「瀕死の白鳥物語」
参考になるページ
私がスラミフィ・メッセレル先生と初めてお会いしたのは、1984年8月27日、その日はちょうどメッセレル先生の76歳の誕生日だった。
メッセレル先生は、世界的に有名なマイヤ・プリセツカヤさんの叔母にあたる。
1986年3月26日
日本バレエ協会の「全国合同バレエの夕べ」東北支部の舞台で私が踊った「ルスランとリュドミラ」は、メッセレル先生の振り付けによるものでした。
(*この作品のヴァリエーションを、2011年6月18日に神奈川県舞踊祭・ダンスカナガワフェスティバルの舞台でも踊ることができた。)
メッセレル先生
ボリショイ・バレエ学校を卒業後、1926年から25年間、ボリショイ・バレエ団のプリマ・バレリーナとして踊り、ボリショイ・バレエ学校の教師も務められた。息子と共に亡命という経験もされている。1960年に来日、日本では東京バレエ学校が開設され、バレエ教師として招かれる。東京バレエ学校はのちにチャイコフスキー記念東京バレエ団となった。2004年6月3日に95歳で亡くなるまで、日本のバレエ界に多大な貢献をされた偉大なるバレエ教師。アメリカ・ロイヤルバレエ学校でも多くの日本人ダンサーを指導し、1997年3月に勲三等瑞宝章を受章されている。
私のバレエ人生に大きく関わって下さった二人の先生、メッセレル先生と谷桃子先生。
以下に私のバレエの経歴とお二人の先生の指導についてざっくり書きたいと思う。
1974年 8歳 仙台でバレエを学び始める。
1984年 18歳 メッセレル先生と出会う。
1985年 「瀕死の白鳥」と「ルスランとリュドミラ」の主役パートの振り付メッセレル先生にして頂く。
1986年 20歳 日本バレエ協会東北支部の舞台で「ルスランとリュドミラ」の主役を踊る。谷桃子バレエ団・研究所で8ヶ月ほど研究生として学ぶ。
1991年5月 25歳 メッセレル先生がミラノ・スカラ座バレエ団でバレエの指導をされていた時に、一週間ほどミラノ・スカラ座バレエ団でメッセレル先生のレッスンを受ける。
谷桃子バレエ団の稽古場で谷桃子先生より「瀕死の白鳥」の指導を受け仙台で踊る。
1992年3月 第49回全国舞踊コンクールの予選で「瀕死の白鳥」を踊る。谷桃子バレエ団・研究所の高等科で谷桃子先生のレッスンを受け、準団クラスを受ける。
谷桃子バレエ団公演
「くるみ割り人形」「ドン・キホーテ」に出演。
*谷桃子バレエ団・研究所の発表会にも出演しました。
1994年3月 結婚
2000年 本間先生、筒井先生の発表会の発表会にゲスト出演し「瀕死の白鳥」を踊る。
2001年 JUNバレエスクール開設。
2008年 JUNバレエ塾に改名。
2015年 バレエの教えは辞めたが舞台には立つ。
横浜市金沢区から中区在住となり4年間をすごす。
2018年 仙台に30年ぶりに戻り仙台市民となる。
2015年 バレエの教えをやめる頃の私
メッセレル先生から学んだ「瀕死の白鳥」2
やっと「瀕死の白鳥 物語2」を書くことができた。
ブログには「瀕死の白鳥物語」の他に思い出の谷桃子バレエ団・研究所発表会のことや、多胡版「くるみ割り人形」、瀕死の白鳥に憧れて、エリアナ・パブロワ、ダンスカナガワフェスティバル、バレエ「鷺娘」について書いている。
「瀕死の白鳥物語3」には、メッセル先生が話して下さったことや、その姪のマイヤ・プリセツカヤさん、アンナ・パブロワさんについて書こうと思う。メッセレル先生に出会い、カードにメッセージを書いて頂いたことも懐かしい思い出です。
スラミフ・ミハイレロブナ・メッセレル
