夜が すべてを消し去ると 風下の

帆は その陰険な陥し穴を避け

はるか沖合に はためいた。今日

おれの王国は あの  NO MANS LAND 港は

他人のために 灯りをともし まだ 意地をはる

精神と 傷だらけの人生への 愛が

おれを 沖へと 突き返す

1946年 地中海

イタリアの詩人たち

須賀敦子

1957年 サバはトリエステに程近いゴリツィアの病院で74歳の生涯を閉じる。

妻リーナの死の数カ月後のことだった。

*「トリエステ」町の詩も書いてあった。

イタリアのトリエステと言う街を調べていた。オーストリア(ハプスブルク帝国)による統治時代の影響を強く、街並みに色強く残っている。

須賀敦子「トリエステの坂道」の本がある事を知る。

トリエステの紹介

http://www.crotabi.com/7-reasons-to-visit-trieste/

もう雨が
もう雨がやってきた。
ひっそりとした 空気を
揺する。
ロムバルディアの 湖の
光を失った水面を 燕が かすめる。
小魚を追う 鴎のように とぶ。
野菜畑のそとがわでは 牧草が 匂う。
また 一年 燃えつきた。
日をかちとるための 突然の
嘆きもなく 叫びとて なく。
サルヴァトーレ・クワジーモド
1901-1968
イタリアの詩人たち
須賀敦子
須賀敦子のミラノ
大竹昭子
石と霧のあいだで、ぼくは
休暇を愉しむ。大聖堂の
広場にきてほっとする。
星のかわりに夜ごと、ことばに灯がともる。
生きることほど、人生の疲れを癒やしてくれるものは、ない。
ウンペルト・サバ
三つの都市 ミラノ
須賀敦子訳

ゆっくりとミラノを思い出しながら須賀敦子さんの「トリエステの坂道」を読んで見たいと思いました。

なっちゃんは仙台で会社に勤め、土曜、日はたまに東京に行き六本木のスタジオでオープンクラスのレッスンを受け、普段はバレエ学校の生徒。それが海外のバレエ団の稽古場でレッスンができるだなんて。なっちゃんにとって、スラミフィ先生はバレエの神様。スラミフィ先生がいれば、鬼に金棒。

メッセレル先生と。
ミラノ・スカラ座バレエ」団にて。

スラミフィ先生と出会ったなっちゃんは、その後、仙台で「瀕死の白鳥」を踊り、桃子バレエ団の公演に出演し、結婚、横浜でバレエの先生になりました。

なっちゃんは56歳になり、若い時に夢見た、バレエ童話作家になる夢を叶えたいと思っているのです。

 

上田桃子先生から学んだバレエ

「瀕死の白鳥」を踊る桃子先生の写真

ミラノ・スカラ座バレエ団でスラミフィ先生のレッスンを受けてから、なっちゃんはどうしてもスラミフィ先生に振り付けして頂いた「瀕死の白鳥」を仙台で踊りたいと思うようになりました。

「瀕死の白鳥」は仙台で開催されたスラミフィ先生の講習会で教わったのです。

その頃のなっちゃんはバレエ学校でバレエを習っていましたが、バレエダンサーになるため、別のバレエスクールで日々、スタジオを借り、毎日のように「瀕死の白鳥」の練習に励みました。仕事が終わるとスタジオで自習。もうバレエダンサーになったような生活ぶりでした。

そして六本木にあるオープンクラスでレッスンを受け、桃子先生から「瀕死の白鳥」を指導していただきました。

桃子バレエ団の稽古場
桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導を受ける。
「私より先に死ぬな」、「年功序列」と先生に言われ、最後の場面ではいつも手首をひねる程度で、先生の目の前で息を止めることはありませんでした。
1991年の「瀕死の白鳥」のリハーサルでは真剣な部分もあったが「死」に対しては、まだこれから学ぶものという未来があり、谷先生自身もいつかは訪れる死であっても「今はなっちゃんに教えていると楽しいわ~」という雰囲気の中でのリハーサルだった。但し、「まっとうして死ぬ」という言葉になると、まるで先生自身に言い聞かせているかのように真剣になられた。

仙台から上京し、桃子バレエ団・研究所に学び始めた私の心には「諦めが肝心」という答えが先に出ていて、自分自身の心に負けていた。8ヶ月間の東京暮らしを終え帰省した私は、絵のモデルをしながら、絵を描き、気持ちの整理をしていた。桃子先生からは「お元気になられたら、何時でも桃子バレエ研究所にいらして下さい。あせらずに…ね」というお手紙を頂戴した。そして1986年に桃子バレエ団・研究所で学んでから5年の歳月を経て、ついに、やっと桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導を受けることができた。

私の「瀕死の白鳥」とマイヤ・プリセツカヤの「瀕死の白鳥」の振り付けは、スラミフィ・メッセレル先によるもので同じ振り付けだった。後ろに反り手をバタバタさせる振り付けや、地べたに伏してから片脚で立つ振り付けなど、ダイナミックな振り付けだ。多分、メッセレル先生が振り付けし、メッセレル先生が指導すれば「ボリショイ、ボリショイ」と言われる瀕死の白鳥になったことだろう。「瀕死の白鳥」で有名なアンナ・パブロワの振り付けはフェーキン版で、なんども地べたに伏して最後に死を迎えるが、メッセレル版はいちばん最後に地べたに倒れる

闘い続けた白鳥は、勝利者として死んでいくと私は理解し踊ってきた。闘い続けるというのは、私には踊り続けるという意味だった。「瀕死の白鳥」を踊る意味は、平和への願いと祈り。

 

 

「瀕死の白鳥」リハーサル

桃子バレエ団・研究所の初等科・中等科のレッスンを受けている私が、桃子先生のレッスンを受け、直接指導をうける日なんて来ない、諦めが肝心だわ、私は思っていた。私はたぶん谷先生に「東京へは遊びに来ただけです。」と話し仙台に帰ったように思う。

大きな夢が破れた気持ちだった。8歳からバレエを始めた私は、桃子先生の写真を眺めながら、いつか桃子バレエ団に入って公演に出演するのが夢だった。日本バレエ協会の東北支部の主役だって踊れたし、次の夢は桃子バレエ団の団員になること。だが、東京暮らしを始めた途端、その夢を現実にするのは到底無理な話だと逃げ出した。(笑)。でもこの無理を何とか可能にすることができた。桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導も受け、再び、桃子バレエ団でバレエを学ぶようになりましたが、心が弱い事と靭帯の怪我が原因で桃子バレエ団の1983年の新春公演「ドンキホーテ」に出演し、結婚、バレエを辞め、出産、バレエの先生になりました。

桃子バレエ団の公演に出演した記録

平成4 年(1992年) 10月26日から「くるみ割り人形」のリハーサルが始まる

11月15日わらび市「くるみ割り人形」に出演(会館主催)

11月16日えびな市「くるみ割り人形」に出演(学校公演)

11月18日新春公演「ドン・キホーテ」のリハーサルが始まる

12月3日「くるみ割り人形」のリハーサル始まる

12月13日小川町で「くるみ割り人形」に出演(会館主催)

平成5年(1993年)1月8日川口総合文化センター「ドン・キホーテ」出演

9・10日簡易保険ホール「ドン・キホーテ」出演

7月18日 「くるみ割り人形」ハイライツ ニューフィル千葉定期公演

8月5・6日第33回生徒発表会 白鳥の湖 第3幕に出演 高等科

*ダンスカナガワフェスティバルにて2013年6月「くるみ割り人形」アラビアの踊りを振付して踊る。

ダンスカナガワフェスティバルにて「瀕死の白鳥」を踊る(2011年6月18日)

 

1993

順子 27
新春公演「ドンキホーテ」・学校公演「くるみ割り人形」に出演する。
谷桃子先生 勲四等宝冠章受賞

谷桃子先生と1993年

1994
順子 28歳 結婚
1995
順子 29
メッセレル先生が東京バレエ団の仕事で1月末〜10月まで来日。プリセツカヤさんの弟、アザーリ・M・プリセツキー氏が牧阿佐美バレヱ団で「ロメオとジュリエット」を振り付けするために来日。メッセレル先生が宿泊中のマンションで出会う。
1991年に渡邉順子が踊った「瀕死の白鳥」のビデオをアザーリさんとメッセレル先生に見て頂き、「瀕死の白鳥」の最後の手の動きの部分の指導を受ける。

東京バレエ団

「闘うバレエ」佐々木忠次(東京バレエ団 団長)の書かれた本を参考に東京バレエ団の歴史を描き始めたいと思います。

そして、この本にはよくスラミフィ・メッセレル先生の名前が登場してくれます。1997年に東京バレエ団主催で行われた「メッセレル先生の勲三等瑞宝章のお祝いの会」に私たち家族が出席しました。メッセレル先生から声をかけて頂き、出席させて頂いたことが一生の宝物になっています。

メッセレル先生

1926年にボリショィ劇場に入団し、リーディング・ソリストとして1950年まで活躍した。1947年に「パリの炎」でスターリン賞を受賞。引退後はボリショィ劇場付属舞踊学校で教職に就いた。現役時代からバレエ学校で教えている。日本のバレエ界でも貢献したバレエ教師。1996年に勲三等瑞宝章を受賞。1997年 勲章三等瑞宝章を祝う会が行われた(東京バレエ団主催)2000年大英帝国章を受賞。

*メッセレル先生はエリザベータ・ゲルトに師事。ゲルトの父はアンナ・パブロワを教えたバレエ教師。

 

谷先生、娘、私、メッセレル先生1997年勲章3等瑞宝章を祝う会に出る。

 

 

「闘うバレエ」
佐々木忠次

 

