未完成交響曲を奏でるように2024年 バレエ編

未完成交響曲を奏でるように

文:渡邉順子

民音会館 ピアノ 撮影:渡邉順子 プレイエル

 

2024年 日記

1月12日

未完成交響曲を奏でるように

第一章

パガニーニの主題による狂詩曲

セルゲイ・ラフマニノフによる作曲

昨日からまたブログに小説じみたものを書いてみたくなった。

第二章

パガニーニによる大練習曲 6番「主題と変奏」

6変奏:パガニーニの原曲は、3度の重音連続または10度の重音連続で、ヴァイオリンにとって全曲を通してもっとも難しい曲の一つ。リストは、初版では左手に10度の重音の進行(オッシアで3度での演奏を認めている)、改訂番では左手に3度の重音を、しかも「24」の指使いで連打させる。

曲を聴きながら思う存分、自分の思い出を語るエッセイのような小説。

 

*インスタにアップした文章

バレエのセルゲイ・ラフマニノフの音楽をネットで調べてみる

セルゲイ・ラフマニノフが1934年に作曲した25部から成る変奏曲形式の、ピアノを独奏楽器とする協奏的狂詩曲で、ミハイル・フォーキン(Mikhail Mikhailovich Fokin, Michel Fokine)によってバレエ化された。

バレエ・リュスが上演したのは193912月、シドニー王立劇場。リュスが1958年になくなるまで、このバレエ団のレパートリーだった。

1938年秋から1939年にかけて、コヴェントガーテン・ロシアバレエ団(Covent Garden Russian Ballet)がオーストリアに滞在し、このフォーキン振り付けの「パガニーニ」を習得したそうだ。

そして1960年にフォーキン振り付けの「パガニーニ」は、ボリショイ・バレエ(Bolshoi Ballet)で、ミハイル・ ラブロフスキー(Mikhail Lavrovsky)の振り付けでラプソディー(rhapsody)として初演される。

英国ロイヤル・バレエ団

アシュトン振付「ラプソディ」のパ・ド・ドゥ。

英国ロイヤル・バレエ団のナタリア・オシポワとスティーヴン・マックレーが踊った映像がユーチューブで見られた。英国ロイヤル・バレエ団のDVDでもアシュトン振付の「ラプソディ」は販売されている。

初演は1980年のエリザベス王太后の80歳の誕生日を祝うコンサートだった。

 

パガニーニの主題による狂詩曲

セルゲイ・ラフマニノフによる作曲

私がこの曲を知ったのは映画「あの日どこかで」

1980年 公開

SF作家リチャード・マシスンの小説を映画化したタイムトラベル・ファンタジー

この映画と似ている過去が私にもあったのです。

憧れのバレリーナに出会えた瞬間。

この曲を思い出した。

1月11日の日記

谷桃子先生

111日は亡き谷桃子先生のお誕生日

最近、M.ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌの曲を聴く事にしています。

小さい頃から仙台で谷桃子先生の写真を見ながら、バレエの発表会に出演していた。

高校生の時に初めて、古い谷バレエ団のスタジオで挨拶を交わした。

でも、郵便貯金ホール (現在はメルパルクホール)

あの場所で私の前を通り過ぎたあの雰囲気が今も思い出される。

*1982年 日本バレエ協会 東北支部 「バレエの夕べ」レ・シルフィードに出演。郵便貯金ホール
東京に行き谷桃子バレエ団・研究所で中等科(尾本安代)のレッスンを受ける。

あの雰囲気が亡き王女のためのパヴァーヌの音なのよね。

「バレエを習っていたから、私は貴方にお会いできたのよ。」

今はバレエの世界から離れているけど、「ガラスのバレリーナ」の童話は少しづつ、手直ししている。

何度もガラスのバレリーナの童話を書き直そうと奮闘した。

 

*ガラスのバレリーナのページにリンク貼りました。

ガラスのバレリーナ(白鳥にバレエを学んだ少女の物語)

 

しかし、無理な気持ちになった。

それで

「パガニーニの主題による狂詩曲」

セルゲイ・ラフマニノフによる作曲を聴きながら書いてみることにした。

「瀕死の白鳥」を踊る谷桃子先生の写真

 

私が憧れた谷桃子先生の「瀕死の白鳥」の写真。

ミハイル・フォーキンがアンナ・パブロワに振付した「瀕死の白鳥」

そのアンナ・パブロワの「瀕死の白鳥」を見てバレエの世界で生き抜いた谷先生。

私も谷桃子先生の指導を受け「瀕死の白鳥」を踊ることができたのです。

私のブログにも散々「瀕死の白鳥」について書いている部分もあるのですが。

今まで書いた文章をまとめてみることにしました。

それが

「未完成交響曲を奏でるように」

このページになるのです。

しらとり

しらとり 2023年-2024年⭐️

しらとりからの抜粋

私は仙台でバレエを学んでいました。
バレエの発表会のプログラムに書かれている東京のバレエの先生の写真と祝辞が大好きでした。
そして、東京の谷バレエ団に行ってバレエのレッスンを受けに行くF先生を尊敬していたのです。
谷先生の祝辞はいつも「東京の空からご成功をお祈りしております」でした。

私もいつか、東京のバレエの先生に会って見たいなーと思ったのでした。

渡邉順子(岩渕)バレエ経歴

渡邉順子 経歴

1966年生まれ

1974年 8才から仙台でバレエを習う

初舞台は1975年、F先生が振付した創作バレエ第5回発表会「青い鳥」。お砂糖の精が初デビュー

1977年 第6回発表会は「くるみ割り人形」雪のソリストとあし笛の踊りに出演する。

宮城県芸術祭では昼の部「くるみ割り人形」からあし笛の踊る。夜は「ライモンダ」のパドシス

1978年 第7回発表会「コッペリア」パドシス 京谷幸雄振付 *東京バレエ団。溝下四郎がゲスト出演する。

1978年 宮城県芸術祭「ジゼル」第2幕 コールド・バレエに出演。

1979年 第8回発表会「眠れる森の美女」シンデレラのパドドゥ

1980年 第9回発表会で「白鳥の湖」全幕で白鳥の二羽(ソリスト)を踊る。*東京バレエ団。溝下四郎がゲスト出演。

*1982年 日本バレエ協会 東北支部 「バレエの夕べ」レ・シルフィードに出演。郵便貯金ホール
東京に行き谷桃子バレエ団・研究所で中等科のレッスンを受ける。

 

1983年 第10回発表会「くるみ割り人形」全幕で雪の女王を踊る。

1984年 第11回発表会「ドン・キホーテ」全幕 踊り子を踊る。

1985年 第12回発表会「コッペリア」全幕 第2幕のスワニルダを踊る

1985年 宮城県芸術祭「コッペリア」全幕でパドシス。

1985年 日本バレエ協会 東北支部「バレエの夕べ」雪のあしたに出演する。郵便貯金ホール

*現在はメルパルク東京

1985年 仙台でs・メッセレル先生の講習会が開催される。

仙台の講習会でスラミフィ先生から「アルファベットがすべて覚えられなければ単語は書けない」

バレエの基礎の大切さを教えて頂きました。

メッセレル先生から「フレスコ」・「ルスランとリュドミラ」・「瀕死の白鳥」の振付を学ぶ

(メッセレル先生が姪のプリセツカヤさんに「瀕死の白鳥」を振り付けしたのは1941年のことだった。)

1986年 日本バレエ協会 東北支部「バレエの夕べ」ルスランとリュドミラより「ラトミールのまぼろし」、郵便貯金ホール(*メルバルク東京)

*上京、谷桃子バレエ団の研究生になる。(8ヶ月)

1986年8月から東京都目黒区中根町で1人暮らしを始める。谷桃子バレエ団・研究所の生徒になり、初等科・中等科でレッスンを受け1987年5月に帰郷する。

1988年 バレエ学校に入学(仙台)
    「日ソ友好バレエコンサート」に出演
1989年 発表会「くるみ割り人形」に出演
1990年 発表会「白鳥の湖」グラズノフ「四季」オーケストラ付き
1991年 発表会「コッペリア」*祈りのソロを踊る