エリザベータ・ゲルトに師事する。ゲルトの父はアンナ・パブロワを教えたバレエ教師。アンナ・パブロワについては「日本のバレエ 三人のパブロワ」という本などを読んでいただければより理解できるかと思う。
この本の中に「パブロワの公演を見た舞踊関係者では、まず東勇作が12歳の時に、横浜でパブロワを見たのが契機となりバレエを始め、谷桃子は3歳の時に母に連れられて神戸で鑑賞…」と書かれている。谷桃子先生が3歳の時に母親の膝の上でアンナ・パブロワの「瀕死の白鳥」を見たというお話は、私も聞いたことがあったのでよく知っている。「生まれても声を上げない子で、すぐに死んでしまうような身体の弱い子だと祖母が言い出してね、母は3日間ずっと私を抱き続け、私はやっと声を上げたのです」と私に話して下さったことがあった。
東勇作関連
仙台編「青葉の風」
メッセレル先生に「瀕死の白鳥」を振り付けして頂き、谷桃子先生の指導を受ける中、私自身にとってのアンナ・パブロワの「瀕死の白鳥」は、ずっと遥か彼方にあるのだと感じていた。
世界中のバレリーナが踊ってきた「瀕死の白鳥」は、神秘的な伝説となるほど有名な作品で、メッセレル先生の姪、マイヤ・プリセツカヤさんもまた世界中で「瀕死の白鳥」を踊ったバレリーナだった。メッセレル先生がプリセツカヤさんに「瀕死の白鳥」の振り付けをしたのは、彼女が14歳のときだった。
マイヤ・プリセツカヤさんについても少し書いてみようと思う。
1937年5月1日、プリセツカヤの父がスパイ容疑で逮捕され銃殺される。翌1938年3月に母のラリヒ(メッセレル先生の姉)が無実の罪で逮捕、プリズンに連行される。郵便局でメッセレル先生が受け取った小さな手紙は新聞の切れ端で、カザフスタンの収容所からだった。メッセレル先生はカザフスタンの収容所を訪ねる。1941年にようやくプリセツカヤの母ラリヒは釈放される。
この話に私は「方丈記」を読むような気持になったものだった。
ゆく河のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と又かくのごとし。
東京バレエ団ブログより
追悼 マイヤ・プリセツカヤ
https://www.youtube.com/watch?v=eLsk-0wDoBM&list=RDeLsk-0wDoBM&start_radio=1
「瀕死の白鳥」マイヤ・プリセツカヤの映像
5月2日、20世紀を代表する偉大なバレリーナ、ロシアのマイヤ・プリセツカヤが心臓発作で亡くなりました。享年89歳。1943年にボリショイ・バレエに入団したプリセツカヤは、「白鳥の湖」や「ドン・キホーテ」で大成功を収め、50~60年代には世界最高峰のバレリーナとしての評価を獲得していました。そのプリセツカヤを始めて日本に招へいしたのが東京バレエ団でした。1968年、「白鳥の湖」の舞台で、当時すでに伝説的な至芸と評判だった彼女のしなやかで情感あふれる腕の動きは、類まれな音楽性や演技力とあいまって感動を呼び、大きな話題になりました。プリセツカヤはその後、69年の(マイヤ・プリセツカヤのすべて)、74年の東京バレエ団創立10周年記念公演にも客演。後年まで名演を続けた「瀕死の白鳥」、また夫君のロディオン・シチェドリン編曲によるビゼーの音楽を用い、ソビエト体制の下“闘うバレリーナ”を標榜するかのような情熱的な「カルメン」(アルベルト・アロソン振付)が、強烈な印象を残しました。そして76年には、当時東京バレエ団主催で上演された第1回世界バレエフェスティバルに、アリシア・アロソン、マーゴ・フォンテインと並ぶ三大バレリーナの一人として妍を競い、3年後の第2回では。20世紀バレエ団(現モーリス・ベジャール・バレエ団)の故ジョルジュ・ドンとともに、ベジャール振付の「レダ」を披露。自由な表現を希求する芸術家の生き様がひときわ光彩を放ちました。プリセツカヤは、東京バレエ団の前身である東京バレエ学校と、バレエ団の創成期に多大な尽力をくださった故スラミフィ・メッセルの姪でもあります。また昨年2014年、東京バレエ団の創立50周年にあたっては、没地となったドイツよりわざわざ祝辞を寄せてくださいました。
