仙台のダンサー (東勇作 ダンサー)

西公園にある東勇作氏の像

仙台 西公園 東勇作像

ニジンスキーを舞う 

ヴァーツフ・ニジンスキー

ロシアダンサー・振付師

1890年3月12日生まれ。

195o年4月8日ロンドンで亡くなる。

代表作「バラの精」「ペトルーシュカ」

振付「牧神の午後」・「春の祭典」が代表作品

 

https://www.youtube.com/watch?v=TkkRgKNXVwc

熊川哲也「バラの精」 映像

 バレエ作品「バラの精」について

1911年初演

テオフィル・ゴーティエの詩句

「私は薔薇の精、昨晩の舞踏会にあなたが連れて行ってくれた」

1911年4月19日 バレエリュスによってモンテカルロ歌劇場にて初演。

振付:ミハイル・フォーキン

音楽:カール・マリア・フォン・ウェーバー

「舞踏への勧誘」(エクトール・ベルリンオーズによる管弦楽編曲)

美術:レオン・バクスト

薔薇の精:ヴェーツラフ・ニジンスキー

少女:タマーラ・カルサヴィナ

*この作品は現在でも世界中のバレエ団のレパートリーになっている

バレエ作品「牧神の午後」について

牧神の午後

1912年 パリ初演 バレエ・リュスの作品

音楽:クロード・ドビッシー

「牧神の午後への前奏曲」

美術・衣装:レオン・パクスト

振付:ヴァーツラフ・ニジンスキー

モダンダンスの元祖

1910年夏にニジンスキーが古代エジプトの絵画を見たことから影響された作品。

*古代ギリシャの壺絵だとも言われている。

バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)

1909年にパリのシャトレ座で旗揚げ。

ロシア出身の芸術プロデューサーセルゲィ・ディアギレフ(1872 年〜1929年)主宰20世紀前半の舞踊・音楽・美術が結実したバレエ団

バレエリュス

ニジンスキー

バラの精のイラスト1絵*渡邉順子

アクリル画1

バラの精 版画

ニジンスキーバラの精

 

7人のニンフ
牧神の午後
ニジンスキー振付

春の祭典
振付 ニジンスキー

春の祭典

くるみ割り人形絵本にニジンスキーをとうじょうさせるためイラストを描いている絵*渡邉順子

アンナパブロワとニジンスキー

 

春の祭典 ニジンスキー振付 再現映像

https://www.youtube.com/watch?v=ke58bOaRe8w

 

シャネル&ストラゔィンスキー
映画

 

 

踊る世紀

ニジンスキー
神の道化

ニジンスキー
「牧神の午後」

ニジンスキー関連

羽生結弦

世界フィギュアのプルシュンコが「ニジンスキーに捧ぐ」をスケートリンクで舞い(YOUTubeでみれます)、羽生結弦さんが「ニジンスキーに捧ぐ」の曲アレンジしoriginと言う作品にして舞いました。(映像はYOUTubeで見れます。)
ニジンスッキーは伝説のバレエダンサーであり、憧れのダンサーです。
仙台と言えば東勇作、羽生結弦がニジンスキーに憧れ、今では憧れのダンサー、フィギュアスケーターになったのだと思います。

地下鉄 国際センター駅
羽生選手の写真と手がた

2020年樹木希林展(2018年羽生結弦展)藤崎デパート

 

東勇作のブロンズ像

2018年7月14日

私は26年ぶりに仙台市民に戻った。
私は仙台生まれ、仙台育ち。
20歳(1986年)の時に東京一人暮らしを経験し、21歳(1987年)に体調を崩し仙台に帰ってくる。
25歳(1991年)の時に仙台で「瀕死の白鳥」を踊る。
「瀕死の白鳥」の練習風景 

1992年に東京に戻り、東京、横浜で暮らし26年ぶりに仙台に戻った。
2000年に鎌倉芸術館で「瀕死の白鳥」を踊り2001年から2010年まで横浜で「瀕死の白鳥」を踊り続けました。
2014年に日本舞踊の先生指導のもと、「バレエ鷺娘」を踊りました。
渡邉順子 経歴