橘バレエ学校仙台教室の思い出「サーカス・バリエーション」

私自身はこの作品を踊っていませんが、橘バレエ学校の生徒になり、橘バレエ学校の歴史の残る作品を見ることができました。

サーカス・バリエーション

音楽:湯浅譲二

この曲は、1954 年、25 歳の時に、作曲された。私は実験工房のメンバーとして武満や鈴木と共に、当時の日本では、最前衛の仕事をしていた。その年には十二音技法を、英語版で勉強し、作る曲は無調になっていたが、この曲は、子供達のバレエ団、橘バレエ団の委嘱作品であり、当時私が、自然に身につけていた、プロコフィエフや、プーランク、ミヨー、など仏六人組や、終戦後、どっと入って来たアメリカ現代音楽、コープランドや、バーンスタイン等の影響下で書かれたと言える。
幼稚園や小学生の子供達はよく訓練されていて(後の日本バレエ界のプリマ、大原永子さんなど何人もそこにはいた)、五拍子などのステップも難なく踊れて、楽しいバレエ団だった。

曲は、開幕曲から、五部分にわかれていて、中に、玉のり、ブランコ、調教師、綱わたり、踊り子、など数多くあるが、今回は、「開幕」、「ブランコ」、それに、バレエなので、調教師のソロとディアゴナールを含んだ、第四部と三曲になった。

(湯浅譲二)

台本:川路明

演出振付:橘秋子

振付改訂:牧阿佐美

日本バレエ界のパイオニア 橘秋子

1907年(明治40年)宇都宮市に生まれる。栃木県女子師範学校(現・国立宇都宮大学)を卒業し、県内の小学校の教師を務める。1929年退職し上京、小林宗作のリトミック講習を受ける。翌1930年、日本初のバレエスクール「パヴロバ・バレエスクール」に入門、エリアナ・パブロバの内弟子となり、入門3日目のパヴロバ・バレエ団浅草松竹座公演でデビューした。1933年、橘秋子舞踊研究所を開設。多くのバレエ作品を創作し、門下生とともに橘秋子バレエ団の公演活動を行った。1950年、橘バレエ学園を設立(1953年、橘バレヱ学校に改名)。詩歌の会で交流を深めた武者小路実篤が学園の後援会会長を務めた。世界的ダンサー、アレクサンドラ・ダニロワ、イゴール・シュベッツォフらを教師として招聘し講習会を開催。日本人ダンサーとしての精神教育にも重点をおき、小笠原礼法、華道、茶道、座禅、滝行などの修練を取り入れた教育を行った。1956年、牧阿佐美バレヱ団を結成。毎月行った定期公演で年間20作品を上演する活発な活動の成果に対して、1965年に芸術選奨文部大臣賞を受賞。武満徹に作曲を依頼した「銀河鉄道の旅」を始め、「サーカス・バリエーション」で湯浅譲二、「獅子と王女」で鈴木博義、「飛鳥物語」で片岡良和、「角兵衛獅子」で山内正、「戦国時代」で小杉太一郎など、日本を代表する作曲家とともに多くの作品を生み出した。
1960年「運命」の振付で芸術選奨文部大臣賞、1963年「飛鳥物語」の振付で東京新聞舞踊芸術賞、1964年舞踊ペンクラブ特別賞、1967年「戦国時代」の振付で芸術祭文部大臣奨励賞を受賞。1967年紫綬褒章。1971年逝去、享年63歳。勲四等宝冠章、従五位受章。。

三島由紀夫「ミランダ」作品の紹介

https://ballet-archive.tosei-showa-music.ac.jp/

バレエアーカイブでミランダを検索するとキャストが分かります。

明治百年記念芸術バレエ特別公演

ミランダの主役は牧阿佐美・谷桃子

1968年 10月27日 11月8日・10日・14日・17日

NHKTV 10月27日 収録 11月3日 放送

作:三島由紀夫

作曲:戸田邦雄

演出:橘秋子

サーカスの娘ミランダ、彼女を妾にしようとする政治家、ミランダと恋仲になり助けようとする魚河岸で働く清吉、清吉たちの味方になる魚河岸仲間、そして悲劇的結末が待ち受ける三島が書いたバレエの台本。109人を超えるダンサーによって1968年に上演された。

 

日本文学幻想文学集
三島由紀夫
「ミランダ」も作品がある

 

ミランダミランダーバレエ

第一幕海軍ヶ原チャリネ曲馬団の場

(明治十九年秋、築地旧海軍ヶ原)

第一場序曲

葬があくと、前のシーンで、日本的風俗の子供や、おかみさん、半裸の人足その他などに囲まれて、チャリネの曲馬の外人の披露目屋がビラを配り、道化師クラウンBがはねまはり、白馬に乗つた美少女 Miranda

の名と絵姿を描いた看板絵をかかげ、上手のサーカスへ群衆を誘導してゐる。

その群環の中に国粋主義の壮士がまじつてゐる。

ゃがて下手から警官を先立てた欧化主義の政治家が洋装の夫人と共に人力車に乗って来る。外人の披露目屋はビラをささげる。外人崇拝の夫婦は、にこやかにこれを受けとる。そこへ政治家の書生が続いてやつてくる。

一方、さらに下手から婦権拡張論者の洋装の婦人たちがあらはれ、下手の台上に立つて演説をはじめる。

政治家は警官を使って、上手の群衆を日本的車俗のあらはれとして追ひまくらせる。半裸の男も、根を下ろさせられ、子供に乳をやつてゐる女も、胸をつくろはされる。

この横察に怒のた壮士が政治家につかうと進み出るが、たちまち皆官に追ひ払はれる。

三島由紀夫

ミランダの脚本を読んだ感想

バドシスとかパトトロワとか。

グランドウ

アダジオ

バリエーション 男

バリエーション 女

コーダ

バレエ 脚本を三島由紀夫さんが書いている事に感動した。

昭和4310月 心

三島由紀夫のミランダのバレエ 脚本を読めた。

バレエ 脚本 ミランダは

最後にミランダは死ぬ

かくしてミランダの死によって、欧化主義と日本主義者は和解する。

*仙台の橘バレエ教室でバレエを学べて良かったと思っている。

1991年

1991年 ミラノ・スカラ座でS・メッセレル先生と息子さんのミハイル・メッセレル先生のレッスンを受ける

(1991年5月31日ー6月7日イタリア・ミラノに行く)

*1991年谷桃子バレエ団で谷桃子先生に「瀕死の白鳥」を指導して頂き、仙台で「瀕死の白鳥」を踊る

*瀕死の白鳥物語のページにリンク貼りました。

「瀕死の白鳥 物語」⭐️

*「瀕死の白鳥」を2000年から振付を変える。

振り付けで私が一番難しいと感じたのは、地べたに伏して死の瞬間を感じながらも片脚アチチュードでもう一度立ち上がる振り付けだった。そのシーン、何度練習しても難しかった。1991年には片脚アチチュードで立ち上がったのだが、2000年からはその振り付けはカットしてしまった。谷先生の「スパッ」の掛け声がないと上手くできなくなったのかもしれない。どんなに辛いことがあったとしても「スパッ」と立ち上がらなければならない時があると思う。(*右足の靭帯を痛め、右足に重心をかけられなくなった)

 

谷桃子先生に「瀕死の白鳥」の指導を受けた思い出

1991年の「瀕死の白鳥」のリハーサルでは真剣な部分もあったが「死」に対しては、まだこれから学ぶものという未来があり、谷先生自身もいつかは訪れる死であっても「今は私に教えていると楽しいわ~」という雰囲気の中でのリハーサルだった。但し、「まっとうして死ぬ」という言葉になると、まるで先生自身に言い聞かせているかのように真剣になられた。

仙台から上京し、桃子バレエ団・研究所に学び始めた私の心には「諦めが肝心」という答えが先に出ていて、自分自身の心に負けていた。8ヶ月間の東京暮らしを終え帰省した私は、絵のモデルをしながら、絵を描き、気持ちの整理をしていた。桃子先生からは「お元気になられたら、何時でも桃子バレエ研究所にいらして下さい。あせらずに…ね」というお手紙を頂戴した。そして1986年に桃子バレエ団・研究所で学んでから5年の歳月を経て、ついに、やっと桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導を受けることができた。