佐々木忠次

「闘うバレエ」佐々木忠次(東京バレエ団 団長)について

オペラ・バレエ プロデューサーであり、公益財団法人日本舞台芸術振興会(NBS)/東京バレエ団代表の佐々木忠次(ささきただつぐ)は、目黒区の自宅で病気療養中のところ2016年4月30日未明、心不全のため死去いたしました。享年83歳。

1933年2月13日、東京に生まれた。六人兄弟の次男。父は両国で缶詰工場を経営していた。母は仙台の伊達家の末裔の家柄。

「日本人は西洋人には体型で勝てるはずがない。けれど、アンサンプルでは勝てるのではないか。コール・ド・バレエのひどさを見て、そう思った。むしろ「白鳥の湖」はかくあるべしというアンサンブルを作れるのは日本人ではないかと思った」佐々木さんの言うこと通り東京バレエ団のコールド・バレエ(群舞)の美しさは世界に通じた。

1989年 ノルマイヤー振付「月に寄せる七つの俳句」東京バレエ団

この公演を観たので佐々木忠次さんがこの作品について書いている文章を探してみた。

1989年 シュツットガルトでノルマイヤーの「月に寄せる七つの俳句」を上演した時のことだ。もちろんお客は超満員で拍手もすごかった。幕が下りてから舞台に上がってきたノイマイヤーはブラヴォーとは言わなかった。「ムーヴメント、ムーヴメント」。そればかり言って帰ってしまった。

俳句に合わせた非常に詩的なバレエで、みんなが思いっきり動いてしまったら、日本の詩の神秘性は失われるだろう。

小林一茶の句

「赤い月 是は誰がのぢゃ 子供たち」

「赤い月」を、日本語でなく、イタリア語で「ルナ・ロッサ」と言ってもいいかもと言えば、そうは違う。日本語で朗読されるから詩を感じるのだ。実際、イタリア公演の際に、イタリア語にするのはやめようと言ったのは、スカラ座だったのだ。赤い月はイタリア語で「ルナ・ロッサ」で、「ルナ・ロッサ」というだけでイタリア人にはそれが何かとても軽いバレエに見えてしまうというのだ。日本語でミステリアスに、意味がわからないけど何か詩を語っているんだと思わせるほうが、芸術的な感銘が深い。

日本の俳句をバレエにして世界の舞台で舞う世界を作る事、自体が素晴らしいと思った。

 

1996
順子 30
戦後50年記念特別記念企画「1945・・・そして今に」谷桃子先生が出演し、1歳になる娘を連れて挨拶のため谷桃子先生の楽屋を訪ねる。舞台は娘を連れず私一人で鑑賞。
1997
順子 313月 スラミフィ・メッセレル先生の勲三等瑞宝章をお祝いする会に家族で出席する
東京バレエ団の仕事でメッセレル先生が来日。
 
1998
順子 32
谷桃子バレエ団公演を観る。
「白鳥の湖」王子 ゲスト出演 熊川哲也
1999
順子 33
娘を連れて観に行った。谷桃子バレエ団の公演
「創作バレエ 卒業舞踏会・テス」
メッセレル先生が東京バレエ団の仕事で来日中。
2000
順子 34
谷桃子バレエ団公演「ロメオとジュリエット・令嬢ジュリー」を観る。
2000年メッセレル先生のお弟子さんの鎌倉のスタジオの発表会で順子「瀕死の白鳥」を踊る。(客演)
14回新風舎出版ノンフィクション部門に公募。2次を通過したが出版にはならなかった。メッセレル先生のことを本にしょうと1990年から書き続け一つの形になった。今も大切な原稿。

2001年 バレエスクールを開設

2000年から2010年まで踊り続けた「瀕死の白鳥」の最後の写真

「白鳥の湖」

「ルスランとリュドミラ」を踊る渡邉順子  メッセレル先生振付

 

 

*2000年に「瀕死の白鳥」を踊る時には「きちんと息を止めて踊りなさい」という指導を頂き踊りました。

なっちゃんが「瀕死の白鳥」を踊ることになった時に桃子先生から一冊の本(風の芒)を頂きました。

「激しく突っ走り何でもやりぬいた母」

私が三歳のとき、踊りの女神と言われるアンナ・パブロワが来日し、私は連れられて神戸の聚楽館へ行ったのでした。親子ともどもその美しさに魅了され、それから私は音楽が鳴り始めると、パブロワのまねをして踊り出したそうです。母はいつまでもその美しさを忘れることができなかったらしく、後年私が踊るようになってからは「アンナ・パブロワは、ああだった、こうだった」と、私に話して聞かせました。私はときには「世界的な美しい踊りの女神を頭において批判されるのはたまらない。彼女と同じように踊れといっても、とても無理な話よ」と反発したものでした。

昭和58年12月号記載「シリーズ エッセイ 私のお母さん9」ー風の芒より

谷先生とお母様

谷先生のお母様の遺稿集

 

アンナ・パブロワの日本公演 1922年(大正11年)

東京9月10日〜29日 帝国劇場

横浜9月30日〜10月3日 横浜劇場

名古屋10月4,5 日 末広座

大阪 10月6 日〜10日 角座

神戸 10月11日〜17日 衆楽座

京都 10月18日〜21日 南座

岡山10月23日 岡山劇場

広島10月24日 壽座

博多10月26、27日 大博劇場

門司10月28、29日 凱旋座

瀕死の白鳥
アンナ・パブロワ

2022年

桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導を受けて「今」思うこと

「一つのこと」
亡き谷先生の指導で言われた言葉です。
色々、考えましたが、多分、古代中国の孔子が一言、弟子の曾子に厳として語った。
「我が道は一以てこれを貫く」
谷先生が言われた「一つのこと」の意味だと思います。
谷先生から「瀕死の白鳥」を指導して頂いた時の話しですから、30年は経っています。
「一以て」
私は文学の道の中で先生の指導を貫いて生きたいと思っています。
本当に貴重な時間、ありがとうございました。
今の私はいかなる道を開拓し、残してゆくかを考えている。
詩人・中原中也は「価値は努力の中にだけある」と言う言葉を噛み締め、自分なりの努力を続けて行きます。

バレエと鎌倉の思い出

七里ヶ浜を訪ねると。海と風からできる波音のメロディーが聴こえる。ブルー色のレオタードを着たバレリーナたちが楽しげに舞う姿を想像してしまう。いつも七里ヶ浜の海はキラキラ光り輝いている。

音色 え:渡邉順子

 

1990年に友達と鶴岡八幡宮、鎌倉文学館、七里ヶ浜にあったエリアナ・パブロワ館を訪ね、なっちゃんは2000年に鎌倉芸術館で「瀕死の白鳥」を踊りました。

2001年になっちゃんは娘にバレエを教えるためにバレエスクールを開設しました。そしてたった一人の生徒(娘)と共に鎌倉の舞台に立ちました。そして横浜で15年バレエを教え、仙台に帰りました。

桃子先生から「瀕死の白鳥」を指導して頂き、右脚の靭帯を痛めた足で10年間、横浜で「瀕死の白鳥」を踊り続けた記録

横浜で10年 踊り続けた「瀕死の白鳥」

2000年

4月鎌倉芸術劇場(娘と二人で出演する)5月横浜市イズミ公会堂

2001年

バレエスクール開設、12月鎌倉芸術劇場(Jバレエスクールの生徒たちと出演する)

12月根岸駅前ステップジョイホール

2002年

骨髄バンク命のつどいチャリティーコンサート

8月関内ホール、相模大野グリーンホール

2003年

「白鳥の湖」相模大野グリーンホール

「白鳥の湖」

2004年

骨髄バンク命のつどいチャリティーコンサート

9月関内ホール、11月よこすか芸術劇場

11月にメッセレル先生の追悼のためによこすか芸術劇場で「瀕死の白鳥」を踊る。

スラミフィ・メッセレル先生
他界

2004年に踊った「瀕死の白鳥」

2005年

骨髄バンク命のつどいチャリティコンサート

6月八王子芸術劇場、11月関内ホール

2005年

ABC・FACTORYバレエ団「ゆうづる」公演に出演。

2006年

骨髄バンクチァリティーコンサート

9月関内ホール

「母への舞」

10月よこすか芸術劇場

 

2007年

骨髄バンクチャリティーコンサート

2月目黒パーシモンホール *石笛久乃さんのCDを使用する

4月神奈川県民ホール

2008年

骨髄バンクチャリティーコンサート

4月神奈川県県民ホール、10月テアトルフォンテ Yバレエ

2009年

10月テアトルフォンテ Yバレエ新作「白鳥」

私自身が振り付けした
「白鳥」

2010年 ダンスカナガワフェスティバル 6月神奈川県立音楽堂

 

8月いわきアリオス、10月テアトルフォンテ Yバレエ

「瀕死の白鳥」の最後のシーンをアンナパブロの最後の振りに変えて踊ったこともありました。

 

アンナパブロワの「瀕死の白鳥」に似せた最後のシーン2007年

アンナブロワの「瀕死の白鳥」

 

鎌倉市 腰越を訪ねて作り上げたバレエ

2013年7月1日から数年間、鎌倉駅の発車メロディーとして童謡「鎌倉」が流れていました。
私は丁度その頃、由比ヶ浜にある結婚式場で土曜日、日曜日だけ仕事をしていた。
22時頃になると、鎌倉駅で童謡「鎌倉」の音色の聴こえ、横浜に帰ったものでした。

なっちゃんは鎌倉育ちの石笛久乃さんのCDと出会い、石笛さんのコンサートを聴きに行くようになり、腰越の山の上のサロン「きよこ」を訪ね、初の作曲「湘南太平記」の曲を聴きに行きました。