https://www.youtube.com/watch?v=r0v5ZTtFU6U
第1回 世界バレエフェスティバル アンコール映像
瀕死の白鳥3
マイヤ・プリセツカヤさんの踊る「瀕死の白鳥」を見たのは、私が高校生の時、仙台での舞台だった。その舞台でプリセツカヤさんに花束を渡し、サインを頂いた。
プリセツカヤさんの「瀕死の白鳥」は今もYouTubeで見ることができる。プリセツカヤさんが幼い頃につま先立ちして履き潰した靴が映像やコミック版「世界の伝記 マイヤ・プリセツカヤ」で紹介されている。スラミフィ・メッセレル先生の写真も映像の中にある。
ロシア・バレエの黄金時代
この本の「マイヤ・プリセツカヤの芸術」という章には、著者である野崎さんとメッセレル先生のインタビュー記事が記載されている。
私が学んだ「瀕死の白鳥」の振付の中に秘密めいた指導がある。「銃でころされた」という言葉。(実はロシア革命でプリセツカヤさんのお父さんは銃殺されました。プリセツカヤさんは父の死についてメッセレル先生は語るのではなく「瀕死の白鳥」を振り付ける事で死を教えたのです。「死ぬのも一瞬』メッセレル先生の指導の中に言われた言葉です。この言葉を理解し死について学びながら私は踊り続けました。
だからこそ谷先生の指導の中で、地べたから片脚アチチュードで再び立ち上がる姿で振り付けを終わらせたいというニュアンスの話になるのかと思う。
2017年に踊った「生きるも歓喜 死んでも歓喜」の振付では、背中を見せて飛び立とうとする白鳥が空から落ちることなく空に舞い上がって行く振付で終わった。2016年には詩吟コンサートで踊った「泣くな長崎」の振付も、最後は鳩になって飛んでいった。
原稿用紙の束。
1938年のロシアのお話を聞いて書いた原稿用紙。
メッセレル先生からプリセツカヤさんや当時のロシアについて学び、私はメッセレル先生に振り付けして頂いた「瀕死の白鳥」を10年間踊り続けることができた事に今も感謝しています。
私が学んだ「瀕死の白鳥」はプリセツカヤさんと同じ振り付けです。
*メッセレル先生からお聞きしたロシアについてのお話は後から導入します。
「白鳥の子は白鳥」4
私は1974年2月(8歳)からバレエを学びました。1980年の発表会では「白鳥の湖」で憧れのオデット姫は踊れませんでしたが2001年2月に横浜市磯子区にあるスタジオを借りJUNバレエスクールを開設。2003年 バレエ&舞踊フェスティバルで「白鳥の湖」第2幕を踊ることができました。結婚後もプロのダンサーさん達が出演する舞台にも出演。2005年 ABC FACTORY 「ゆうづる」。2007年は骨髄バンクチャリティーコンサートに2月 目黒パーシモンホール。4月 神奈川県民ホール。8月 宮城県民ホール。やっと生まれ故郷 仙台でも、「瀕死の白鳥」を踊ることができました。私がマイヤ・プリセスカヤさんの踊る「瀕死の白鳥」を見た宮城県民ホールで踊られたことに感謝しています。
結婚、出産、子育てをしながら踊り続けた「瀕死の白鳥」。
瀕死の白鳥の歩み
2000年 4月鎌倉芸術劇場・5月横浜市イズミ公会堂