私の「瀕死の白鳥」とマイヤ・プリセツカヤの「瀕死の白鳥」の振り付けは、スラミフィ・メッセレル先によるもので同じ振り付けだった。後ろに反り手をバタバタさせる振り付けや、地べたに伏してから片脚で立つ振り付けなど、ダイナミックな振り付けだ。多分、メッセレル先生が振り付けし、メッセレル先生が指導すれば「ボリショイ、ボリショイ」と言われる瀕死の白鳥になったことだろう。「瀕死の白鳥」で有名なアンナ・パブロワの振り付けはミシェル・フォーキンで、なんども地べたに伏して最後に死を迎えるが、メッセレル版はいちばん最後に地べたに倒れる。

闘い続けた白鳥は、勝利者として死んでいくと私は理解し踊ってきた。闘い続けるというのは、私には踊り続けるという意味だった。「瀕死の白鳥」を踊る意味は、平和への願いと祈り。

ブルーの鎌倉からの抜粋

2022年「ブルーな鎌倉」

 

『瀕死の白鳥」を谷桃子先生に指導を受るリハーサル

「瀕死の白鳥」を踊る時にメッセレル先生から頂いたメッセージ

 

 

1991年
「瀕死の白鳥」
仙台で初めて踊る

*1992年に谷桃子バレエ団・研究所に戻りバレエ団の舞台に立つ。

 思い出の谷桃子バレエ団・研究所 発表会1993年

「思い出の谷桃子バレエ団・研究所 1993年」の思い出に書いてある部分の抜粋

谷桃子バレエ団・研究所の高等科で谷桃子先生のレッスンを受けました。

谷桃子バレエ団・研究所の発表会に出演。「白鳥の湖」より第三幕  ルースカヤ  。一般 高等科 田阿曽美に出演。高等科と準団クラスを受けていたため谷桃子バレエ団 公演「くるみ割り人形」にも出演し、バレエ団からギャラを頂きました。

 

谷桃子バレエ団の公演に出演した記録

平成4 年(1992年) 10月26日から「くるみ割り人形」のリハーサルが始まる

11月15日わらび市「くるみ割り人形」に出演(会館主催)

11月16日えびな市「くるみ割り人形」に出演(学校公演)

11月18日新春公演「ドン・キホーテ」のリハーサルが始まる

12月3日「くるみ割り人形」のリハーサル始まる

12月13日小川町で「くるみ割り人形」に出演(会館主催)

平成5年(1993年)1月8日川口総合文化センター「ドン・キホーテ」出演

9・10日簡易保険ホール「ドン・キホーテ」出演

谷桃子バレエ団
公演 ドン・キホーテ」に出演する1993年

7月18日 「くるみ割り人形」ハイライツ ニューフィル千葉定期公演

8月5・6日第33回生徒発表会 白鳥の湖 第3幕に出演 高等科

1994
28歳 結婚

東京目黒にあるサレジオ教会

*谷桃子先生宅の近所の教会で式を挙げたので谷先生が参列された。

結婚、出産、子育てをしながらバレエを学び

2001年 JUNバレエスクールを開設。

2000年から2010年まで「瀕死の白鳥」を踊り続ける。

*2005年には「ゆうづる」公演に出演する

2006年 バレエ台本「不死鳥」を描く

バレエ台本を描いて踊ってみよう

バレエ台本
不死鳥

 

2000年 4月鎌倉芸術劇場・5月横浜市イズミ公会堂

「瀕死の白鳥」ゲストで踊る

*チャイコフスキー記念バレエ学校でメッセレル先生に学んだ本間陽子先生のスタジオの発表会で「瀕死の白鳥」を踊る。

2000年に鎌倉芸術館で踊った「瀕死の白鳥」

2001年 JUNバレエスクール開設・12月鎌倉芸術劇場・根岸駅前 ステッジョィホール

生徒たちと出演「くるみ割り人形」「瀕死の白鳥」

2002年 8月関内ホール・相模大野グリーンホール

「瀕死の白鳥」生徒たち「くるみ割り人形」

骨髄バンクチャリティーコンサート

2003年 白鳥の湖 相模大野グリーンホール

バレエの先生たちの発表会

「白鳥の湖」

2004年 9月関内ホール・11月よこすか芸術劇場

骨髄バンクチャリティーコンサート「瀕死の白鳥」

2004年
関内ホールで踊った
「瀕死の白鳥」

2004年
横須賀芸術劇場

2005年 6月八王子芸術劇場・11月関内ホール

「瀕死の白鳥」骨髄バンクチャリティーコンサート

2006年 9月関内ホール・10月よこすか芸術劇場

骨髄バンクチャリティーコンサート「命のつどい」

横須賀芸術劇場

母のC Dを使用

『HAHA」演奏:レイモン・ルフェーブル・グランド・オーケストラで踊る

民音音楽博物館に行き「母」のC Dを購入

演奏:レイモン・ルフェーブル・グランド・オーケストラ

 

 

2007年 2月目黒パーシモンホール・4月神奈川県民ホール・8月宮城県民会館

「瀕死の白鳥」

2008年 4月神奈川県民ホール・10月テアトルフォンテ

「瀕死の白鳥」

2009年 10月テアトルフォン

「白鳥」

私自身が振り付けした
「白鳥」2009年

 

2010年 6月神奈川県立音楽堂

2010年まで踊り続けた「瀕死の白鳥」の最後の写真

8月いわきアリオス・10月テアトルフォン

 

 

瀕死の白鳥
レベランス

 

2000年から2010年まで「瀕死の白鳥」を踊りながら生徒にバレエを教え、2011年から2015年まで横浜の音楽堂で行われるダンスカナガワフェスティバルに出演していた。

*元谷桃子バレエ団員の多胡寿伯子先生のスタジオの「くるみ割り人形」にも出演した。

2011年・2012年 多胡版「くるみ割り人形」に出演した。

多胡版「くるみ割り人形」(谷桃子バレエ団系列)

多胡版「くるみ割り人形」に出演した時のプロブラム

多胡版「くるみ割り人形」に出演した時の写真

谷桃子バレエ団・研究所の中等科で学んだ尾本安代先生

尾本安代先生について

谷桃子バレエ団員

プリマ・バレリーナ

19781979年 文化庁派遣芸術家在外研修員として、キューバ国立バレエ団及びモナコ・バレエ・アカデミーに留学

1980年 バレトメニア主催の「尾本安代特別公演」でキューバ国立バレエ団のアリシア・アロンソより指導を受け、「カルメン」を踊る

『カルメン組曲』は、マイヤ・プリセツカヤが主導してキューバのアルベルト・アロンソが振付け、ボリショイ・バレエで1967年に初演された。音楽は、当初シェスタコーヴィチに依頼したが、「ビゼーが怖いから」と断られたという。そしてプリセツカヤの夫のロジオン・シチェドリンがビゼーのオペラの音楽を編曲した。

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「カルメン」

振付:アルベルト・アロンソ
音楽:ジョルジュ・ビゼー、ロディオン・シチェドリン

しらとり 2023年-2024年⭐️

2011年から2015年

*ダンスカナガワフェスティバルでは谷桃子バレエ団・研究所で学んだ作品を踊った。

ダンスカナガワフェスティバル2010年〜2015年

ダンスカナガワフェスティバルにて「瀕死の白鳥」を踊る

(2011年6月18日音楽堂)

 

⭐️「瀕死の白鳥」の音楽について

1986年に日本バレエ協会 「全国合同バレエの夕べ」で東北支部の主役を踊り、8ヶ月ほど 東京の目黒区中根町に住み谷桃子バレエ団・研究所の初等科・中等科でバレエのレッスンを受けましたが、体調を壊し仙台に帰ってしまいました。1991年にミラノ・スカラ座バレエ団でメッセレル先生のレッスンを受け、1991年には谷桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導を受けました。その後2000年から2010年まで横浜で「瀕死の白鳥」を踊り続ける。

「瀕死の白鳥」の音楽について書いておきます。

「白鳥」は、フランスを代表する作曲家サン・サーンスが1886年に作曲した。

全14曲からなる組曲「動物の謝肉祭」のなかの1曲。

動物たちに優しいまなざしを向けていたサン・サーンスが作曲したのが13種類の動物が登場する「動物の謝肉祭」。にぎやかな動物たちの後、最後に登場するのが「白鳥」。多くの人に愛され、組曲の中でも一番の人気を誇る曲なのです。