石笛久乃さんの出会い

2006年の秋に横浜駅のCDショップで石笛さんのCD「ヴィヴィト」を購入しました。
石笛さん奏でる「白鳥」・「アメージング・グレース」の曲を使用し、踊ると決めたからでした。

2007年に骨髄バンクチャリティーコンサート 「命のつどい」で瀕死の白鳥の曲として吉川久子さんのCDヴィヴィトに導入されている「白鳥」を使用して「瀕死の白鳥」を踊りました。

2008年2月に石笛久乃さんのCDヴィヴィトに導入されている「アメージング・グレース」をJバレエスクールの生徒と一緒に踊りました。
石笛さんが横浜市磯子区在住の方だと分かり、2008年にJバレエスクールの舞台を観に来て頂きました。

その後、バレエスクールからバレエ塾と名前を変わりました。
根岸駅にあるスタジオから磯子のスポーツセンターの研修室に場所を変え、小さな子ども達10名の生徒を教えるバレエ塾になりました。

2009年12月12日
金沢区の長浜ホールでバレエ塾の発表会を開き。石笛久乃さんを招いてのコンサート形式の発表会でした。

2013年6月1日
横浜市金沢区にある劇場に石笛さんを招き、生のフルート演奏で一人で踊る体験レッスンを開催。

バレエ塾の生徒が一緒懸命、フルートの音に合わせて踊りました。

フルート演奏者を招いてのレッスン

鎌倉仕事で2011年から2018年まで鎌倉の七里ヶ浜の海を見ながら私は日本の「瀕死の白鳥」である鷺娘を振り付けしました。

多分、鎌倉でエリアナ・パブロワでバレエを学んだ先生たちは日本のバレエを作り上げたいと思ったのではないでしょうか。

2014年
ヨコハマ コンペティション
バレエ鷺娘
音楽 吉川久子 湘南太平記

「瀕死の白鳥」を10年踊り続けバレエ鷺娘を創作し、2014年に横浜のモダンのコンクールで踊りました。

「バレエ鷺娘」
モダンのコンクールで踊りました。

鷺娘1

鷺娘2

七里ヶ浜のバレリーナたち

海には響き渡るリズムがる。

永遠のリズム。

海は生命の浄化であり、芸術は深化し続ける

なっちゃんはスラミフィ先生に「瀕死の白鳥」の振り付けを教わり、桃子先生に指導を受け「瀕死の白鳥」を踊りましたが「瀕死の白鳥」を踊ったバレリーナたちについても勉強しました。

エリアナ・パブロワ

エリアナ・パブロワ

エリアナ・パブロワ

「日本バレエの母」と呼ばれる

ロシア革命を逃れて来日したエリアナ・パヴロバは、関東大震災の直後から鎌倉・七里ガ浜に住み、多くの門下生にバレエの魅力を伝えましたバレエ教師・バレリーナ。

1927年 鎌倉の七里ヶ浜に「エリアナ・パブロワ学校」が開設された。

1941年にエリアナ・パブロワは中南支慰問先で病没。

*エリアナ・パブロワの死後は妹のナデジタさんがスタジオを続けました。

鎌倉パブロワ記念館として公開されましたが1996年に閉鎖。

今は無き、エリアナパブロワ館の壁には「しらとりは哀しからずやそらのあを うみのあをにも染まずたたよふ」若山牧水の和歌が書かれていました。

エリアナ・パブロワに学んだ先駆者たち

 

東勇作、貝谷八百子、橘秋子、服部智恵子、島田廣らがその代表。

 牧秋子(1907年〜1971年)

「波の音と風の音にあけくれる七里ガ浜」

 牧秋子(1907年〜1971年)

1930年エリアナ・パヴロワに師事。内弟子となる。

1932年エリアナのもとから独立。

1933年4月9日、杉並区宮前に「橘秋子舞踊研究所」を設立した。

1933年5月12日、娘、牧阿佐美を出産。

牧阿佐美バレエ団が誕生する。

本名:福田阿佐美

日本のバレリーナ、振付家、牧阿佐美バレエ団総監督、新国立劇場舞踊芸術監督、新国立劇場バレエ研究所所長。

2021年10月20日亡くなる。

橘バレエ学校創立者(牧秋子)
私も仙台の橘バレエ学校でバレエを3年間、学びました。

1990年に鎌倉にあるエリアナ・パブロワ記念館を訪ねたのです。

 

貝谷八百子

1921年3月15日-1991年3月5日

 

エリアナ・パブロワに学んだダンサー 東勇作

1910年(明治43)年〜71(昭和46)年

仙台市出身。12 歳、横浜でアンナ・パブロワの来日公演を観て感銘を受け、1930年、エリアナ・パブロワの内弟子となる。

「日本人の特色を生かしたバレエを作りたかったのです。」

舞踊という芸術は、舞台で踊っているその瞬間に人の心を打たなければなりません。
踊っている舞踊家の心が、技術を通して出てこなければいけないのです。
バレエの魅力といってもそれはやはり人間の魅力です。

東勇作

1930年に東勇作氏が鎌倉のエリアナ・パブロワの弟子になり1936年には東勇作バレエ団を開設。

*2014年 仙台の西公園に東勇作氏が踊った「牧神の午後」の像が設置された。

仙台 西公園 東優作像

 

東勇作に出会いバレエの世界に入り、海外のバレエ団で踊った

バレリーナ 小川亜矢子

作:小川亜矢子

 

彼女は京都に生まれ、12歳で東勇作に師事し、バレエの世界へ入った。その後、小牧バレエ団に移る。1953年(昭和28)年、小牧バレエ団の『眠れる森の美女』公演にゲスト・ダンサーとして来日したソニア・アロワの紹介により、1953年(昭和28)年に20歳でイギリスへ渡り、サドラーズ・ウエルズ・バレエ・スクールで2年間学んだ。
小牧バレエ団では、1959年(昭和54)年のマーゴ・フォンテインを迎えての公演で、『白鳥の湖』で2羽の白鳥を、『眠れる森の美女』でリラの精を踊るなどの舞台を重ね、長身を使った切れ味のよい踊りで注目された。私はその時の彼女のリラの精を見ているが、さすがに緊張した彼女のやや堅めの踊りが記憶に残っている。
評論家の山野博大氏が書かれた、故小川亜矢子先生のバレエ評論
22歳の時に、イギリスの日本文学研究者のアイヴァン・モリスと結婚し、彼と共にパリに渡ったことで、フランスのバレエを学ぶ機会を得た。さらに彼がコロンビア大学の東洋学部の教授として招聘され、1960年(昭和35)年にはアメリカへ。ニューヨークのメトロポリタンオペラバレエ団で国際的に活躍、ローザンヌ国際バレエコンクールの審査員も務めた。
2015年1月7日に亡くなる。
イギリスの日本文学研究者のアイヴァン・モリス
英語圏での古典・近代日本文学の研究進展に寄与し、英文著書のほか三島由紀夫の金閣寺、大佛次郎「旅路」など多数を英訳。同学のドナルドキーンが友人であった。
二人は離婚した。

アンナ・パブロワ

アンナ・パブロワ

瀕死の白鳥
アンナ・パブロワ

ロシア革命の後、バレエ団を結成してインドや中国などを巡るアジアツアーを行っていたアンナ・パブロワは、1922年に日本で「瀕死の白鳥」を踊る

アンナ・パヴロワはロシアのサンクトペテルブルクに生まれました。9歳の時に母と初めてバレエの舞台「眠れる森の美女」を観劇したことがきっかけでバレリーナを志し、バレエ学校へ入学。その後クラシックバレエの基礎を築いたといわれているマリウス・プティパに認められ、1903年には改訂版『ジゼル』で成功を収めました。

1907年にはミシェル・フォーキン振付の『白鳥』を踊って話題となり、世界的有名バレリーナとして花を咲かせました。

1922年(大正11年)アンナパブロワが来日した。

日本公演は多くの文人も鑑賞しており、芥川龍之介は『露西亜舞踊の印象』で「僕は兎に角美しいものをみた」と賞賛している。

「立ち止まることなく一つの目的を追い求めること。これが成功するための秘密です」

-アンナ・パブロワの言葉

 

神奈川県出身のバレリーナ 本間陽子

本間陽子先生とメッセレル先生

メッセレル先生

バレエ大国

 

斎藤慶子著『「バレエ大国」日本の夜明け』

2020年2月29日に仙台で「バレエ大国」の本を購入。
私自身もメッセレル先生へのインタビューや資料を元に書いておきます。

スラミフィ・メッセレル先生は、1908年8月27日に8人兄弟の6番目の子として、リトアニアの歯科医の家庭に生まれる。

兄のアサフ・メッセレルはボリショイ・バレエ団のダンサー・教師。著書に「ボリショイ・バレエの技法」があります。旧ソビエト時代、アサフ・メッセレルとスラミフィ・メッセレルは多くの海外公演に参加されました。フランス・ドイツ・デンマーク・オランダ・スウェーデン・ノルウェー・ユーゴスラビア・ブルガリア・ルーマニア・イラン・中国など。

「1960年、ソ連の文化省から日本にバレエ学校がオープンし経験豊かな教師を必要としているというお話があるまで、日本の国、行ったこと無かったです」(メッセレル先生談)

NBSサイトhttps://www.nbs.or.jp/

斎藤慶子著『「バレエ大国」日本の夜明け』がこのたび文芸春秋より刊行されます。

ここには東京バレエ団の母体である「チャイコフスキー記念東京バレエ学校」が1960 年開校し、1964 年に閉校するまでの顛末が記されています。

冷戦構造下、旧ソ連の文化外交戦略の一つとして、優秀なバレエ教師、スラミーフィ・メッセレルとアレクセイ・ワルラーモフが送り込まれてきました。二人は愛情と熱意、それに持てる技術のすべてを日本人の生徒たちに注ぎ込みました。