仙台に帰ってくると、西公園には東優作像がありました。
私は1990年に鎌倉のエリアナ・パブロワ館を訪ねたことがあったのです。
エリアナ・パブロワ

仙台の本屋で『日本ではじめてのバレエ学校 白鳥の夢はるか』まごめやすこ作と言う本に「わたしがバレエを教えていただいた。東優作先生は、こんな話をしてくださいました。ぼくが、バレエを習いはじめたのは、昭和5年。そのころバレエ学校は、鎌倉の七里ガ浜に1軒あるだけでした。東優作先生は、そのバレエ学校にはいるため、わざわざ宮城県の仙台から、でてこられたということです。」
私は友達と鎌倉へ行きエリアナ・パブロワ館を訪ねたのです。
東先生は仙台の伝説のダンサーに思えたからです。

2014年に村田勝四郎作(1901年〜1989年)「牧神の午後」の像が仙台市青葉区西公園に設置されたと言う記事を見つけ、
私が仙台市に帰ってくる丁度4年前に「牧神の午後」の像が、仙台の西公園に飾られていたことを知りました。
「牧神 或いは東優作」には東氏が踊った、「薔薇の精」「牧神の午後」の写真があります。
伝説のダンサーにふさわしい写真です。
仙台メディアテークに行けば、この本をかりることができます。

仙台メディアテーク

2001年に開館された仙台市民図書館、ギャラリー、スタジオ、イベントスペースがあります。
仙台市青葉区春日町2−1
1Fにはカフェ「クレプスキユール・カフェ」があります。

ワケあり雑がみ部

雑がみ部 作品 (仙台メディアテーク7F)

https://artnode.smt.jp/event/20210531_8980

せんだいメディアテーク 企画・活動支援室

2021年6月〜12月

毎週第2金曜日・土曜日 午前10:30-12:30  午後14:30-16:30

対象:年齢・経験不要

 

仙台メディアテーク

 

東勇作氏が踊った「牧神の午後」や「薔薇の精」は伝説のバレエダンサー、ニジンスキーが踊った作品です。

世界フィギュアのプルシュンコが「ニジンスキーに捧ぐ」をスケートリンクで舞い(YOUTubeでみれます)、羽生結弦さんが「ニジンスキーに捧ぐ」の曲アレンジしoriginと言う作品にして舞いました。(映像はYOUTubeで見れます。)
ニジンスッキーは伝説のバレエダンサーであり、憧れのダンサーです。
仙台と言えば東勇作、羽生結弦がニジンスキーに憧れ、今では憧れのダンサー、フィギュアスケーターになったのだと思います。

 

青葉城址跡の近所jには国際センター駅もあります。

ニジンスキーのバレエは「飛んだまま降りて来な」と言われるほどジャンプ力があったと言われています。

そしてニジンスキーが振り付けした「牧神の午後」。ニジンスキーが初演した「薔薇の精」についても
「これだけは見てておきたいバレエ」という本から説明しましょう。

薔薇の精
振付:ミハイルフォーキン
音楽:マリア・フォンウェーバー
初演:1911年モンテカルロ

ニジンスキー

フランスの詩人ゴーチェの詩をもとに、ウェーバーの「舞踏への招待」に振付られた。
生まれてはじめての舞踏会から帰った少女が、疲れて着替えもせずに椅子で寝っていると、夢の中に薔薇の精が現れる。そして寝る少女
のまわりを、花びらがふるえるように舞って舞踏会の記憶を呼び起こしたのち、開いている窓から夜の闇へと跳んで消えて行く。
初演のとき、窓を飛び越えるニジンスキーはそのまま空へ向かって跳んだように見えたという。

牧神の午後
振付:ワスラフ・ニジンスキー
音楽:クロード・ドビュッシー
初演 1912年 パリ

ドビュッシーの「牧神の午後」の曲にのせて、ニジンスキーが自作自演したのが最初。
ダンサーを選ぶが、ダンサーが優れていれば、こんなすてきな作品はない。
のどかな田園に牧神が一人で遊んでいる。
そこへ7人のニンフたちが水浴びに来る。一列になって横に進むさまは、たおやかに無表情、言うなれば人形振りのようである。

牧神の午後の衣装衣装
アブビアの衣装参考に

7人のニンフ

牧神は彼女たちに興味を示し、近寄って行くが、ニンフたちは奇怪な姿を見て、おびえて逃げていく。しばらくして戻ってきた一人に、
牧神は腕をさしのべて求愛し、抱きすくめようとする。だが彼女は身を振りほどいて逃げられ、牧神は彼女が残していったスカーフをもって
あそんで、岩の上で快楽に耽る。