2001年 JUNバレエスクール開設・12月鎌倉芸術劇場・根岸駅前 ステッジョィホール
2002年 8月関内ホール・相模大野グリーンホール
2003年 白鳥の湖 相模大野グリーンホール
2004年 9月関内ホール・11月よこすか芸術劇場
2005年 6月八王子芸術劇場・11月関内ホール
2006年 9月関内ホール・10月よこすか芸術劇場
2007年 2月目黒パーシモンホール・4月神奈川県民ホール・8月宮城県民会館
2008年 4月神奈川県民ホール・10月テアトルフォンテ
2009年 10月テアトルフォン
2010年 6月神奈川県立音楽堂・8月いわきアリオス・10月テアトルフォン
*2001年〜2008年までは根岸のスタジオを借り。2008年11月から金沢区のスポーツセンターを借りて教えるようになりました。
*モダンバレエの生徒さんたちにバレエの基礎を教えました。
新井美智代先生の絵の教室のバレリーナモデルの仕事を2009年から始めれるようになりました。その後は鈴木崇夫先生がずっと私をモデルに書いて下さいました
*仙台では太田厚先生の絵のモデルを務め、2021年に立石モデル事務所に所属しました。
JUNバレエ塾
JUNバレエスクールからJUNバレエ塾に名前が分かり金沢区の公会堂で行われる金沢文化芸術祭に生徒達と出演。私自身はダンスカナガワフェスティバル、多胡版 くるみ割り人形に出演。ヨコハマコンペティションで新しい作品作りに挑戦するためにコンクールにもチャレンジしました。「バレエ鷺娘」と言う作品も作りました。
2009年に「白鳥」と言う創作バレエを創りました。
横浜で「瀕死の白鳥」を2000年〜2010年まで10年間、踊り続けた白鳥は2015年には孤独の歳月の音楽の中で「瀕死の白鳥」の振り付けを取り入れた作品を発表しました。
2016年には詩吟チャリティーコンサート「泣くな長崎」の作品にも「瀕死の白鳥」の振り付けをアレンジして踊りました。メッセレル先生が亡くなり、谷桃子先生が亡くなり、マイヤ・プリセツカヤさんが亡くなったとしても「瀕死の白鳥」は生き続けています。
2017年 9月の舞台では「生きても歓喜 死んでも歓喜」の作品の中で最後に床に倒れ、片アチチュードで立ち上がる振り付けは「瀕死の白鳥」の振り付けです。
谷桃子 1921 1月11 日−2015年4月26日
マイヤ・プリセツカヤ 1925年11月20日ー2015年5月2日
スラミフィ・メッセレル 1908年8月27日ー2004年6月3日
渡邉順子 経歴
バレエ鷺娘
ダンスカナガワフェスティバル2010年〜2015年
瀕死の白鳥5
「母になっても、ひとつの事を続けなさい」
(谷桃子先生からのお言葉)
JUNバレエスクール誕生。
1999年11月18日にメッセレル先生と谷桃子先生と娘と三人で映した写真。
2001年2月にJUNバレエスクールを開設。
2001年12月25日が私と娘の初舞台日。その後、小さな生徒が入るバレエスクールになりました。名前が塾に変わっても小さな生徒たち入る塾でした。2015年12月 閉鎖。
雑誌「クララ」にも娘の部屋が紹介されました。
私は8歳の時に仙台のバレエ研究所でバレエを学びました。母が買ってくれたバレエの本はスラミフィ・メッセレルのお兄さん アサフ・メッセレルの書かれたボリショイ・バレエの技法と言う本が生涯の宝ものになりました。
1984年8月27日 スラミフィ・メッセレル先生76歳のお誕生日の日に出会う。
1985年、仙台でスラミフィ・メッセレル先生から「瀕死の白鳥」の振り付けを学ぶ。
1991年にミラノ。スカラ座バレエ団でメッセレル先生のレッスンを受け、谷桃子先生から指導を受け、仙台で「瀕死の白鳥」を踊る。