たった4 年で閉校に追い込まれてしまいましたが、そこでの4 年間の活動が、日本のバレエ教育の歴史的な転換点となったことは、あまり知られていません。  同校でのバレエ教育がなかったら、現在のような日本人ダンサーの国際的な活躍は、もっと先のことになっていたに違いありません。

歴史に埋もれ、忘れ去られていた幻のバレエ学校の存在を膨大な資料を駆使した調査と取材によって、掘り起こします。東京バレエ団・東京バレエ学校のルーツを探る興味深い一冊です。 この書籍は東京バレエ団の公演会場および東京バレエ学校新館でも販売されています。

東京バレエ団 40周年に寄せて 

 スラミフィ・メッセレル

1959年は、私のバレエ教師としての人生における大きな転換点となりました。ソ連文化省に呼ばれ、2年間日本へ行かないかという誘いを受けたのです。林さんという長野市の情熱的なプロデューサーと、同じ長野出身でクラッシック・バレエを愛する北野さんというスポンサーが「チャイコフスキー記念東京バレエ学校」を設立しょうとしているということでした。問題は教師でした。2人は当時のソ連文化省に問い合わせ、文化省はボリショイ劇場の演出家アレクセイ・ワルラーモフと私に声をかけたというわけです。
私は以前から日本に惹かれていました。日本は世界最大級の石油タンカーを製造し、最新のコンピュータ製品には「メイド・イン・ジャパン」のマークがありました。そして飛行機のようなスピードの電車も、他ならぬ日本でその当時登場したばかりでした。このような経済の驚異を成し遂げた島国の暮らしを肌で感じてみたいと思いました。ワルラーモフと私は、空路では当時唯一の方法であった驚異的なルートで東京へ赴きました。まずモスクワからコペンハーゲン、ロンドン、ローマ、キプロス、パキスタンを経由し、翌朝にはバンコクに着き、そこでようやく東京行きの飛行機に乗ることができたのです。
林さんは知的ですばらしい人でした。私たちは六本木に住まわせてもらい、自由に使うことができる運転手付きの車と通訳をつけてもらいました。学校では、私が子どもと女性のクラス、ワルラーモフが男性のクラスを担当することになりました。ロシア人バレエ教師のニュースはテレビでも紹介され、あっという間に東京中に広まりました。本当に幼い子どもから、踊るのはもう無理たのではないかとおもわれるような年齢の大人たちまで、入学希望者が殺到したのです。そこで、入学の条件は6歳以上と決めましたが、実験的に4歳の子どもたちも数人受け入れることにしました。
日本の伝統は時として非常に便利なものでした。例えば室内に入る時は靴を脱ぐ習慣がありますが、私は毎朝学校へ着き、きれいに並べられた靴の数を見ればその日のレッスンに何人の生徒が来ているのかすぐにわかるのです。しかし、靴の数は驚くべきスピードで増えていきました。そのうちにチャイコフスキー記念東京バレエ学校の生徒は350人になってしまったのです。

日本人にバレエを教えることは真の喜びでした。レッスンでは教師の意見が絶対で、両親の意見よりも尊重されるようでした。私はいつもそれを感じていましたが、特に生徒たちの規律には感心させられました。彼らにとって、レッスンに遅刻することはまるで神への冒涜であるかのようでした。生徒たちは皆、レッスン開始の数分前にはバーにタオルをかけ、第一ポジションで待っているのでした。初めのうちはもちろん、林さんが手配してくれた通訳を介して生徒をほめたり注意したりしていました。でも通訳はバレエのことをあまり知らなかったため、言いたいことがなかなか伝わらないのです。まるで外国から電話を通じてレッスンをしているような感覚でした。そこで、私は日本語を勉強することにしました。まず人の絵を描き「手」「足」「肩」「頭」などの日本語を書き込みました。レッスンではこの虎の巻が大変役に立ちました。さらに、動詞、数詞、文法の勉強も始めました。私は数ヶ月後には日本語でわかりやすいレッスンを行うことができるようになり、後にはテレビに出演したこともありました。
東京での2年間の生活を終えようとしていた頃にキーロフ・バレエ団が来日し、私は流暢な日本語で舞台挨拶をしました。客席の1列目に座っていたナタリア・ドベジンスカヤとコンスタンチン・セルゲイエフのその時の驚いた表情といったら「信じられない!」と思っていることは一目瞭然でした。テクニックの指導とともに、年上の生徒たちのために作品の振付指導も行いました。ソロの踊りとあらゆるパ・ド・ドゥを教えました。来日から半年位経った頃には、ワルラーモフと「くるみ割り人形」の振付を全幕で一切省略せずに教えることになりました。私は運良くこの作品の振付をすべて暗記していました。目を閉じればワイノーネン版の全てのパを思い出すことができました。ボリショイ・バレエ学校の卒業公演のために20年もこの作品の振付指導をしてきた経験のおかげです。日本で「くるみ割り人形」の振付を教えるのはそれが最初の試みでしたから、私たちは先駆者の実感がありました。当時完成したばかりだった上野の東京文化会館でこの作品を上演し、大成功に終わりました。
中略
「くるみ割り人形」の後、私はワルラーモフとアイヌの生活を題材にした作品「まりも」を振付けました。石井歓が躍動感と民族的な要素に富む美しい音楽を作曲し、上演は成功に終わりました。
残念ながら、学校にははなない運命が待ち受けていました。私とワルラーモフもそれぞれ家族が待っており、2年間の契約を終えて帰国しなければなりませんでした。
中略
東京バレエ学校解散後の1964年、佐々木さんは優秀な生徒たちを集めて東京バレエ団を創立しました。

「バレエ大国」
チャイコフスキー記念東京バレエ学校 1960-1964
*著者  斎藤慶子の本には、この内容がもっと詳しく書かれています。

鎌倉の好きな風景

安国論時の富士見台から見た空

安国論寺の富士見台から見た眺め

由比ヶ浜のローソン近くの空

鎌倉の海から感じる文学

鎌倉の海は由比ヶ浜・稲村ヶ崎。

由比ヶ浜

由比ヶ浜に行ったらピンク色の桜貝を拾う

だから「さくら貝の歌」の碑があるのだと思っていた。

さくら貝の歌は短歌をもとに土屋花情が作詞、八州秀章が作曲しました。

さくら貝の歌について調べてみました。

鎌倉・由比ヶ浜の近くに住む青年が、胸を病んで18歳で亡くなった恋人を偲んで、短歌を作りました。

わが恋のごとく悲しやさくら貝
  片ひらのみのさみしくありて

この和歌に作詞:土屋花、作曲:八州秀章で、できた歌「さくら貝の歌」

美わしきさくら貝ひとつ
去りゆけるきみに捧げん
この貝は去年(こぞ)の浜辺に
われひとりひろいし貝よ

1949年(昭和24年)NHKのラジオ歌謡に放送され、1954年(昭和34年)に第一回レコード大賞を受賞。

鎌倉の由比ヶ浜を尋ねたら「さくら貝の歌」の碑を見つけ、さくら貝を見つけて下さい。

桜貝拾った 由比ヶ浜

由比ヶ浜

鎌倉海濱ホテルの碑をみて、文学を感じる。

由比ヶ浜で夏目漱石の「心」の文章が思い浮かぶ

夏目漱石「心」

明治末期の夏休みに鎌倉の由比ヶ浜に海水浴に行た「私」と「先生」

 私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書(はがき)を受け取ったので、私は多少の金を工面(くめん)して、出掛ける事にした。
夏目漱石は北鎌倉の円覚寺の帰源院に止宿して「門」「夢十夜」と言った作品を書く。
友人の所有する長谷の別荘に滞在し「こころ」の作品を書いた。
大正時代は芥川龍之介は由比ヶ浜の海浜ホテルの近くに下宿し「羅生門」を出版。材木座に新居を構え「地獄変」「蜘蛛の糸」「奉教人の死」を執筆する。
大正8年(1919年)有島武郎が「或る女」の後編を円覚寺の松嶺院で書き始めた。
*『或る女』は、有島武郎が大正時代に発表した長編小説。 1911年1月『白樺』の創刊とともに「或る女のグリンプス」の題で連載を始め、1913年3月まで16回続いた。これは前半のみで、その後、後半を書き下ろしで『或る女』と改題して、1919年叢文閣から『有島武郎著作集』のうち二巻として前後編で刊行した。

有島武郎の「カインの末裔」・「或る女」・童話「一房の葡萄」(単行本として1922年に刊行された)・「生まれ出づる悩み」を少しは読んだことがあった。

児童雑誌 赤い鳥(全3巻)

私が小学生の頃、仙台の小学校の図書館に赤い鳥の本があった。

2022年7月に上野にある国際子ども図書館を訪ねた。あの図書館でゆっくり「赤い鳥」の本を読みたいと思った。

国際こども図書館

階段

くもの糸 芥川龍之介

ないてほめられた話  有島生馬

一房のぶどう 有島武郎

*詩人・作曲家
北原白秋・山田耕作らの作品が書かれている本
有島武郎(1878年3月4日-1923年6月9日)小説家
住所 〒048-1531 北海道虻田郡ニセコ町字有島57番地
有島武郎記念館がある
有島武郎の経歴
学習院中等科卒業後、農学者を志して北海道の札幌農学校に進学、洗礼を受ける。1903年に渡米。ハバフェード大学で1年ほど歴史、経済学を学び。帰国後、志賀直也や武者小路篤(むしゃのこうじさねあつ)らと共に同人「白樺」に参加する。
1923年、軽井沢の別荘で波多野秋子と心中した。