「これだけは見ておきたいバレエ」新潮社 文:佐々木涼子 写真:瀬戸秀美

私の人生が変わった本
鎌倉のエリアナ・パブロワ館を訪ねる。

東優作 仙台出身のダンサー・バレエの先生

これだけは見ておきたいバレエ

バレエリュスの衣装の本

私も「牧神の午後」と言う作品を見たことがありますが、芸術的な動作が多い。古代の壺に書かれている動きをする部分があり、絵柄が動いているようにも思える作品だと私は思いました。文:渡邉順子

ブログを書くために読んだ本・好きな本(随時更新)

 

伊達の風 組曲2

横浜で「瀕死の白鳥」を踊り終え、仙台に帰ってきて、早2年。
2020年7月19日、久しぶりに谷桃子先生が夢に現れた。
なぜ?夢に現れたのだろう??
横浜で「瀕死の白鳥」を10年踊り続けて

主人と仙台メデアテークに行き、本を借りた。
西公園にある東勇作像「牧神の午後」の資料となる「牧神 或るは東勇作」東勇作同門会編を借りた。

本の中にDVDが入っていた。
NHKテレビ「音楽の歴史」
バロック音楽のあけばの
1963年6月28日
なんと古い映像でしょう。
しかし、東勇作さんを見れて良かった。

東勇作40周年記念公演プログラム
この中に谷桃子先生の名前があった。

カルナバァル シューマン曲 振付 東勇作(フォーキンによる)
エストレラ  貝谷八百子
シャリーナ  谷桃子
コロンビーナ 松山樹子
パピヨン   佐多多枝

「日本のバレリーナ」と言う本があるけど早々たるメンバーが踊られた作品があったのです。

谷先生のお話では貝谷八百子先生が「瀕死の白鳥」を得意とされていたとお聞を聞いたことがありました。
東勇作先生の40周年祝辞に谷先生が書かれた文章を読み、まだ私の「瀕死の白鳥物語」が終わっていないことがわかりました。
「東京バレエ団の結成されて以来、先生には、折にふれ、なにかとご指示、ご指導をいただき、ことに「瀕死の白鳥」は先生のご教授を受けて踊ったことがございます。」

谷先生、私にとっても東勇作先生はお目にかかったことはありませんが、同じ仙台出身で谷先生とゆかりのあった先生だと分かり、
東先生のことを本で調べ色々書かせて頂こうと思います。
2020年7月23日

東先生の事を書いた文章
「西洋の芸術を立派に踊るこの人の口から、東北訛が流れるのは。何となく微笑ましい」薄井憲二

1910年4月18日 宮城県仙台市大町に勇作生まれる。
1922年3月  仙台 立町小学校卒業
1922年4月 横浜 私立関東学園中学に入学
9月 横浜劇場でアンナ・パブロワ公演をみる。
1924年 9月 関東大震災 仙台に戻り、仙台二中(現在は県立二高)に転校。
仙台アマチアュア・バレエ団で、バレエ研究所を始める
1925年仙台二中・音楽部に在籍。音楽部主催で仙台公会堂にてチャイコフスキーバレエ音楽
「くるみ割り人形」に2日間上演、初舞台。
1928年 仙台二中卒業。早稲田大学に入学。中退。
1930年 エリアナ・パブロワ門下入門 内弟子となる。
1932年 エリアナ・パブロワの内弟子を辞めて生徒にある。
1936年 東勇作アカデミー・ド・バレエ・クラシック研究所・バレエ団を設立。
1941年 東勇作バレエ団 第1回公演 「レ・シルフィード」「牧神の午後」「小品集」など。
中略
1944年東勇作舞踊団 第6回公演
東勇作舞踊団は慰問隊舞踊として活躍する。
1946年 東京バレエ団結成記念公演「白鳥の湖」王子役:東勇作
1954年東勇作創立20周年記念公演
「古典組曲」「桜浜さく国」「はなかげ」他
1971年8月4日 日本バレエ協会名誉委員 東勇作逝去
1998年9月27日 仙台市 冷源寺内に同門会が建立式典

東先生が書かれた「楽しみな日本のバレエ」日本経済新聞に、こう書かれている。
「パブロワ門下の俊英」
仙台で基礎みたいなことをやっていたので、舞台にはすぐ出たが、出演料なしで月謝を払うというへんな生徒だった。
ひと旅して帰ってから(地方公演)おしりが大きので私の手がまわらず、困ったものだ。ピルエットといって足を軸に
回転するしぐさについては、いやだというし、こわいから肩へ乗るのもいやという、まあ、たいへんな先生だった。
しかし、日本で習えるただひとりの先生だから、毎日、毎日まき割りをしながら、教えてもらえるが幸福と考えて、ともかく
そばにいてチャンスをつかんでは習ったものだ。私をはじめ貝谷八百子、橘秋子、服部智恵子等々、その後の日本のバレエ界
をしょって立った人たちが排出したのである。
昭和42年1月31日