1992年に谷桃子バレエ団・研究所に戻りバレエ団の舞台に立つ。結婚、出産、子育。
2000年に「瀕死の白鳥」を踊る。
2001年にJUNバレエスクールを開設。
娘にバレエを教えるため母と子のバレエスクールを開設。
2000年から2010年まで「瀕死の白鳥」を踊り続ける。
2015年にJUNバレエ塾を閉鎖。
2016年チャリティー詩吟コンサート「泣くな長崎」で「瀕死の白鳥」をアレンジした作品を踊り、金沢文化芸術祭では渡邊順子の代表作にもなったバレエ「藤娘」を踊る。
2017年のチャリティー詩吟コンサートではジャズ詩吟、金沢文化芸術祭では「生きても歓喜 死んでも歓喜」を振り付けし出演。
「瀕死の白鳥」の振り付けはスラミフィ・メッセレル先生、指導谷桃子先生。
2000年から2010年まで渡邊順子は「瀕死の白鳥」を踊り続けて、2016年に「瀕死の白鳥」をアレンジした作品を作る。「母になってもひとつの事を続けなさい」、谷先生の言葉が私をずっと踊っていた。
瀕死の白鳥6
「心を強く」
谷桃子先生からのお言葉
谷桃子先生との出会い 1982年
私が高校1年生の時だった。日本バレエ協会東北支部「全国合同バレエの夕べ」に出演するため東京の郵便貯金ホールに出かけた。郵便貯金ホールの隣にあるホテルのロビーで谷桃子先生を見かける。当時、私は仙台のバレエ研究所に通っていた。その研究所の発表会のプログラムに谷桃子先生の祝辞と顔写真が載っていたのを見たことがあったが、写真でしか見たことがない谷先生が目の前を通り過ぎた。まるでラ・シルフィードの妖精のように。16歳で谷桃子バレエ団・研究所の中等科クラスを受けさせて頂き、谷先生とも挨拶を交わした。その後、1986年5月4日、盛岡の黒沢先生のスタジオで谷桃子先生とお会いし東京暮らしを始めることになる。1984年、盛岡の黒沢先生のスタジオで行われたメッセレル先生の講習会でメッセレル先生とも出会う。
1986年7月 20歳 東京目黒区中根町
私が谷バレエ団の研究生として東京の目黒区中根町で一人暮らしをしていた頃は、中根町界隈を歩いているとバレエ団の仕事を終え帰宅途中の谷先生にばったりお会いすることがあった。初等科、中等科クラスを受けていた私にとって、谷先生とロイ先生が教える高等科は雲の上のようなもので、谷先生が「頑張ってる?」と気さくに声をかけて下さることが嬉しかった。その頃は、谷先生とロイ先生のレッスンが受けられるようになりたいなぁと思っていた。
その後、多胡先生のスタジオでバラシンスタイルを習うのは、結婚、出産し、「瀕死の白鳥」を10年踊ってからのことだった。(2011年、2012年)
1987年谷バレエ団 新春公演「リゼット」を見、日本バレエ協会主催 谷桃子振り付け「ジゼル」見た。メッセレル先生がローランプティ・バレエ団のゲスト講師で来日した折に再会する。
自分一人の力で自分の夢を叶えた、その頃はそう思っていた。メッセレル先生あっての渡邊順子だと思うまでにはもう少し時間がかかる。
20歳の頃の私は、
谷バレエ団・研究所の発表会に出演することはできなかったけど、16歳で出会ったバレエの妖精が住む町に私も住み、レッスンを受け、道端で偶然出会うこともできた。小さい頃から憧れていた谷バレエ団でレッスンが受けられた。そう思っていた。1987年5月に体調不良で仙台に帰る。涙、涙の物語。1989年12月2日から4日、メッセレル先生の講習会が谷バレエ団・研究所で開かれ、再び谷桃子バレエ団・研究所の稽古に出かけた。
1991年
イタリアミラノ・スカラ座バレエ団でメッセレル先生のレッスンを受けた後、谷桃子バレエ団の稽古場で谷先生から「瀕死の白鳥」の指導を受る。