1907年にはミシェル・フォーキン振付の『白鳥』を踊って話題となり、世界的に有名アンナ・パブロワが踊り花を咲かせた「作品」です。

 

2010年まで踊り続けた「瀕死の白鳥」の最後の写真

「瀕死の白鳥」渡邉順子
 評論家 藤井修治

自作自演の「瀕死の白鳥」とは言うものの百年以上前の原作に近く、奇を衒わず品よく踊った。近年多くのバレリーナが生への執着を濃厚に見せるのに対し、これが本来の姿かもしれない。

ダンスカナガワフェスティバル「白鳥の湖」よりルースカヤを踊る(2012年 6月16日 神奈川音楽堂)

元谷桃子バレエ団員 多胡寿伯子 指導

ダンスカナガワフェスティバルにて2013年6月「くるみ割り人形」アラビアの踊りを振付して踊る。

元谷桃子バレエ団員 多胡寿伯子 指導

*2000年から横浜で「瀕死の白鳥」を踊り続けた。
*2011年から2015年まで
ダンスカナガワフェスティバルにも出演した。
2011年・2012年に多胡版「くるみ割り人形」に出演

バレエの道から執筆の道へ

谷戸の風にのって 2020年

1986年(20歳)上京。

1987年5月(21歳)帰省。

1988年 谷桃子バレエ団 新春公演
「白鳥の湖」を観に上京。
初めて、鎌倉まで足を伸ばしました。

1990年は友達と鶴岡八幡宮、鎌倉文学館、七里ヶ浜にあったエリアナ・パブロワ館を訪ねたのです。とても楽しい会話をしながら、食べながらの鎌倉観光でした。

今は無き、エリアナパブロワ館の壁には「しらとりは哀しからずやそらのあを うみのあをにも染まずたたよふ」若山牧水の和歌が書かれていました。
私は18歳の時に盛岡でバレエ教師スラミフィ・メッセレル先生の講習会を受け、19歳の時に仙台でレッスンを受けました。
「アルファベットがすべて覚えられなければ単語は書けない」とバレエの基礎の大切さを学んだのです。
1986年、私が20歳の時にメッセレル先生がロシアで踊ったグリンカ作曲「ルスランとリュドラ」の主役を踊り1991年にメッセレル先生を訪ねイタリアのミラノ・スカラ座バレエ団を訪ねたことがあったのです。

20歳で初めて味わつた挫折

20歳の時に東京一人暮らしを経験し、体調を崩し帰省。仙台に帰った私は抜け殻のようになり、これから自分が何をすべきなのかの道を失ってしまったのです。
未練ありありで、谷バレエ団の公演を観に東京へ行くことから歩き始めました。それから段々、海外のバレエ団の公演を観にいくようになり、鎌倉まで足を伸ばし、絵を描いたり文章を書いたり会社勤めをし、1988年に仙台でバレエを再開。
書き物をした甲斐あってか、1990年にコスモス文学新人賞を受賞。また元気を取り戻した私は、再び東京暮らしを始めたのです。
1986年から1991年までの5年間は「ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき」藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけあそん)。この和歌のように光りの見えない道でも前向きにを歩き続けたのです。そしてこの暗い道を歩いた後に1993年に谷桃子バレエ団の公演にも出演。右足の靭帯を痛めバレリーナになる夢は捨て、1994年に結婚。

 

結婚し子育てしながら、2000年に鎌倉で「瀕死の白鳥」を踊り2001年にバレエ教師として、またバレエの道に戻りました。

バレエ鷺娘

大正11年(1922年)に20世紀を代表するロシアのバレリーナ、アンナ・パブロワが来日。「瀕死の白鳥」を見て観客は「ロシアの鷺娘」と感動、日本舞踊に大きな影響を与えたと言われています。
私は「瀕死の白鳥」を10年踊り続けました。「瀕死の白鳥」を踊り続ければ芸術を深く知ることができると信じていたのです。金沢区で日本舞踊の先生と巡り会い、2014年「バレエ鷺娘」を吉川久子さんの「湘南太平記」で踊ることができた事は私の人生の宝になっています。

吉川久子さん作曲「湘南太平記」の曲で初めて踊ったのは2008年11月。「我一人正義の旗物なり」で扇を持ち舞いました。その後、2010年に金沢区で行われた「金沢文化芸術祭」に参加し、お琴の先生と日本舞踊の先生に出会い2013年に「さくらさくら」の曲で日本舞踊的な創作バレエを踊りました。

28回 2013年ヨコハマ・コンペティション

さくらさくら

18年と言う間のバレエの道は希望の光りを感じながら進んだ道でした。
そして2018年に再びの帰省。
文章を書いていた昔の自分を思い出し2020年6月。54歳、迷う事なく執筆の道を進む事にしました。

谷桃子先生が踊られたリゼットが日本初

谷桃子バレエ団
70周年記念公演

盛岡の黒澤智子バレエ研究所 s・メッセレル先生の講習会に参加する。

仙台でバレエを学ぶ

8歳からバレエを習い初め、小学校6年生の時に「眠りの森の美女」のシンデレラ役で初めて男性と踊りました(パドドゥ)。中学校生になると宮城県芸術祭「レ・パティヌール」(スケートをする人々)で初めての主役を踊りました。その後、高校生になってから日本バレエ協会、東北支部の委員長、元谷桃子バレエ団員だった、黒澤智子先生と出会いました。

盛岡の黒澤智子先生

東京で主役を踊る時には黒澤先生のスタジオに行き「ルスランとリュドミラ」の練習をしたのです。

1984年(18歳)にメッセレル先生の講習会を受けに行き、東京の谷バレエ団でレッスンを受けたいと言う話になった時は盛岡の黒澤先生のスタジオで桃子先生ともお会いすることができたのでした。

1986年3月「ルスランとリュドミラ」の出演を踊り終わると、盛岡の黒沢智子先生の生徒さんだった力丸純奈さんが海外から一時帰国し「リゼット」の公演を行うことになりました。谷桃子先生が振り付け、指導するため5月に黒沢智子先生のスタジオを訪れたのです。

「リゼット」

「リゼット」の第2幕のワルツの振付けに私も参加させて頂きました。私は谷桃子バレエ団の「リゼット」という作品を全く知らなかったのですが、谷桃子先生が椅子に座って「リゼットがねー」とおっしゃった瞬間「リゼット」が少し分かったような気持ちになったのです。

谷桃子バレエ団の「リゼット」はS .メッセレル先生が振付した作品です。

1962年 谷桃子バレエ団 日本初演「リゼット」
日本にロシア・バレエを伝えたスラミフ・メッセレル、アレクセイ・ワルラーモフ直伝のゴルスキー版を基に、1962年主人公の名前をとって「リゼット」のタイトルで日本全幕初演。

*1960年、谷桃子先生がチャイコフスキー・バレエ学校に入学し、スラミフィ・メッセレル先生、バルラーモフ先生の指導を受けたのち、1962年11月1日・2日に東京文化会館で日本初演を飾る。

リゼット 谷桃子

谷バレエ団 70周年記念公演を観にいく。

2020年1月19日 70周年記念作品・LISETTE を観に上野文化会館に行く。

リゼット 斎藤耀
コーラ 牧村直紀
マルセリーヌ 岩上純
ミッショー 赤城圭
ニケーズ 中村慶潤

 

*私の中で谷先生はあまり悲劇の女王というイメージはないのですが結婚し離婚「赤い靴」の映画のヒロインとして話題を呼んだため一般的にも谷桃子という名前が有名になったのです。

古い谷桃子バレエ団のプログラム

谷桃子バレエ団の40年

 

「谷桃子バレエ団の40年」

昭和25年6月6日 仙台の常盤木学園

6月7日 仙台東宝劇場で「白鳥の湖」を上演

6月22日 早稲田大学総合芸術研究所 主催 大隈公会堂で谷桃子「瀕死の白鳥」を踊る

 

 

スラミフィ・メッセレル先生について

メッセレル先生との出会い
1984年8月27日

盛岡の黒沢智子バレエ研究所でメッセレル先生の講習会が開催された時に出会いました。
この日はメッセレル先生の76歳のお誕生日でした。私とメッセレル先生のご縁は1984年のこの日から18年続きました。