私も8歳から20歳まで仙台の藤井サト子バレエ研究所でバレエを学びました。
その後、東京の谷バレエ団・研究所で8ヶ月間バレエを学び、体調を崩し帰仙。
その後、橘バレエ学校仙台教室でバレエを3年ほど学びました。
(1988年〜1991年)
1991年に鎌倉にあるエリアナ・パブロワ記念館を訪ね、ミラノ・スカラ座バレエ団で仕事している、
スラミフィ・メッセレル先生のレッスンを受け、晴れてまた東京に戻り谷桃子バレエ団・研究所の生徒を続けることができました。
大いに挫折して、もうバレエはできないと思った自分を橘バレエ学校が受け入れてくださり。
なんとかバレエの道に戻ったことには感謝しています。
そして結婚してバレエの道から離れ、子育て中にメッセレル先生の受賞のパーティー会場(1997年)で
谷桃子先生、牧阿佐美先生、松山樹子先生方に
お会いして2001年にバレエの先生としてまたバレエの道に戻りました。
1997年に松山樹子先生から「メッセレル先生の恩恵がありますように」と言って頂き。
2000年から「瀕死の白鳥」を踊り続けることができました。
今、(2018年〜)また仙台で静養中です。(笑)
「瀕死の白鳥 物語1」

2018年に帰仙。
仙台メデアテークで「牧神 或いは東勇作」の本と出会い。
JUNブロブに質筆中
2020年7月25日

東勇作舞踊40周年公演の祝辞に橘秋子先生の文があります。
「波の音と風の音にあけくれる七里ガ浜」
東先生と同じパブロワの内弟子として釜のご飯を食べた七里ガ浜時代と書かれています。
東先生は「ボブチカ」という愛称で呼ばれていたそうです。

谷戸の風7
谷戸の風7の海と言う曲はエリアナ・パブロワの生徒たちが海でバレエを踊っている風景に思えてきました。

エリアナ・パブロワ

*「牧神 或いは東勇作」
*仙台の西公園にある牧神の午後の像に書かれている東勇作バレエ歴を参考に書きました。

伊達の風 組曲3

「バレエは心の芸術だ」

蘆原英了先生と東勇作が繰り返し教えられてまいりました。と松山樹子先生の東勇作40周年記念公演プログラム
祝辞に書かれています。
東先生のバレエの教えについても書かれています。
「先生はいつもバレエに対して謙虚な気持ちをお持ちです。
バレエのどんな小さい部分も宝石のように磨きあげ、大切に扱うことをご自分にも命じる厳しいところがありました」

バレエと言う芸術を磨きあげるのは大変なことだと思います。
仏の世界には「明鏡」を磨くと言う言葉があります。
曇った鏡も磨きあげれば、玉のように輝く。
磨きぬかれた生命には智慧が輝く。
その智慧は「芸術の深化」「人生の勝利」を導く光。
私は御書を学んでいますが、まだまだ私自身の磨き方が甘いと思いました。
東先生のように生涯、探求心を持たなければならないと感じました。

「日本のバレエ 三人のパヴロワ」渡辺真弓著の中に東勇作 1919年〜71年 生涯を舞踊芸術の探求に捧げたと書かれている。
松尾明美、松山樹子、薄井健二を育てた。

 

 

 

 

 

 

 

 

三人のパヴロワの本

エリアナ・パブロワの門下で学んだ服部智恵子、島田廣、貝谷八百子、東勇作たちが団結し「白鳥の湖」を日本初演したのは
1946年8月だった。
敗戦の日から1年もたたない8月5日にクラッシック・バレエの名作が上演さて、日本のバレエの歴史が始まった。

東勇作舞踊40周年公演 プログラムより 1967年
「カルナヴァナ」
解説
この作品はシューマンの有名なピアノ曲によって、ミハイル・フォーキンが考案振付けたもので、1910年2月20日、
セント・ベテルブルグのパヴロワ・ホールで初演。同年、デァギレフのバレエリュッスによって、ベルリンとパリで上演され、
フォーキンの傑作とうたわれた。
日本ではアンナ・ガリーナのパリ芸術舞踊団が1958年12月に共立講堂で上演した。
その後、谷桃子バレエ団もTVで上演した。