*1988年、「華の乱」にも有島武郎と波多野秋子をモデルにした映画が上演された。

1988年 監督:深作欣二

与謝野晶子ー吉永小百合

有島武郎ー松田優作

波多野秋子ー池上季実子

松井須磨子=松坂慶子

*「白樺派」について

1910年(明治43年)創刊の文学同人誌「白樺」を中心にして起こった文芸思潮。

本誌は武者小路実篤、志賀直哉ら上流階級の青年たちによって創刊された。有島武郎など学習院の関係者が多く集まる。

その他のメンバーに、有島生馬、里見弴がいた。

白樺派は個性主義・自由主義を基調とした。

「白樺」は関東大震災の影響により廃刊となった。

大佛次郎が長谷の大仏裏に住んだのが1921年(大正10年)。

昭和に入り、鎌倉文士たちの中心となるのが、1936年(昭和11)久米正雄の呼びかけによって構成された「鎌倉ペンクラブ」だ。メンバーには、川端康成、林房雄、深田久弥、里見弴、小林秀雄、大佛次郎、大岡昇平、太田水穂、神西清、高浜虚子、横山隆一、中里恒子、野田高悟、今日出海、小杉天外、小牧近江、三好達治、島木健作ら鎌倉在住の文学者などが名を連ね、大いに親睦を深める場となった。

江ノ電の「由比ヶ浜駅」、昔の江ノ電の列車が置かれている公園、由比ヶ浜から逗子方向に歩いて行くと材木座の海がある。
私は由比浜の海を見るのが大好きです。そこには文字の流れる旋律があるからです。
鎌倉八幡宮からまっすぐな道を歩き続け
由比ヶ浜の海にたどり着く。
さざなみの音が聴こえ始める。
風が吹いて聴こえるリズム。
「おかえり」
「おかえり」と波が歌い出す。
心の奥まで打ち寄せる波音のしらべ。
私は鎌倉に帰ってきた。
由比ヶ浜から聴こえるメロディーは永遠に変わることはないリズム
-順子の詩-

由比ヶ浜にあったホテル

鎌倉地図

古い江ノ電

材木座

由比ヶ浜駅

 

稲村ヶ崎

稲村ヶ崎の由来

由比ヶ浜と七里ヶ浜に分ける岬の地形が、稲束を積み上げた稲むらに似ていることから名付けられた。

由比ヶ浜から急な坂道を登ると稲村ヶ崎温泉がある。その温泉に浸かりまた由比ヶ浜に帰る。

「世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも 」鎌倉右大臣 百人一首93番

多分、由比ヶ浜から稲村ヶ崎まで歩く道のりの中にこの和歌の碑があった。

松の屋敷

大正9年(1920)神奈川県鎌倉郡鎌倉町極楽寺(現在の鎌倉市稲村ヶ崎)にある新渡戸稲造の別荘に有馬生馬が肺炎で静養するため移り住んだ。別荘の近くに空き家になった西洋館があった。有島生馬が明治23年(1890)にイタリアの生糸貿易商ヴィヴァンティが建てた西洋館を大正10年(1921)に買取る。「松の屋敷」と呼ばれる館は日本近代洋画の活動場となり、昭和の文学者、芸術家が訪れた館になった。

新渡戸稲造の言葉に「人という字は人と人が支えあってできている。」がある。

*「松の屋敷」は昭和57年(1982)10月に有島生馬記念館として蘇った。

長野県長野市信州新町上上条88-3

東西南北の鎌倉の案内地図も見つけてください。

 

 

百人一首

稲村ヶ崎温泉

松の屋敷

西

 

旧里見弴邸

旧里見弴邸に「七里ヶ浜パブロワ館」の本があった。

 

七里ヶ浜パブロワ館

暖炉の上にあった本

日のあたる部屋でゆっくり寛げるスペースがあるといいですね

石川邸
里見弴邸 人気作家
鎌倉市西御門1-13-10
里見弴が自ら設計し建築した建物

 

1990年にエリアナ・パブロワ記念館でを訪ね写した写真とエリアナ・パブロワ記念館の本。

 

エリアナ・パブロワ

1990年に鎌倉パブロワ記念館内の写真

鎌倉パブロワ記念館の本

スラミフィ・メッセレル先生の資料になる本

メッセレル先生のお兄さんが書かれた本

2020年2月29日に仙台で「バレエ大国」の本を購入。
私自身もメッセレル先生へのインタビューや資料を元に書いておきます。

スラミフィ・メッセレル先生は、1908年8月27日に8人兄弟の6番目の子として、リトアニアの歯科医の家庭に生まれる。

兄のアサフ・メッセレルはボリショイ・バレエ団のダンサー・教師。著書に「ボリショイ・バレエの技法」があります。旧ソビエト時代、アサフ・メッセレルとスラミフィ・メッセレルは多くの海外公演に参加されました。フランス・ドイツ・デンマーク・オランダ・スウェーデン・ノルウェー・ユーゴスラビア・ブルガリア・ルーマニア・イラン・中国など。

「1960年、ソ連の文化省から日本にバレエ学校がオープンし経験豊かな教師を必要としているというお話があるまで、日本の国、行ったこと無かったです」(メッセレル先生談)

1990年 谷桃子バレエ団公演「シンデレラ」の舞台の楽屋にてメッセレル先生

スラミフィ・メッセレル

1908年8月27日 生まれ。
2004年6月3日 95歳 亡くなる。
1920年 12歳 ボリショイ・バレエ・スクールに入学。
1926年 卒業
1927年〜31年
ロシアの水泳のオリンピックチャンピオン

チホミロフの指導を受け、25年間ボリショイ・バレエ団のプリマ・バレリーナとして活躍する。
1939年 ボリショイ・バレエ・スクールの教師して30年バレエを指導する。

1933年、スラミフィ・メッセレルと兄 アサフ・メッセレルはロシア初の西ヨーロッパ、スカンジナビア公演を行う。
1959年 東京バレエ学校が開設され日本でバレエを教える。
1961年 東京バレエ学校 日本初演の「くるみ割り人形」
初演。アレクセイ・ワルラーモフ、スラミフィ・メッセレル
1962年東京バレエ学校 日本初演「まりも」
アレクセイ・ワルラーモフ、スラミフィ・メッセレル。

1962年 谷桃子バレエ団 日本初演「リゼット」
日本にロシア・バレエを伝えたスラミフ・メッセレル、アレクセイ・ワルラーモフ直伝のゴルスキー版を基に、1962年主人公の名前をとって「リゼット」のタイトルで日本全幕初演。

1965年 谷桃子バレエ団
日本初演「ドン・キホーテ」
音楽:レオン・ミンクス
原振付 マリウス・プティパ、アレクサンドル・ゴルスキー
再振付:スラミフィ・メッセレル

日本初演を飾った「ドン・キホーテ」の振り付けをしたメッセレル先生からの祝辞
(提供:谷桃子バレエ団)

1969年 東京バレエ団「パキータ」
振付:マリウス・プティパ
音楽:レオン・ミンクス
再振付:スラミフイ・メッセレル

1969年 東京バレエ団「レ・シルフィード」
振付:ミハイル・フォーキン
音楽:フレデリック・フォーキン
再振付:スラミフィ・メッセレル

1980年 4月 東京バレエ団
日本初演「ルスランとリュドミラ」ラトミールのまぼろしの部分をスラミフィ・メッセレルが復元。
原振付:ロスチスラーフ・ザハーロフ
音楽:ミハエル・グリンカ

1981年 息子と共に亡命後 谷桃子バレエ団
日本初演「ラ・バヤデール」
再演出・再振付:高部尚子
原振付: マリウス・プティパ
演出・振付:スラミフィ・メッセレル
音楽: レオン・ミンクス
舞台美術: 妹尾河童
衣裳美術: 緒方規矩子

1991年 谷桃子バレエ団 「シンデレラ」
再演出・再振付: 望月則彦
原振付: ロスティスラフ・ザハーロフによる。スラミフィ・メッセレル振付
音楽: セイゲイ・プロコフィエフ
舞台美術: 橋本 潔
衣裳美術: 緒方規矩子

1997年 メッセレル先生 勲章三等瑞宝章を祝う会が東京バレエ団主催で行われた。
2002年 英国エリザベス女王から勲章を頂く。
東京バレエ団の仕事で来日。
2004年 イギリス ロンドンで亡くなる。

*ロンドンのコベントガーデンで催されたスラミフィ・メッセレル誕生75周年記念ガラコンサートでは、東京バレエ団に振り付けした「フレスコ」が上演された。振付:アレクサンドル・ゴールスキー。再振付スラミフィ・メッセレル

*東京バレエ団の「海と真珠」メッセレル先生振り付けで復元された。
振付:アレクサンドル・ゴールスキー
音楽:リッカルド・ドリゴ

*1972年に初演を飾った「バフチサライの泉」小林恭バレエ団の振付もスラミフィ・メッセレルだと聞いている。(ザハロフ版)
*谷桃子バレエ団HP、東京バレエ団HP、 1990年に行ったメッセレル先生にインタビューの内容などを参考に、記述。