1985年8月、仙台でザハーロフ版「ルスランとリュドミラ」、ゴールスキー版「フレスコ」、メッセレル先生振り付け「瀕死の白鳥」を学びました。

1986年3月 東京メルパルクホールにて開催された「第9回 全国合同バレエの夕べ 東北支部」で順子は「ルスランとリュドミラ」の主役を踊ったのです。

 

スラミフィ・メッセレル先生と 順子20才1986年頃

1989年
順子 23歳
牧阿佐美バレヱ団の「ドン・キホーテ」と日本バレエ協会の「ドン・キホーテ」を観に上京。
12月 メッセレル先生が来日。メッセレル先生の講習会のレッスン。谷桃子バレエ団・研究所でメッセレル先生、谷桃子先生と再会。

1990年
順子 24歳
6月 コスモス文学新人賞 現代詩部門「楽屋」で佳作を受賞する。
10月20日、21日に谷桃子バレエ団・研究所を訪ねる。
メッセレル先生がロイヤル・バレエ学校で高部尚子さんを教えた。「シンデレラ」を尚子さんの振り付け・指導するため来日。順子はメッセレル先生について書きたいと思いバレエ団を訪ねる。

9月コスモス文学新人賞(同人誌)ノンフィクション部門 受賞「ダンサーに憧れて」

1991年にメッセレル先生を訪ねイタリアのミラノ・スカラ座バレエ団を訪ねました。

順子25歳

 

ミラノ・スカラ座バレエ団でレッスンを受けていた頃の私とメッセレル先生。

1991年 メッセレル先生振り付け「瀕死の白鳥」を谷桃子先生の指導で踊る。(仙台初演)

 

 

1991年
仙台で「瀕死の白鳥」踊る

1995年
順子 29歳
メッセレル先生が東京バレエ団の仕事で1月末〜10月まで来日。プリセツカヤさんの弟、アザーリ・M・プリセツキー氏が牧阿佐美バレヱ団で「ロメオとジュリエット」を振り付けするために来日。メッセレル先生が宿泊中のマンションで出会う。
1991年に渡邉順子が踊った「瀕死の白鳥」のビデオをアザーリさんとメッセレル先生に見て頂き、「瀕死の白鳥」の最後の手の動きの部分の指導を受ける。

1997年
順子 31歳
3月 スラミフィ・メッセレル先生の勲三等瑞宝章をお祝いする会に家族で出席する
東京バレエ団の仕事でメッセレル先生が来日。

メッセレル先生を祝う会1997年

2024年

チャイコフスキー記念東京バレエ学校で学んだ女優の栗原小巻さんのコラムが朝日新聞に連載されていた。

2024年1月29日から連続

「語る 人生の贈り物 」栗原小巻 2芸術を身体で、バレリーナ目指す2004年1月30 日

バレエを学んだのは1960年開校の「チャイコフスキー記念東京バレエ学校」だった。私は3年制の本科、第1期生でした。研究科もあり、谷桃子さん、松山樹子さんらのバレエ界を代表するバレリーナも学んでいました。
東京バレエ学校には個性あふれる仲間がいた
黒柳徹子さんの妹さんも同期の仲間。子供のクラスもあり、桃井かおりさんが所属していました。今と同じように個性が光っていました。

 私が書いた原稿は2000年 第14回新風舎 出版 ノンフィクション部門で2次までは通過 (1995年にメッセレル先生からお聞きした話を原稿に書いた。)

 

嬉しい事に「チャイコフスキー記念東京バレエ学校 1960年〜1964」を本屋で見つける。

メッセレル先生とワルラーモフ先生が教えた「チャイコフスキー記念東京バレエ学校 1960年〜1964」の本が出版された。2019年12月13日

 

バレエ大国 日本の夜明け

「バレエ大国」日本の夜明け

チャイコフスキー記念東京バレエ学校 1960年〜1964

 作者 斎藤慶子(現在は北海道大学スラブ・ユーランシア研究センター学術研究員)

研究テーマは日露バレエ交流史

本の内容

1960年5月

旧ソ連から来日した二人の教師は、日本人の踊り手達に、愛情と熱意と、持てる技術のすべてを注いだ。冷戦構造の状況下、米ソ中の対立い翻弄され、わずか4年しか続かなかった学校。

二人のロシア人の熱い想いが日本のバレエ教育に変革をもたらした
メッセレル・スラミフィ
ワルラーモフが紹介されています。
チャイコフスキー記念東京バレエ学校の活動について書かれています。
メッセレルとワルラーモフの教育
「まりも」の創作バレエ

「闘うバレエ」

「闘うバレエ」
佐々木忠次

佐々木忠次

バレエ学校を引き継ぎたいとは思わない。でも、バレエ団だったらやってみよう。日本にこれまでになかった世界的なバレエ団を作り上げるんだ。そう決意したとき、ぼくは30歳だった——パリ・オペラ座、ミラノ・スカラ座など、世界の檜舞台で踊る日本のバレエ団、東京バレエ団総監督・佐々木忠次が語る、感動のバレエ人生!

目次
第一章 東京バレエ団を設立する
レビューに魅せられていた
舞台の仕事がしたかった
フォンティンとヌレエフ
東京バレエ学校
バレエ学校の倒産とバレエ団の設立
海外のバレエ団を視察する
稽古場を建てるまで
ファッションショーは大事だった

第七章まで書かれてあります。


第七章 スターの素顔
シルヴィ・ギエムの涙
マラーホフとデレヴィヤンコ
マカロワとバリシニコフ
ミラノのマカロワ
ハイデとクランコ
エフドキモワとフラッチ
デュポンとフェリ
ルディエールとルグリ
ジョルジュ・ドンの時代
ジョルジュ・ドンの死

エピローグ 東京バレエ団とともに

校友を訪ねて
佐々木忠次

 

 

2004年にスラミフィ・メッセレル先生はイギリスで亡くなる。

2011年に「ルスランとリュドミラ」より

スラミフィ・メッセレル先生の追悼にヴァリェーションを踊る

ダンスカナガワフェスティバルにて

「ルスランとリュドミラ」を踊る渡邉順子

 

谷桃子先生について

白鳥の湖

 

「両親に連れられて、神戸でアンナ・パブロワを観たのが、
人生での初めてのバレエ鑑賞でした。
3歳の時でしたか、母の膝の上で「瀕死の白鳥」を観たのです。
そのラストシーンで、白鳥が死んでいく姿を見ていた私は、
心配して「あー」と指さしたそうなのです。母は、
この娘にも理解できるくらいにパブロワの表現は
凄いのだと思ったそうですが、同時に、この娘はバレエ
をちゃんと感じたのだと思った・・・そう言っていました。
小学生で関西から上京して、引っ込み思案だった性格を
直してやりたいということもあり、母が、バレエを
習わせました。その頃は、お稽古事といえば日本舞踊
とお琴でしたから、西洋舞踊を踊っている子供は
殆どいませんでしたね。」

谷桃子インタビュー記事

インタビュアー:長野由紀さん
記事提供者:デイライト

*2011年6月10日
東京都目黒区 谷桃子バレエ団スタジオにて

 

アンナ・パブロワについて

「瀕死の白鳥」と言う作品を踊り続けたバレリーナ

日本におけるバレエの普及に貢献した恩人

ロシア出身の20世紀最大のバレリーナである、アンナ・パブロワ(18811931年)

 「瀕死の白鳥」等の代表作で知られる。

 「私は、劇場に響きわたる拍手喝采が成功とは思いません。成功とは、自分の理想を実現することです」

 パブロワの言葉はマーゴ・フォンテーン著、湯河京子訳『アンナ・パヴロヴァ 白鳥よ、永遠に』文化出版局。

 自分が、人から喝采されるかどうかではない。

 自分自身が人々の苦悩や悲哀と戦い、感動と希望を贈る舞を踊る事。

愛する白鳥 ⭐️

愛する白鳥のページから引用する。

アンナ・パブロワ

ロシア革命の後、バレエ団を結成してインドや中国などを巡るアジアツアーを行っていたアンナ・パブロワは、1922年に日本で「瀕死の白鳥」を踊る

アンナ・パヴロワはロシアのサンクトペテルブルクに生まれました。9歳の時に母と初めてバレエの舞台「眠れる森の美女」を観劇したことがきっかけでバレリーナを志し、バレエ学校へ入学。その後クラシックバレエの基礎を築いたといわれているマリウス・プティパに認められ、1903年には改訂版『ジゼル』で成功を収めました。