「谷桃子バレエ団40周年」の本を見ると1954年4月23日に松江市公会堂でカルナヴァルを上演している。
1954年は谷桃子先生はパリ留学した年でもある。
谷桃子帰国地方公演で1956年1月14日新潟公会堂でもカルナヴァルを上演している。
1月16日、17日神奈川県立公会堂、21日山形、22日仙台、24日釜石。
労音主催で4月23日松江、25日徳島市民会館、27日松山国際劇場、29日姫路。
谷桃子バレエ団は白鳥の湖・小品集・ドン・キホーテ グラン・パ・ド・ドゥといった作品で地方公演が多かったようです。
谷桃子振付で「カルナヴァル」は1954年〜56年頃上演した作品のようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

1967年には東勇作舞踊40周年ではフォーキンの原作に忠実に再現した作品「カルナヴァル」に
谷桃子先生はシャリーナ役で出演したことがわかりました。

東勇作舞踊40周年公演から4年後の1971年8月4日に東勇作逝去

*この「カルナヴァル」の作品には佐多達枝先生もパピヨン役で出演されています。
佐多先生の作品には谷桃子バレエ団のプリマ・バレリーナ(現在、芸術監督)高部尚子さんが出演しており、観に行った記憶があります。
素晴らしい作品があるので少し紹介したいと思います。

谷桃子バレエ団の公演は1987年から見ています。
2020年1月も見に行きましたから33年の私の思い出と共に谷バレエ団の舞台鑑賞があります。

私のレッスンについて

1998年頃から仙台の橘バレエ学校に通いながら東京でバレエ公演を観に行く時には六本木にあるスタジオ一番街に行き、
オープンクラスを受けていました。スタジオ一番街のスタジオが青山に変わり青山ダンシング・スクエアと名前が変わりました。
独身時代、結婚して子育てしている時期もレッスンに出かけていました。
*2015年7月からICHIBNGAIと言う名前になり新宿御苑にオープンクラスのレッスンが受けられるようです。
2018年〜仙台暮らしを始めてからは、まったくオープンクラスを受けに行きませんが、ICHIBNGIは
日本初のオープンクラスで伝統のあるスタジオです。

2011年〜は東京で多胡寿伯子先生のレッスンを受けていました。
「日本のバレリーナ」
日本バレエ史を創ってきた人たち
文園社にも書かれている先生です。

2021年4月からは仙台でバレエスタジオを借りて自習レッスンを開始します。

2021年2 月からは八幡グラン・スポールで筋トレに励んでいます。

2021年から宮城県美術館の創作室で絵本の制作を始める

 

参考に読んだ本

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年からは筋トレをしながらブログを更新しています。

仙台に帰ってきた!2018年7月

2020年8月から「仙台暮らし」を書いています。

 

東勇作のプロンズ像

冷源寺
仙台市若林区成田町125
地下鉄 連坊駅下車で徒歩9分
冷源寺は慶安年(1649年)に建立された仙台市登録有形文化財。

1998年9月27日「牧神像」プロンズ像。冷源寺に同門会が建立式典。

代表作
「牧神の午後」「レ・シルフィード」「白鳥の湖」

「花咲く国」「はなかげ」
日本人の特色を生かしたバレエを作りたかったのです。東勇作

舞踊という芸術は、舞台で踊っているその瞬間に人の心を打たなければなりません。
踊っている舞踊家の心が、技術を通して出てこなければいけないのです。
バレエの魅力といってもそれはやはり人間の魅力です。東勇作

西公園には東勇作氏が踊った「牧神の午後」の像が2014年に設置された。

1930年に東勇作氏が鎌倉のエリアナ・パブロワの弟子になり1936年には東勇作バレエ団を開設した。

1927年に鎌倉にエリアナ・パブロワ バレエ学校を開設。

1941年にエリアナ・パブロワは中南支慰問先で病没。

*エリアナ・パブロワの死後は妹のナデジタさんがスタジオを続けました。1982年にスタジオは閉校。(1927年−1982年)