日本初演を飾ったバヤデルカ

谷桃子バレエ団の日本初演は1981年1月8・9日 東京文化会館 スラミフィ・メッセレル招聘公演

谷桃子バレエ団にはメッセレル先生が日本に紹介したバレエ作品「リゼット」、「ドン・キホーテ」の二作品があります。

「リゼット」日本初演 1960年
「ドン・キホーテ」日本初演 1964年日本初演を飾った「バヤデルカ」はメッセレル先生の亡命騒動後に上演された作品です。

メッセレル先生の亡命騒動とマイヤ・プリセツカヤのお母さん(メッセレル先生の姉)を強制労働収容所(ラーゲリ)から救出しようと何度も試みたお話は、1990年10月20日、21日のインタビューを録音したテープに保存されています。

メッセレル先生が姪のプリセツカヤさんに振り付けした「瀕死の白鳥」は、メッセレル先生の亡命騒動とメッセレル先生の姉ラヒリさん救出劇にその原点があります。

メッセレル先生がアメリカに亡命されたのは1980年。メッセレル先生が東京バレエ団の仕事で東京に滞在中に息子さんがボリショイ・バレエ団のダンサーとして来日され、息子さんと共に在日アメリカ大使館に助けを求め、母子共にアメリカに亡命されたのです。

メッセレル先生の言葉でその当時の事を書きます。「あの時、私は東京バレエ団の仕事で半月ほど、東京にいました。モスクワに帰る4日ほど前、私は身体の調子が悪くなりました。国立病院でレントゲンを撮り、色々な検査を受けました。あまり、よく無い。
私はソ連の大使館に電話しました。ビザの期限切れます。けれども身体はよくない。少しの間、日本にいたい。大丈夫、大丈夫 モスクワに着いたら検査しましょう。
私はものすごーく怒りました。
丁度、モスクワからボリショイ・バレエ団が来日。私の息子も来日しました。私は息子をホテルに呼びました。自由になりたい。アメリカいきましょう」

メッセレル親子が亡命した年はモスクワオリンピックが開催された年でしたが、日本、アメリカ、中国、西ドイツが不参加のまま、オリンピックが行われました。

メッセレル先生72歳。
元ボリショイ・バレエ団のプリマ・バレリーナ。
ボリショイ・バレエ学校の教師。

アメリカに住んでから日本の谷桃子さんから手紙が届きました。日本で「バヤデルカ」を上演したいと。私は再び、日本で「バヤデルカ」の振り付けをするため谷桃子バレエ団を訪ねました。

闘う白鳥

マイヤ・プリセツカヤ

1925年11月20日生まれ。
死没:2015年5月2日(89歳)

1968年、プリセツカヤさんが初めて日本に招かれ「白鳥の湖」を披露する。プリセツカヤさんの踊る「瀕死の白鳥」はその芸術性の高い演技で日本の多くのバレエファンを魅力した。マイヤ・プリセツカヤさんの母方の叔母がスラミフィ・メッセレル先生。
父:ミハイル・プリセツキーは、スターリンの粛清により1938年に銃殺刑に処された。サイレント映画女優だった母ラリサ・プリセツカヤ(スラミフィ・メッセレル先生のお姉)は、人民の敵の妻と言う理由でカザフスタンへ強制送致される。そん時代のお話です。

メッセレル先生が姪のプリセツカヤさんに「瀕死の白鳥」を振り付けしたのは1941年のことでした。

 

渡邉順子

渡邉順子

1966年 仙台に生まれる

8歳から20歳まで仙台でバレエを習う

日本バレエ協会公演 第5回全国合同バレエの夕べ

1982年3月26日18:00

東京郵便貯金ホール

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 指揮者:堤俊作

曲:ショパン
振付:佐々木八重子
監修:黒沢智子
制作:日本バレエ協会東北支部
上演団体:日本バレエ協会東北支部

配役
ノクターン コール・ドゥ・バレエ
旧姓 岩渕順子で出演した。
*日本バレエ協会「全国バレエの夕べ」には1985年・1986年に出演。
「ラトミールのまぼろし」では主役を務めました。

1991年に、メッセレル先生振り付け、谷桃子先生指導の「瀕死の白鳥」を仙台で踊る。
その後結婚し、子育てしながらJUNバレエスクールを開設。10年近く横浜で「瀕死の白鳥」を踊り続ける.

スラミフィ・メッセレル先生振付「瀕死の白鳥」「ルスランとリュドミラ」(ラトミールのまぼろし)を踊った。

1986年3月26日 日本バレエ協会「全国バレエの夕べ」東北支部「ルスランとリュドミラ」(ラトミールのまぼろし)の主役を踊る。

2011年6月18日 神奈川舞踊祭 「ダンスカナガワフェスティバル」にて「ラトミールのまぼろし」 リュドミラのヴァリエーション

2011年6月18日

ダンスカナガワフェスティバルにてメッセレル先生振り付けの「ルスランとリュドミラ」からリュドミラのヴァリエーションを踊りました。(*1980年4月29日、5月1日に東京バレエ団公演が日本初演。

「ルスランとリュドミラ」よりラトミールのまぼろし)
キャスト まぼろしの女 友田優子 ラトミール 上田忠男 まぼろしの女 安田由貴子・友田弘子・田中洋子

1937年4月〜66年10月までザハーロフの演出振り付けの「ルスランとリュドミラ」はボリショィ劇場で18シーズン合計274回の上演を記録している。*東京バレエ団のプロブラムを参考にして書きました。

2011年                 「ルスランとリュドミラ」を踊る渡邉順子

東京バレエ団
レパートリー
「ルスランとリュドミラ」

バレエスクールを開設してから踊った作品

くるみ割り人形「金平糖」ヴァリエーション。

「白鳥の湖」第二幕。

くるみ割り人形より第2幕アラビアの踊り、スペインの踊り

自分で振付した「バレエ藤娘」「湘南太平記」「母への舞」「バレエ鷺娘」「さくらさくら」

日本舞踊の指導を受けて踊る。

 

小川亜矢子先生のスタジオに通った日々の思い出

私は結婚した当時、東京の杉並に住んでいたので独身時代よく通ったスタジオ一番街のオープンクラスにまた通ってみょうと思うようになりました。しかし、スタジオ一番街は青山にあるベルコモンズの中にスタジオに変わり、名前も「青山ダンシング・スクエア」と言いました。子どもを連れてスタジオに行かなければならないこともあり、あまりスタジオ通いはできませんでしたが、杉並に住んでいたので新宿村スタジオを借りてレッスンしていた事もありました。青山ダンシング・スクエアで学んでいた先生が安藤雅孝先生で、発表会では安藤先生振付のリベルタンゴの曲で生徒20人ぐらいで踊りしました。

その後、2005年に安藤先生、振り付けの「ゆうづる」に出演しました。

安藤先生振り付けの舞台に立つ

2005年

中島久・卯埜賀寿江バレエ研究所にあABC・FACTORYバレエ団があり「ゆうづる」公演に出演。

振付家は安藤雅孝

バレエ:ゆうづる
プロデューサー:卯埜賀寿江、
演出・振付:安藤雅孝
キャスト  つう:中島綾子、陽輔:船原孝路、ケンエモン:菊池研
      ほか、ABC・FACTORY
2005年12月25日 東京芸術劇場小ホール
2000年に鎌倉で「瀕死の白鳥」を踊り、2002年に横浜市磯子にバレエスクールを開設。
骨髄バンクのチャリティーコンサートで「瀕死の白鳥」を踊り続けながら様々な舞台の公演にも出演していた。
2005年 中島久・卯埜賀寿江バレエ研究所にはABC・FACTORYバレエ団があり「ゆうづる」公演に出演。
ダンスカナガワフェスティバル2010年ー2015年に出演。
神奈川県舞踊祭 NO.102 ダンスカナガワフェスティバル 2015年6月21日「カルメン」

神奈川県舞踊祭 NO.102 ダンスカナガワフェスティバル 2015年6月21日「カルメン」

多胡版「くるみ割り人形」に出演し多胡寿伯子、師事。2011年-2017年

ベラーム・ステージ・クリエイトのくるみ割人形に出演する

多胡 寿伯子
東京生まれ
9歳から大芝信・内田裕子にモダン・ダンスを師事し現代舞踊の創作舞踊の創作公園に多数出演。芝浦工大建築学卒業。東京バレエ劇場でNYCBロイ・バァイアスに師事。バレエ団員となり「くるみ割り人形」のプリマに抜擢。74年に谷桃子団に入団。谷桃子に師事。96年文化庁主催芸術祭舞踊部門芸術祭最優秀賞受賞作「The Scarlet Lettet A 緋文字」などの作品を手掛ける演出、振付家。現在はべラーム・スタジオは閉鎖。

多胡先生の恩師がNYCB
ニューヨークシティバレエ団のエトワール ロイ・トバァイヤス先生。バランシンはニュヨークシティーバレエ団の創立者

日本のバレリーナ
多胡先生が紹介されています

2017年に横浜で続けていたJバレエスクールを閉校。
2018年に仙台に帰りJUNブログに執筆を続けている。
2018年から仙台の文学を調べるため、仙台の文学館を訪ねる。図書館に通う。

仙台文学館

島崎藤村

島崎藤村 25歳

仙台で「自分の生涯の夜が明けて行くやうな心待ち」を味わった。

日本近代詩の夜明けの地

「仙台の名影町といふところに三浦屋といふ古い旅人宿と下宿を兼ねた宿屋がありました。その裏二階の静かなところが一年間の私の隠れ家でした。「若葉集」にある詩の大部分はあの二階で書いたものです。」

明治29年、名掛62番地の三浦屋で詩の創作活動に勤しむ。
「まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思いけり」
明治30年7月1日に東北学院を辞任
上京 8月29日に「若菜集」が出版される。

藤村記念館

文学碑

太陽の言葉

「誰でもが太陽であり得る。わたし達の急務は、ただただ眼前の太陽を追いかけることではなくて、自分等の内に高く太陽をかかげることだ」随筆集「春を待つつ」所収「太陽の言葉」より