1907年にはミシェル・フォーキン振付の『白鳥』を踊って話題となり、世界的有名バレリーナとして花を咲かせました。

1922年(大正11年)アンナパブロワが来日した。

日本公演は多くの文人も鑑賞しており、芥川龍之介は『露西亜舞踊の印象』で「僕は兎に角美しいものをみた」と賞賛している。

「瀕死の白鳥」は、アンナ・パブロワのために振付された、約2分ほどの作品です。傷を負った白鳥が、死の運命を持ちながらも息が絶えるまで生きるために必死にもがき苦しむ姿を描いた作品です。アンナ・パヴロワの、魂まで訴えかけるような名演と美しさは全ての観客を魅了し、彼女の名を不朽のものにしました。彼女の演技があまりにも素晴らしかったため、この作品は彼女の死後20年にわたって、その栄光を汚さぬよう誰も踊ることができませんでした。

アンナ・パブロワの日本公演 1922年(大正11年)

東京9月10日〜29日 帝国劇場

横浜9月30日〜10月3日 横浜劇場

名古屋10月4,5 日 末広座

大阪 10月6 日〜10日 角座

神戸 10月11日〜17日 衆楽座

京都 10月18日〜21日 南座

岡山10月23日 岡山劇場

広島10月24日 壽座

博多10月26、27日 大博劇場

門司10月28、29日 凱旋座

1931年に風邪をこじらせ肺炎になる。その後オランダのハーグで胸膜炎と診断され手術を勧められるも、手術をするとバレリーナとして再起不可能でることを告げられ、手術を拒否。闘病の末50歳でその人生に幕を閉じました。

 

アンナ・パブロワに憧れバレリーナになった谷桃子

映画「赤い靴」1948年

その年に公開された英国バレエ映画「赤い靴」は
日本では1950年に公開。
映画は大ヒットし、日本には空前のクラシックバレエ・ブーム
が起こり、街にはバレエ教室が次々と出現。
“赤い靴”が流行した。その映画の主演女優モイラ・シアラーが
映画で使用された赤い靴を贈られたのが
谷桃子先生でした。

日本では、終戦後1946年の「白鳥の湖」全幕の
日本初演をきっかけにバレエが注目され始めて
いました。そういう中でこの映画が上映され、
ヒットして、バレエが大ブームになりました。

谷桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導を受けた時に書いた文章

「瀕死の白鳥物語」遺言

「瀕死の白鳥物語」遺言

最後の別れ
谷桃子先生の葬儀

2021年1月11日ー2015年4月26日  94歳没

谷先生とは長くお会いしていなかったけど。

亡くなる2・3年前にご自宅を改装したと言うことでお会いしたことがありありました。

 

*日本のバレリーナに紹介されている文を引用します。

戦花の中の花一輪

「谷桃子が踊っていたことだけが、あの戦争中のショツクであり、味気ない時代の安らぎであった。

戦時中のくらい時代に、ドキドキするような歓喜と哀愁を味わった谷桃子の踊り」と書かれています。

谷桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導をうけたのは1991年だから、今から26年前のことになる。2000年から2010年まで踊り続けた「瀕死の白鳥」は、最後の場面で息を止め死んでいく。私の瀕死は最後に眠るように息を止めるため、手首を上手く回転させて肩にも回転が入ると自然に呼吸が止まる。速度はゆっくりし息を止める。早く回転するとすぐに息が止まる(笑)。息の止め方一つの練習に10年という歳月をかけた。死んでいく白鳥の最期には、常に栄光の光を感じながら呼吸を止めた。

1991年

谷桃子先生から「瀕死の白鳥」を学んだ時は、あまり強く言われなかったが、2000年に「瀕死の白鳥」を踊る時には「きちんと息を止めて踊りなさい」という指導を頂き踊った。

1991年頃の指導では「私より先に死ぬな」、「年功序列」と谷先生に言われ、最後の場面ではいつも手首をひねる程度で、先生の目の前で息を止めることはなかった。

2015年 5月3日 青山葬儀所で最後に素敵な「瀕死の白鳥」の舞を見届けました。

 

谷桃子先生を書かれた画家たち

JUNの仙台自由時間 2023年2月⭐️

谷先生の事をモデルに「ガラスのバレリーナ」という童話を書くため勉強していた頃のページに書いていた事

谷桃子先生は

「美術家の岡鹿之助奥村土牛三岸節子宮本三郎の絵のモデルにもなりました。」

日本バレエ史を引用

スターが語る私の歩んだダンスマガジン編

谷桃 バレリーナの半世紀より

奥村土牛の踊り子は山種美術館にあります。

山種美術館 東京都渋谷区広尾3-12-36

 

奥村土牛作「踊り子」
モデル谷桃子

谷桃子先生との出会い 岡鹿之助

1925年ー1939年の長いパリ生活のあと、第二次大戦のため止むなく帰国。同じ、パリのアパートで互いに尊重し合う仲間であった阿部女史の進めならと谷桃子のオデットを見た。これが出会い。谷桃子と直接会い、自分の見たパリのバレエの話、また舞台の数々、寄席の芸人が一回一回に、いかに全霊を込めて演じているかなどを語るようになった。「谷桃子バレエ団の40年」に書かれている。

 

バレエを勉強しに行った
谷桃子バレエ団・研究所
旧姓で私も名前も書いてある。

谷先生のお母様の遺稿集

谷先生から頂いたサイン

第二章

パガニーニによる大練習曲 6番「主題と変奏」

民音博物館 内にあるピアノ 撮影:渡邉順子 シュトローム

第6変奏:パガニーニの原曲は、3度の重音連続または10度の重音連続で、ヴァイオリンにとって全曲を通してもっとも難しい曲の一つ。リストは、初版では左手に10度の重音の進行(オッシアで3度での演奏を認めている)、改訂番では左手に3度の重音を、しかも「2・4」の指使いで連打させる。

 

2000年から20210年までずっと踊り続けた「瀕死の白鳥」。その「瀕死の白鳥」を踊りながら出会ったアーチィストたちについて少し書いて見たいと思います。

 

「瀕死の白鳥」を舞いながら

横浜で10年「瀕死の白鳥」を踊った中で出会ったアーチィスト

吉川久子さん

「鎌倉」のCDには吉川久子さんが初めて作曲された「湘南太平記」の曲も導入されている。
「湘南太平記」には様々な思い出があるので「湘南太平記」から書かせて頂きます。
そして吉川久子さんとの出会いについても書かせて頂きます。

鎌倉
「湘南太平記」

「バレエ鷺娘」2014年
モダンのコンクールで踊りました。

バレエ鷺娘

渡邉順子
2020年 6月 仙台 資福寺 紫陽花が咲き始めた日に。

谷戸の風にのって 2020年

「谷戸の風にのって」からの抜粋

吉川久子さんについて

2008年

腰越の山の上のサロン「きよこ」を訪ね、吉川久子の初の作曲「湘南太平記」で踊るチャンスに恵まれました。

吉川久子さんの出会い

2006年の秋

横浜のCDショップで吉川久子さんの「ヴィヴィト」を購入。
吉川久子さん奏でる「白鳥」・「アメージング・グレース」の曲を使用し、踊ることにしました。

2007年

瀕死の白鳥を吉川久子さんのヴィヴィトに導入されている「白鳥」で踊る。
骨髄バンクチャリティーコンサート

2008年2月

ヴィヴィトに導入されている「アメージング・グレース」をJunバレエスクールの生徒と一緒に踊る。
骨髄バンクチャリティーコンサート

2008年10月11日
バレエの先生の勉強会
横浜 テアトルフォンテ
「瀕死の白鳥」
吉川久子 作曲 湘南太平記
「叶わない恋」

Yバレエ初演 湘南太平記(2008年)