1992年
谷桃子バレエ団の「くるみ割り人形」、1993年新春公演「ドン・キホーテ」に出演。やっと谷桃子バレエ団・研究所の発表会に出演をはたした。
1994年
結婚する。小さい頃からの夢は叶い、出産、子育てをしながら横浜で「瀕死の白鳥」を10年踊り続ける渡邊順子ができあがる。今もなお「瀕死の白鳥」の振り付けは形を変え生き続けている。
50歳になってもたまに目黒の中根町辺りを散歩することがある。20歳の頃に通った銭湯もまだある。中根町から自由が丘に続く道も何も変わってはいない。でももう谷先生は亡くなり、中根町にあった谷桃子バレエ団・研究所のスタジオは別の場所に開設になった。
谷先生の言葉は「心を強く持ちなさい」
瀕死の白鳥7
谷桃子先生に学ぶ「瀕死の白鳥」とマイヤ・プリセツカヤの「瀕死の白鳥の違い」
私の「瀕死の白鳥」とマイヤ・プリセツカヤの「瀕死の白鳥」の振り付けは、スラミフィ・メッセレル先によるもので同じ振り付けだった。後ろに反り手をバタバタさせる振り付けや、地べたに伏してから片脚で立つ振り付けなど、ダイナミックな振り付けだ。多分、メッセレル先生が振り付けし、メッセレル先生が指導すれば「ボリショイ、ボリショイ」と言われる瀕死の白鳥になったことだろう。「瀕死の白鳥」で有名なアンナ・パブロワの振り付けはフェーキン版で、なんども地べたに伏して最後に死を迎えるが、メッセレル版はいちばん最後に地べたに倒れる。闘い続けた白鳥は、勝利者として死んでいくと私は理解し踊ってきた。闘い続けるというのは、私には踊り続けるという意味だ。「瀕死の白鳥」を踊る意味は、平和への願いと祈りなのだ。
「瀕死の白鳥」は独身時代の1991年、1992年、結婚し出産後の2000年に踊り、2001年にJUNバレエスクールを開設した後も、骨髄バンクチャリティーコンサートなどで10年間踊り続けてきた。
最近では、2016年の詩吟コンサートでも「泣くな長崎」の作品の中で「瀕死の白鳥」の振り付けをアレンジし踊った。「泣くな長崎」の中では、最後は鳩になり大空へ飛んでいく。今まで私は死んでいく白鳥を踊り続けてきたが、2016年からは死ぬ姿を空高く飛んで行く姿で表現するようになった。渡邊順子の「瀕死の白鳥」は地べたに伏してからスパっと空に飛んで行くものに変わった。
2017年の金沢文化芸術祭では「生きても歓喜 死んでも歓喜」の作品の中で最後に地べたに伏してからアチチュードで立ち上がる自作自演の振り付けだった。2015年のヨコハマコンペティション(モダンコンクール)の折に作った作品「天空の夜明け」は、輝きをもとめ、その輝きの意味がわかったという内容の作品だったが、未完成の部分があり、2017年の舞台では振り付けに「祈り」の部分を入れた。「どうか上手に踊れますように」と手を合わせ、舞台袖から光に包まれた舞台に向かって歩いていく姿。
一生懸命に練習したこの姿を見てくださいと祈りながら。最初から心が負けていては良い踊りはできない。自分の弱い心に負けずに勝利することだけを願い舞台に立つ。谷桃子先生の指導は、私の「瀕死の白鳥」の最後が、いずれスパっと空に飛び立っていく作品になることを暗示した指導だったと思える。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yamahome/index.html
山口HPに紹介されていました。
2010年改
山口’sHP
2010年は音楽堂(6月5日)の山口さんの評論が最後になりました。