 

日本近代詩発祥の地
名掛丁藤村下宿「三浦屋」跡

蝶々の形が今も残っている

島崎藤村と東北学院

島崎藤村
「破戒」映画

「島崎藤村と東北学院」展に寄せる 久保忠夫の最後の文章に東北学院文学史というものが出来そうである。その中に有島武郎の親友の森本厚吉(教師)の名前があった。

森本厚吉

日本の経済学者・教育者・文化生活研究家。

1901年

3月 有島武郎と共著「リビングストン」を出版する。(ディヴィッド・リヴィングストンの伝記を出版した)

8月 私立東北学院教授 1903年に米国ジョンホプキンス大学院に入学する。

 

太宰治

太宰治と仙台

太宰治と仙台

「太宰治と仙台」の本を図書館で借りてきた。
1944年、太宰治が魯迅先生の伝記を頼まれ、仙台の河北新社を初めて訪れた。河北新報に「パンドラの匣を64回に渡って続く連載をする。
健康道場での恋愛小説。

結核の患者と看護婦との間にある清々しいあいさつがあり、最後まで、
明るい気持ちで映画が見れた。「バンドラの匣」の映画をレンタルビデオ店から借りみる。

「やっとるか」「やっとるぞ」「がんばれよ」「よし来た」
患者と看護婦のあいさつがある。

ひばり、竹さん、マア坊の三角関係。

竹さんの結婚。

「あたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道は、どこへ続いているのか。それは、伸びて行く植物の蔓に聞いたはうがよい。蔓は答えるだろう。
私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当たるようです。」

私もすくすく、伸びて行きたい。

太宰治の「パンドラの匣」の小説も、時間がある時にゆっくり読み予定。

今回は「太宰治と仙台」の本を図書館で借りて良かった。

 

パンドラの匣 映画説明

結核のため出兵することもかなわず太平洋戦争終結を迎えた少年ひばりは、「健康道場」と称する風変わりな結核療養所に入所。気まぐれで明るい看護士のマア坊や、美人看護士長の竹さん、個性的な療養患者たちとの日々を通して、次第に生きる活力を取り戻していく。太宰治の同名青春小説を、「パビリオン山椒魚」の冨永昌敬監督が映画化。

パンドラの匣
原作 太宰治

魯迅

「中国近代文学の父 魯迅」

仙台医学専門学校に留学中、片平の佐藤屋に下宿し、「私を感動させ励ましてくれた」解剖学の藤野厳九郎に出会ったが文学に転向する。

 

魯迅
仙台医学専門学校
東北大学の前身
1904年に中国からの留学生

近代中国の文豪 魯迅1904年に仙台医学専門学校に入学。魯迅先生像が仙台市博物館の中庭にある。

魯迅公演案内

魯迅教室

魯迅教室

土井晩翠

当時の仙台城の状況をみて「荒城の月」に「垣に残るは唯かずら」の一節を綴ったとされる。

土井晩翠は、明治4(1871)年仙台市北鍛冶町に生まれ、本名を土井林吉(つちい・りんきち)
 晩翠は第二高等学校(現在の東北大学)教授をつとめ、昭和24年初めての仙台市名誉市民なる。
昭和25年に詩人として初めて文化勲章を受け、昭和27(1952)年、80歳で死去。
東京帝大在学中「帝国文学」を編集、詩を発表した。卒業後、第一詩集「天地有情」を刊行し、島崎藤村と並称される詩人となる。明治三三年(一九〇〇)第二高等学校教授、以後仙台で創作、学究生活を送る。文化勲章受章。詩集「暁鐘」「東海遊子吟」
晩翠草堂は、青葉区大町1-2-2にある文学館である。仙台市出身の詩人、英文学者だった土井晩翠が最晩年に過ごした邸宅を、一般開放している。

若き日の土井晩翠の像 晩翠草堂

 

2020年「谷戸の風にのって」をブログに執筆する。
2021年 バレエ童話を描いてみよう
                バレエ台本を描いて踊ってみよう
2022年 絵本作り
*2021年に書いた蝶々の絵と「みちのくお伽草子」の書かれた童話を元にバレエ童話を書くことにし、2023年に自費出版で5冊作ることにした。「天に昇ってバレリーナになった蝶々たち」

みちのくお伽草子

2004年にメッセレル先生が他界した。
メッセレル先生をモデルにした童話を作成中
*「ガラスのバレリーナ」は2022年から作成中
2005年、メッセレル先生が亡くなり追悼のために作ったバレエ作品「母への舞」は何度も踊りました。
 2005年の初演は、ピアノ演奏をCDに録音して踊りました。

「母への舞」

2005年11月12日
命のつどい 「骨髄バンクチャリティーコンサート」
横須賀芸術劇場 名曲ホーム・ライブラリー 「母」のCDを民主音楽協会から購入
「母」レイモン・ルフェーヴル・グランド・オーケストラの演奏に振付して踊る。

2011年・2012年
 横浜の「金沢文化芸術祭」にてお琴の生演奏で「母への舞」を踊る。

渡邉順子と民音の思い出。

東京バレエ団と民音は今も繋がっている部分があると思う。民音でも東京バレエ団の公演チケットが安く購入できる時があるからです。

私自身が民音と聞くと思い出すのが、松山バレエ団のドン・キホーテ(ルドルフ・ヌレエフ版)が民音主催で仙台で観れた事。多分、高校生の頃。地方の人間が東京までバレエの公演を見に行くのは大変。交通・チケット代・宿泊費がかかる。
民音の公演は全国だったので嬉しかった。

1978年頃(順子12歳)、東京バレエ団の「かぐや姫」の公演も仙台で観る。この公演の写真を民主音楽協会で見たことがあった。
民音会館は東京都信濃町にあります。
結婚し、子どもを産み、子育てしながら横浜にJUNバレエスクールを開設。2010年頃〜横浜チャコットで元東京バレエ団のプリマ・バレリーナだった友田優子先生のクラスレッスンを受けていた。古い写真を民音所属のカメラマンから見せて頂いた。

かぐや姫
振付:アレクセイ・ワルラーモフ
音楽:ミハイル・メェローヴィチ
装置・衣裳:ニコラ・ベノワ

*東京バレエ団の仙台の公演の「かぐや姫」の主役は藤堂真子さんだった。

*横浜チャコットでは元東京バレエ団のプリマ・バレリーナの富田三佳子先生のクラスもよく受けてました。2006年頃〜(東京バレエ団では「白鳥の湖」のオディールが当たり役だったと聞く)

1991年にミラノ・スカラ座バレエ団にスラミフィ・メッセレル先生を訪ね、レッスンを受けた。イタリアに一週間ほど滞在した時にイタリアのSGl(創価学会インターナショナル)の方からミラノ・スカラ座のオペラの公演「ポエーム」のチケットを頂きました。イタリアのミラノ・スカラ座を日本に初めて招いたのが民主音楽協会だったらしい。
私とメッセレル先生はSGIの方から「日本の仏壇と数珠を買って祈っている。日本の宗教は素晴らしいと聞いた。」メッセレル先生は日本に来日するようになってから少し民主音楽協会を理解したようでした。

渡邉順子は民音創立者でSGI会長の長編詩が歌詞になり、松原真美、松本真理子によって作曲された「母」の曲で何度か踊る。
イタリアSGIの方からミラノ・スカラ座でオペラを見せて頂いたお礼と感謝の気持ちで舞い続けました。

2005年7月 命のつどい

「骨髄バンクチャリティーコンサート」

関内ホール HAHAを初演

「母への舞」を踊る

2018年 横浜市中区のポンテ祭り
「母」のCD、東方舞踊団の演奏で踊る。

2022年「ブルーな鎌倉」を執筆中。

2000年に鎌倉芸術館で踊った「瀕死の白鳥」

2000年から2010年まで踊り続けた「瀕死の白鳥」の最後の写真

藤井修治先生の
「瀕死の白鳥」の評論

JUNバレエスクールを紹介する文章 スラメフィ・メッセレル

「瀕死の白鳥」を踊る時にメッセレル先生から頂いたメッセージ

メッセレル先生がプリセツカヤに「瀕死の白鳥」を振付したと書かれています。

プリセツカヤの「瀕死の白鳥」

 

参考にしたバレエの本

闘う白鳥

日本のバレエ

メッセレル先生のお兄さんが書かれた本

ボリショィバレエ
メッセレル先生

メッセレル先生について描かれているページがあります。

バレエ王国ロシアへの道

アンナ・パブロワの絵本

私の人生が変わった本
鎌倉のエリアナ・パブロワ館を訪ねる。

参考に読んだ本
(東優作)

日本のバレリーナ

マイヤプリセツカヤの本

エトワールバレエ辞典

ロシアバレエ史

東優作 仙台出身のダンサー・バレエの先生

谷桃子バレエ団

作:小川亜矢子

谷先生のお母様の遺稿集(風の芒)

1990年7月コスモス文学新人賞(同人誌)詩の部門 佳作

9月コスモス文学新人賞(同人誌)ノンフィクション部門 受賞

2000年 第14回新風舎 出版 ノンフィクション部門で2次までは通過 

本の出版までにならなかった。

2022年7月から「ブルーな鎌倉」を描きはじめている。

2020年「谷戸の風にのって」を執筆した。

谷戸の風ー作 山内静夫

多情仏心ー作 里見弴

ブルーな鎌倉はまごころ哲学を意識して書き上げました

“自分の心を素直に信じそれに従うという思い、まごころ哲学の里見弴。

 