湘南太平記

その後JUNバレエスクールからJUNバレエ塾と名前を変え、根岸駅にあるスタジオから磯子のスポーツセンターでバレエを教える。

2009年10月10日に横浜のテアトルフォンでのバレエの先生の勉強会で吉川久子のCDヴィヴィト「 白鳥」で創作バレエ「白鳥」を踊る。

私自身が振り付けした
「白鳥」

2009年12月12日
金沢区の長浜ホールでJUNバレエ塾の発表会を開く。JUNバレエ塾の生徒たちと吉川久子さんの小さいコンサートを開いた。
「湘南太平記」

JUNバレエ塾と名前を変えてからは私自身もコンテのクラスやモダンのコンクールに出るようになり、創作バレエ作品を作り出すようになりました。

2010年
横浜市金沢区で開催された第1回「金沢文化芸術祭」CD吉川久子作曲 湘南太平記の曲で踊る。

2014年

29回 2014年ヨコハマ・コンペティション

ヨコハマ コンペティション(モダンのコンクール)
バレエ鷺娘
音楽 吉川久子 湘南太平記CD
バレエ鷺娘

振付:渡邉順子

指導:前田新奈

 

 

バレエ鷺娘

30回2015年ヨコハマ・コンペティション

天空の夜明け

指導:前田新奈

2017年
金沢文化芸術祭
「生きるも歓喜 死ぬも歓喜」
音楽 銀河街道 作曲 海老原真二
*吉川久子CD Un original を使用する

前田新奈

横浜のスタジオで前田新奈先生のクラスを受ける。

谷桃子バレエ団・研究所では高等科クラスで一緒に学びました。

 

2018年からバレエの教えを辞め主人と仙台暮らしを始め、執筆活動を始める。

踊るように筆で綴り始めた作品「ブルーな鎌倉」を描き始める。

2022年「ブルーな鎌倉」

鎌倉の光則寺に「雨にも負けず」の詩碑がある、

宮沢賢治の『雨ニモマケズ、風ニモマケズ・・・』の碑がありますがお寺とは直接の関係はない。

賢治が日蓮宗に深く帰依し、活動したことを称えた信者の方の浄財をもって碑を建立したとのことです。

鎌倉の光則寺は花の寺とも言われている寺で私が訪ねた頃は時計草が門の前に咲き、寺の廊下にはウサギ苔が置かれていた。

この寺を訪ねたのち、私は2018年から仙台に主人と暮らしています。

8歳からバレエを学び、結婚して、娘を出産後、JUNバレエスクールを立ち上げバレエ教師となり51歳までバレエを教え、踊っていました。

吉川久子さんのフルートの音色で奏でた銀河街道と言う曲で踊った事が最後になり、バレエ教師を辞め、仙台暮らしが始まったのです。

鎌倉には縁があり、バレエ教師をしながらずっと鎌倉のホテルで土曜日、日曜日にアルバイトをしていました。

鎌倉ペンクラブに所属しているフルート奏者吉川久子さんと知り合いになった事がきっかけで書いた作品

「谷戸の風にのって」

*谷戸(やと・やつ)とは

鎌倉の地形は三方の山に囲まれ、南に相模湾が開けている。いくつものひだのような谷が入り組んでおり、こうした谷は谷戸と呼ばれ、古くから人々が生活を営んできた。

「扇ヶ谷」「犬懸ヶ谷」「比企ヶ谷」「松葉ヶ谷」「御谷」

それぞれの歴史と深い関わりを持っている。

かまくら谷戸の風

作:山内静夫

谷戸の風

2001年に「谷戸の風」出版 山内静夫氏 76歳

映画「早春」など小津安二郎監督の晩年の作品を手掛けた映画プロデューサーで、鎌倉文学館館長などを務めた山内静夫氏は2021年に老衰で亡くなる。

山内静夫氏の父 里見弴

2022年 谷戸の風

「ブルーな鎌倉」があります。

2022年「ブルーな鎌倉」

2022年

渡邉順子 文学の経歴

絵本作家を目指す1

絵本作家を目指す2「赤い橋と白鳥」仙台広瀬川

絵本作家を目指す3 詩集など

 

1990年7月コスモス文学新人賞(同人誌)詩の部門 佳作

谷桃子バレエ団 移動公演(仙台)

1990 年「白鳥の湖」イズミティ21

仙台に谷桃子バレエ団の移動公演があり、「楽屋」で思いついた事を詩にした作品が佳作を受賞しました。

1990年6月 コスモス文学新人賞 現代詩部門「楽屋」で佳作を受賞する。

「楽屋」

鏡に向かい

彼女は自分だけの世界へ

はいりこんでゆく

白い頬に

もっと白いドウランを塗り

長いまつげの上に

もっと長いつけまつげをつける

愛らしい口びるに

赤々と燃ゆる口紅をさし

塗り潰された眉の上に

筆でゆっくり眉を書く。

ブルー色のアイシャドウ

茶色の鼻立て 頬紅をさして

私は顔の芸術を見ているようだった。

躰中を白く塗り

顔に白粉を塗ると 彼女は

私を見つめ

「きれい」と尋ねる

私は黙ってうなずく

私は彼女が鏡に向かい 自分の顔をつくりあげている時が一番美しいと思う

舞台に立っている時よりも

鏡に向かい

半開きの口びるに紅をさす時

口を閉じ

ゆっくり眉を書く姿はどんな仕草より 美しい

私は彼女が舞台に立つ前の時間が好きである

髪をギュッと結び

細い首筋 肉のない背中

暗い舞台の袖から

沢山の観客の中に飛びこんでゆく

その瞬間

彼女が鏡に向かい

化粧をはじめる時と同じ緊張感を感じる

緞帳が下がり

観客の温かい拍手を聞き

楽屋に戻ってくる

彼女の笑みは

化粧が終わり

満足した時の顔と同じだ

私は彼女の成功を見た

この詩が1990年に同人誌で佳作に選ばれた。

仙台で先生と仙台こけしと私1990年

9月コスモス文学新人賞(同人誌)ノンフィクション部門 受賞

谷桃子先生と私

2000年 第14回新風舎 出版 ノンフィクション部門で2次までは通過 

本の出版までにならなかった。

その後2018年から、JUNブログに執筆が始まる。

2023年作品 更新中

愛する白鳥 ⭐️

2023年から広瀬川の白鳥を撮影している記録写真

羽ばたき

絵本作家を目指す1

絵本作家を目指す2「赤い橋と白鳥」仙台広瀬川

絵本作家を目指す3 詩集など

広めよう 宮沢賢治の世界 2023年⭐️

2024年 オススメページ

宮沢賢治とバレエについても調べました。

宮沢賢治の世界のページもご覧ください。

宮沢賢治の世界を旅して ⭐️

賢治とカバンのイラスト

 

2022年作品

2022年 谷戸の風

谷戸の風

2020年作品

谷戸の風にのって 2020年

鎌倉
「湘南太平記」

バレエ関連

虹の彼方に

「瀕死の白鳥物語」遺言

「瀕死の白鳥 物語」⭐️

「瀕死の白鳥」の練習風景 

谷桃子先生に「瀕死の白鳥」の指導を受ける1991年

仙台のダンサー (東勇作 ダンサー)

仙台 西公園 東優作像

エリアナ・パブロワ

鎌倉パブロワ記念館の本

 

執筆活動の日々の日記

2001年 JUNバレエスクールを開設

2005年に「ゆうづる 」と言うバレエ作品に出演する

ゆうづるのチラシ

中島駿野

 新国立劇場バレエ団 ソリスト

東京都出身。祖父母である中島久・卯埜賀寿江(元谷桃子バレエ団)の元でバレエを始める。その後、安藤雅孝・尾寺敏晴・八木ひとみ・中島綾子にも師事。2014年新国立劇場バレエ団にファースト・アーティストとして入団。20年R.プティ『コッペリア』にてコッペリウスに抜擢され、好評を得る。その他にも、F.アシュトン『シンデレラ』王子の友人、W.イーグリング『眠れる森の美女』4人の王子、狼、『くるみ割り人形』ドロッセルマイヤー、D.ビントレー『アラジン』ゴールド、森山開次『竜宮 りゅうぐう』時の案内人、『ドン・キホーテ』ロレンツォ、P.ライト『白鳥の湖』ロットバルト男爵、C.ウィールドン『不思議の国のアリス』手品師/マッドハッターなど様々な役柄や作品を踊っている。22年ソリストに昇格。