2010年6月5日、渡邊順子の「瀕死の白鳥」は、今までで最高の舞台になりました。少なくとも私はそう思いました。体調不良を気力でカバーして・・・。「私の踊りを見に来てくれた人が居る。踊らなきゃと言う気合だけで踊りました」と彼女。薬を飲み、本番直前の舞台稽古をバレエシューズで行い、トゥシューズを履いての本番は爪先で立つのがやっとだったとのこと。「本番はどんな踊りを踊ったのか覚えておらず、最後のレべランスで拍手の音が聞こえ、無事に踊り終わったんだと感じた」というほど、朦朧とした最悪の体調の中で踊った執念の「瀕死の白鳥」でした。鋭いトゥの先、まろやかな甲、スッキリ伸びた美しい肢体、細やかに滑らかに音も無く心地よく刻むブーレ、骨格を感じないほど、しなやかに波打つアームス、グッと堪えたアラベスクのバランス。そして、ほのかに漂う健康的なお色気。まさに「円熟の瀕死の白鳥」でした。 舞台終了後、彼女は「『来年もまた瀕死の白鳥を踊ってほしい』、『瀕死の名人になりなさい』と言うお言葉を心からうれしく感じました。」と語っていました。渡邊順子の「瀕死の白鳥」は、批評家達からも、高い評価を受けたようです。彼女は新たな一歩を踏み出したのです。
渡邊順子は1991年にスラミフィ・メッセレル振付、谷桃子指導で初めて「瀕死の白鳥」を踊りました。 10年近くブランクがありましたが、2000年に再出発。以来、彼女は谷桃子の教えを忠実に守り、毎年のように「瀕死の白鳥」を踊ってきました。 そして2005年6月初めて味わった屈辱。悪夢の舞台・・・。でも健気にも彼女は「『瀕死』と心中する覚悟で、死に物狂いで修行に励みます。」と再起を誓ったのです。 過度の稽古による右足の古傷の悪化・・・、トゥを履くことすらできないこともありました。それでも挫けず、次の舞台に挑む精神力。渡邊順子の舞台には、いつも新鮮な輝きがあります。 彼女はいつも「進化する渡邉順子を見せなければ。」と自分に言い聞かせ、右足の痛みと戦いながらも、常に技術を磨き、精神を鍛え、たゆまぬ努力を重ねて進化を続けています。
渡邊順子の「瀕死の白鳥」からは、いつも「たゆまぬ進化への意欲」が感じられ、私は、彼女から明日への勇気を与えてもらった気持ちになるのです。 毎回の舞台から、また一歩、技術的にも内面的にも、確かな成長を感じさせてくれます。私にとって、渡邊順子と言えば「瀕死の白鳥」、「瀕死の白鳥」と言えば渡邊順子であり、 私は毎年、彼女の渡邊順子の進化する「瀕死の白鳥」を見るのを楽しみにしているのです。 頑張れ、渡邉順子!!! 山口
渡邉順子 「瀕死の白鳥」のあゆみ 1991年から20回以上は踊った「瀕死の白鳥」を紹介してくださったページ。
「何度踊っても納得のいかない『瀕死の白鳥』。 いつも「瀕死の白鳥」を踊るたびに思うことは『難しい』。だから常に勉強し稽古して踊ってきました。 」と、長年「瀕死の白鳥」を踊り続けてきた渡邉順子。
「また「観たいと」観客が思った瞬間、踊っている本人もまた踊りたいと思うのです。 これが観客と舞台に立っているバレリーナの共同作業なのです。一人で踊っているのですが必ずそこには観客がいることを 忘れてはならないのです。 」渡邊順子は、常に、こう自分に言い聞かせて舞台に上がります。
1991年に初めて踊って以来、渡邉順子の「瀕死の白鳥」の舞台は、2010年で20回を超えています。
以下は「死に至る白鳥」の舞を、とことん追求し続ける、渡邊順子の進化の軌跡です。
渡邉順子「瀕死の白鳥」以外の舞台の舞台を紹介してくださったページ。
谷桃子先生に学んだリハーサル風景
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