エリアナ・パブロワ記念館として公開され10年足らずで1996年に閉館。

現在は「日本バレエ発祥の地」という記念碑を建っています。

墓はエリアナ・パブロワさんのお母さん、妹さんと共に

横浜の横浜外人墓地にあるそうです。

1974年3月14日

谷桃子引退公演 東京文化会館

ベルタ(ジゼルの母)役でナデジタ・パブロヴァで出演している。

*「谷桃子バレエ団の40年」の本より。

エリアナ・パブロワ
「瀕死の白鳥」の練習風景 バレエ関連 「瀕死の白鳥」

横浜で「瀕死の白鳥」を10年踊り続けて

冷源時

記念碑
牧神の午後

日本バレエの先駆者

牧神或いは東勇作の本より

桜咲く国
東勇作 振付

仙台二高(東勇作母校)

仙台 西公園 東優作像

エリアナ・パブロワ

妹 ナデジタ・パブロワ

谷桃子、後ろにナデジタ・パブロワ

谷桃子引退公演の写真

私の人生が変わった本
鎌倉のエリアナ・パブロワ館を訪ねる。

日本のバレエ

東優作 仙台出身のダンサー・バレエの先生

バレエを勉強しに行った
谷桃子バレエ団・研究所
旧姓で私も名前も書いてある。

鎌倉パブロワ記念館

日本バレエ発祥の地

「瀕死の白鳥」を踊る谷桃子先生の写真

谷桃子 1921年1月11日〜2015年4月26日

谷桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導を受ける渡邉純子1991年

アンナ・パブロワ

 

アンナ・パブロワの絵本紹介

アンナパブロワ絵本紹介1

アナン・パブロワ絵本紹介2

アンナ・パブロワの写真が表紙の「バレリーナの肖像」鈴木晶

アンナ・パブロワについて書きます。

バレリーナの肖像を読みながら。

メッセレル

ロンドンのアンナ・パブロワ邸

新舞踊

 

 

金沢文化芸術創作バレエ「バレエ鷺娘」を作り上げる時に日本舞踊の先生から学んだアンナ・パブロワについてのことを書きたいと思います。

                   ダンスカナガワフェスティバルの評論

2000年から2010年まで踊り続けた「瀕死の白鳥」の最後の写真

 

藤井修治先生の
「瀕死の白鳥」の評論

 

山野博大先生のバレエ評論

 

 

ダンスカナガワフェスティバル2010年〜2015年

バレエ鷺娘

「瀕死の白鳥物語2」メッセレル先生に学んで。

 

 

アンナ・パブロワ 日本巡業

演目

 

1922年(大正11年)

東京9月10日〜29日帝国劇場

横浜9月30日〜10月3日横浜劇場

名古屋10月4,5 日末広座

大阪 10月6 日〜10日角座

神戸 10月11日〜17日衆楽座

京都 10月18日〜21日南座

岡山10月23日岡山劇場

広島10月24日壽座

博多10月26、27日大博劇場

門司10月28、29日凱旋座

瀕死の白鳥

トンボ アンナ・パブロワ

アンナ・パブロワ2

 

アンナ・パブロワの「瀕死の白鳥」を観てバレエの道に極めたダンサー。東勇作・谷桃子。

東勇作

1910年(明治43)年〜71(昭和46)年

仙台市出身。12 歳、横浜でアンナ・パブロワの来日公演を観て感銘を受け、1930年、エリアナ・パブロワの内弟子となる。

 

谷桃子

3歳の時に母親に連れられて、神戸で鑑賞、アンナ・パブロワの踊りを見る。

*「日本のバレエ 三人のパブロワ」渡辺真弓

新国立劇場運営財団情報センター引用

谷桃子さんのこと

松本亮さんが書かれている文章を引用

「3歳のとき、神戸市内聚楽館で上演されたアンナ・パブロワの舞台を見る。彼女自身にはほとんど記憶にないそうだが、同行したママの話によれば、死のうとする「瀕死の白鳥」の哀れさに彼女は涙したと言うのである。」谷桃子バレエ団の40年より。

アンナ・パブロワの写真が表紙の「バレリーナの肖像」鈴木晶

日本のバレエアンナ・パブロワ

アンナ・パブロワ

私が大切にしている写真

東優作 仙台出身のダンサー・バレエの先生

谷桃子先生

バレエを勉強しに行った
谷桃子バレエ団・研究所
旧姓で私も名前も書いてある。

 

私が踊った2000年「瀕死の白鳥」〜2010年までの写真

 

2000年に鎌倉芸術館で踊った「瀕死の白鳥」

2000年から2010年まで踊り続けた「瀕死の白鳥」の最後の写真

ダンスカナザワフェスティバル で踊った「バレエ藤娘」

 

 

 

 

 

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