谷戸の風 山内静夫

多情仏心
里見弴

谷戸の風の音楽-吉川久子

谷戸の風は小津安二郎の映画作品の多くをプロデュースした山内静夫氏の著書「谷戸の風」からヒントを得て作曲。

鎌倉の地には沢山の谷戸がありますが、そこに吹く季節の風、聴こえそうで聴こえない桜の花びらの舞い上がる春の風音。
新緑の木々を渡る風の音。枯葉をくすぐる秋の風。
そして、冬はまるで空気が音を飲み込むかのように静寂な風の音。そんな風の音を人生に重ね4楽章からなる組曲として旋律を書き上げてみました。四季折々の風の音と人生の日々を重ねてお楽しみいただければと思います。
吉川久子「鎌倉」CD解説より

鎌倉CD吉川久子

吉川久子さんの音楽を聴き、2020年より書き上げたのが「谷戸の風にのって」です。

2022年7月に旧里見邸を訪ね「ブルーな鎌倉」を執筆しはじめました。

 

石川邸
里見弴邸 人気作家
鎌倉市西御門1-13-10
里見弴が自ら設計し建築した建物

*「ブルーな鎌倉を書く前に」と言う随筆もあります。

「ブルーな鎌倉」を書く前に

鎌倉 里見弴邸

1926年(大正15年)に里見邸は建てられた。

長編「安城家の兄弟」の舞台になった家。

「善心悪心」「多情仏心」「極楽とんぼ」が代表作。

映画監督:小津安二郎とも親しくしていた。

彼岸花の書き下ろしなど映画制作にも関わった。(1958年)

里見弴が38歳の時に建て、48歳まで過ごし家。

その後、扇ガ谷に住み94歳で亡くなる。

里見邸は昭和11年に里見に手放した後は米軍の接収後、ホテルとしても使われ、赤い絨毯がそのまま残されている。

「谷戸の風」山内静夫

われら昭和世代

私は大正14(1925)年の生まれ。大正15年は昭和元年であるから昭和の年代と私の生年月日は全く同じである。昭和の年代は従って非常にわかりやすかった。

生まれたばかりの1歳の時に父が初めて自分の家を鎌倉・西御門に建てた。洋風建築の大きな家で、その頃の西御門辺りでは目立つ豪邸だった。私はそこから二階堂の第二小学校へ通った。

西御門は鎌倉特有の谷戸で、谷戸の入り口の左側には鎌倉師範学校の大きな炊事場があって、朝早くから賑やかだった。

 

お茶とおにぎり

映画鑑賞記録「お茶とおにぎり」

東勇作について

伊達の風 組曲1

エリアナ・パブロワ

エリアナ・パブロワ

鎌倉情報

鎌倉仕事

鎌倉名建築探し

ダンスカナガワフェスティバル

ダンスカナガワフェスティバル2010年〜2015年

仙台に帰ってきた

「仙台に帰ってきた」2018年7月

 

虹の彼方には「瀕死の白鳥」について書いています。

メッセレル先生・プリセツカヤ。東京バレエ団・谷バレエ団の舞台を観に行っていた日々の記録など。

虹の彼方に1

渡邉順子経歴

渡邉順子 経歴

「瀕死の白鳥」関連リンク

「瀕死の白鳥 物語」

横浜で「瀕死の白鳥」を10年踊り続けて

「瀕死の白鳥物語」遺言

「瀕死の白鳥」の練習風景 

 

アンナ・パブロワ関連

伊達の風 組曲(東勇作 ダンサー)

 

私が住んでいた中区の思い出を綴っている「懐かしの本牧暮らし」

懐かしの本牧暮らし1(横浜編)

新国立バレエ団

新国立劇場バレエ団鑑賞記録

谷桃子バレエ団の公演記録

 思い出の谷桃子バレエ団・研究所 発表会1993年

多胡版「くるみ割り人形」に出演

多胡版「くるみ割り人形」(谷桃子バレエ団系列の舞台)

JUN日記

ブログ作業中の呟き JUN日記

仙台 島崎藤村

島崎藤村 仙台

 

最後に

仙台で8歳からバレエを学び、27歳の頃、右足の靭帯を怪我し、バレエを辞めた時期もありましたが、激しい動きをしなければなんとかバレエを続けられるようになり、結婚、出産し、2001年にバレエの先生になりました。

1991年に「瀕死の白鳥」の指導を谷桃子先生にして頂き、その後、結婚してJUNバレエスクールを開設し15年ほどバレエを教え「瀕死の白鳥」を10年ほど踊りました。

仙台のメッセレル先生講習会で学んだ「瀕死の白鳥」「ルスランとリュドミラ」の振り付けが私の財産となり、講習会で東京バレエ団の映像を見ながら学んだ事で、東京でメッセレル先生が仕事する時には東京バレエ団が借りているマンションを訪ね、小説になる原稿メモを書けた事や、東京バレエ団の公演、世界バレエフェスティバルの舞台を見に行けた事。横浜チャコットで元東京バレエ団の富田先生、友田先生のレッスんを受けられた事など、様々な思い出があります。お陰様で今、仙台で横浜での暮らしぶりを書いていられます。

2018年に仙台に帰リ、ブログに「仙台暮らし」などを書き、ジムで体操の助手の仕事をした事もありました。外反母趾がひどくなり、2021年、宮城県美術館の創作室に通い絵本などを書いてみようと思うようになり絵を描き、童話と絵をつけた本を自費出版する目標が出来、2022年は去年描いた絵をもう一度書き直す作業に追われています。2023年に本にする予定です。

「天に昇ってバレリーナになった蝶々」

アクリル絵具で少しインパクトをつけた。2021年作成

キアゲハと菜の花
蝶々はキアゲハです。

雨の日に

虹の中で

 

みちのくお伽草子「天に昇った蝶々」

昔むかしない、あったとこに、とっても仲のいい四羽の蝶々が居たって。赤と青と黄色と紫の蝶々ない。ある天気のいい日に、広い野原であっちへヒラヒラ、こっちへヒラヒラ飛び廻って遊んでるうちに、日が暮れちまったって。ほうしたら、向こうの方に赤い灯がテカンテカンと見えたんで、「あそこさ行って泊めて貰うべ」って行ったってない。ほうして、「今夜一晩、泊めてくなんしょ」って頼んだら、白髪ほうげの婆さまが出て来て、「赤い蝶々だけは泊めてやる。ほかの蝶々は泊めらんねい」って言わっちゃと。赤い蝶々は「そんじゃ、おらも泊まんねい」ってない。ほうしたら今度あ、向こうの方に青い灯がぺカッと見えたって。ほんじぇ(それで)そこさ行って「今夜一晩、泊めてくなんしょ」って頼んだら、「青い蝶々だけは泊めてやる。ほかの蝶々は泊めらんねぇ」って言わっちゃっと青い蝶々は、「友達をさておいて、おれだけ泊まらんねぇ」ってない。ほうしたら今度ぁ、向こう方に黄色い灯りがボーッと見えたって。ほんじぇ、そこさ行って、「今夜一晩泊てくなんしょ」って言ったら「黄色い蝶々だけは泊めてやる。ほかの蝶々は泊めらんねえ」って言わちゃと。「そんじゃ、おらも泊まんねえ」ってない。ほうしたら今度ぁ、薄紫の灯がポカンと見えたってない。ほんじぇ、そこさ行って、「今度一晩」、泊めてくなんしょ」って頼んだら、「紫蝶々だけは泊めてやる。ほかの蝶々は泊めらんねえ」って言わっちゃと。ほんじぇ、四羽で木の下で抱き合って野宿することにしたって。ほうしたらお月様が、「何てお友達思いの蝶々だ」ってない、「おーい、風の神、バホラバホラ風を出して、黒雲をおっ散らしたってない。ほうしたらお月様の光りで、昼間のように明るくなったって。お月様は、「明朝、西の空に七色の虹が出る。それぞれ自分の色に捕まって上がってこ」って言ったって。次の朝ま、西の空に何ともきれいな虹が出たって。四羽の蝶々は、てんでに自分の色に掴まって、天さ昇ってったって。ほうして今でも四羽の蝶々は、あっちへヒラヒラ、こっちへヒラヒラ飛び廻って、仲良く暮らしてだって。こんじぇ(こんな風に)ざっと昔は栄えた。

福島県川俣町小神 菅野カネ

「みちのくお伽草子」

みちのくお伽草子に編集されていた「天に昇った蝶々」をヒントにバレエ童話を書くことに決めた。

2022年から「ブルーな鎌倉」の原稿を少しつづ書き綴っています。

コスモス文学で受賞し、一般公募の募集で2次まで進み、本の出版までは行きませんでしたがブログを立ち上げ。色々書くようになりました。今回はやっと自分の中では大作「ブルーな鎌倉」を執筆しました。是非、皆さんに読んで頂きたいと思います。

2022年8月から「ガラスのバレリーナ」のバレエ童話を書くためにも奮闘中です。

渡邉順子

音楽を聴きながら描く絵や文学

フジコ・ヘミング

ザ・ベスト・オブ・イングリットのCDに導入されていた

ラ・カンパネラ(リスト)やトロイメライ(シューマン)・ショパンも素敵でしたが、「蝶々」グリーグの音は蝶々が舞い踊っているようなメロディーで素敵でした。この曲で「蝶々」を描くことにしました。

フジコ・ヘミングの音楽を聴きながら絵を描く

リストのイラストを描く

 

フジコヘミング
ザ・ベスト・オブ・イングリットのCD

ミーとミータ
絵 渡邊順子
2022年
絵本作成中

ミーとミータ

蝶々を踊るダンサーの絵
 2022年10月12日

 

花関連リンク

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