*詳しいことは新国立HPへ。

新国立劇場バレエ団鑑賞記録

*新国立劇場バレエ団にもよく行きバレエを見ていた。

2005年「ゆうづる」に出演

プロディーの卯埜賀寿江(元谷桃子バレエ団)さん、中島綾子さん、振付家の安藤雅孝さんと共演する。

中島綾子さんの息子さんが中島駿野さん。

振付家 安藤雅孝は1998年にせ「カルメン」を振付して頂き一緒に踊った事がありました。

ゆうつるの振付家
安藤雅孝先生

安藤先生 振付
カルメン1998年

「カルメン」1998年

2015年 カルメン

結婚し、出産、子育てしながらバレエを学び1998年「カルメン」と言う作品を踊った。

 

1990年

独身時代

仙台からたまに東京に行き、六本木にあるスタジオ一番街で小川亜矢子先生のオープンクラスを受けたり、桃子先生のお稽古場に行き、体調がよくなったと報告したり、鎌倉を訪ねたり、東京でバレエ公演を見たりと大忙しの日々でした。

小川亜矢子先生のレッスンはチケッティ派で私が学んだワガノワ派とは違いましたが、小川先生はとてもスタイルのいい先生で海外のバレエ学校(ロイヤルバレエスクール)でも学び、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でも踊っていたバレリーナで、とても素敵な先生でした。

小川亜矢子先生は22歳の時に、イギリスの日本文学研究者のアイヴァン・モリスと結婚し、彼と共にパリに渡ったことで、フランスのバレエを学ぶ機会を得た。さらに彼がコロンビア大学の東洋学部の教授として招聘され、1960年(昭和35)年にはアメリカへ。ニューヨークのメトロポリタンオペラバレエ団で国際的に活躍、ローザンヌ国際バレエコンクールの審査員も務めた先生でした。

*201517日に亡くなる。

イギリスの日本文学研究者のアイヴァン・モリス

英語圏での古典・近代日本文学の研究進展に寄与し、英文著書のほか三島由紀夫の金閣寺、大佛次郎「旅路」など多数を英訳。同学のドナルドキーンが友人であった。

「ショパンの音楽を聴きながら」第1章 2022年ー2024年

結婚し、出産、子育てしながら青山のスタジオに通いバレエを習い2001年にJUNバレエスクールを開設した。

独身時代は六本木のスタジオに通い、結婚後は青山に移転した小川亜矢子先生のスタジオで教えをしていた安藤先生のクラスを受け、1998年にカルメンを振付して頂き、その後2001年にJUNバレエスクールを開設しバレエを教えながら2005年に安藤先生が振付した「ゆうづる」の作品に出演したのです。

JUNバレエスクールは小さな子どもたちを教えるバレエスクールでした。

2001年から2015年までバレエ教えました。

バレエ台本も描き振付をする上でのイメージを膨らませました。

バレエ台本を描いて踊ってみよう

バレエ台本
不死鳥

2015年

最後はピアソラの「孤独の歳月」を踊りバレエ教師の道を歩むのを辞めました。

「孤独の歳月」

バレエの道から文学の道へ

2018年から仙台に住み始め、体操の助手の仕事などもしていた時期がありました。

仙台に帰ってからは宮城県美術館に通い絵本作りの制作に夢中になった事もありました。

バレエ童話 イラスト画

星めぐりの曲を聴きながら
2023年
初作品

星めぐりの曲を聴きながら
作成中2

ミーとミータ
絵 渡邊順子
2022年
絵本作成中

仙台メディアテーク内にある「雑がみ部」や宮城県美術館に通い制作した作品紹介

雑がみ部 作品 (仙台メディアテーク7F)

宮城県美術館 休館中

宮城県立美術館(休館中)と仙台市内にある彫刻

 

第三章

ショパンの音楽を聴きながら

「ショパンの音楽を聴きながら」第1章 2022年ー2024年

プレイエルピアノ民音音楽博物館 写真:渡邉順子

プレイエルピアノ

[フランス共和国]
製作者:プレイエル社
製作年:1845年
サイズ:全長203cm、幅129cm、高さ94cm
音域:C₁~a⁴、82鍵

このピアノは、ショパンが所有していた最後のピアノと同型のもので、ショパンが実際に愛した音を聴くことができる貴重なピアノです。製作年代の1845年は、ジョルジュ・サンドとの愛を育んでいた35歳のショパンが、ピアノ・ソナタ 作品58 ロ短調などの傑作を次々と生み出した時期です。ピアノ本体に配された「虎斑状」の模様は珍しく、当時の美しい調度芸術作品ともいえます。

ショパンがパリで終生愛用したプレイエル
ショパンの主要な作品である「24の前奏曲作品28」「ノクターン作品37の1ト短調」「ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調作品35」「幻想曲へ短調作品49」等をはじめ、多くの曲がプレイエル製のピアノで作られているといわれています。フランツ・リストは「ショパンは銀色のように美しく、いくらかベールのかかったような音の響きと、非常に弾きやすいタッチの故にプレイエルを好んだ」と語り、ショパン自身も「私は気分が良くて、自分の求めるものを得るための充分な心身の力のあるときにはプレイエルも弾く」と語ったと伝えられています。

*2022年12月18日に民音音楽博物館を訪ね写真を撮りました。*プレイエルピアノの説明文は民音音楽博物館サイト

プレイエルピアノとショパン

ショパンは 1838 年に作家のジョルジュサンドを伴ってスペインのマヨルカ島を訪れました。彼らはラカルトゥハデヴァルデモッサ修道院のセル No.4を借り、そこでショパンはパリからプレイエルピアノを受け取りました。

滞在中、彼はこのピアノを使って、いくつかのプレリュード、ポロネーズ、2番目のバラード、3番目のスケルツォなどの素晴らしい作品を作曲しました。

ショパンはマヨルカ島で所有していたピアノをカヌー家に売却しました。

1932年以来、ショパンが演奏したのと、同じプレイエルピアノが部屋に展示されています。東京にある民音音楽博物館にもプレイエルピアノは展示されています。

2022年12月にマヨルカ島を訪ねたフジコ・ヘミングさんの映像も拝見しました。

フジコ・ヘミングのマヨルカ島の映像を見た感想 2022年12月24日

フジ子さんは幼少時代、日本人であったお母さんの弾くショパンの曲を聴きながら夜は眠ったそうです。母親は、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)出身のピアニスト。ピアノは身近な生活の一部。5歳の頃から、母の指導でピアノを弾く毎日となった。「ショパンとリストを弾く使命のピアニスト」と世界で絶賛されたフジコ・ヘミングの映像には圧巻でした。

民音音楽博物館の思い出

東京都信濃町にある民音音楽博物館
2022年12月1日にリューアルオープンしました。

2003年 初めて民音音楽博物館を訪ねる

私が初めて信濃町を訪ねたのは2003年頃だったと思います。

横浜市金沢区に住み娘がピアノを習い始めた頃でした。私も小さい頃にピアノを習っていましたが、ピアノの練習をするのが好きではありませんでした。小学6年生の運動会の日にアコーディオンで弾きながら運動場を歩き、中学生になってからはピアノもバレエも一度は辞めてしまいました。中学時代は図書委員になり、図書委員の会報誌にイラストを描いていました。

娘がピアノを習うため、ピアノを購入し、ピアノ店の方から「民音音楽博物館」があることを教えて頂き、海外のピアノ見たさに、信濃町に知り合いと出かけて行きました。娘もピアノは3年ほど習いましたが絵を習いたいと言うことで鎌倉まで家族で絵を習いに行ったのです。

多分、私も娘もピアノを弾く事よりも絵を書く方が好きなタイプのようでした。

 

2022年12月18日 民音音楽博物館を訪ねる。

2022年12月17日、立川ステージガーデンで行われた「フジコ・ヘミングコンサート」を聴きに行き、18日はリューアルされてた懐かしの民音音楽博物館を訪ね、ヨハン・フリッツ・シュトローム・ピサ・チェンバロといった懐かしのピアノと再会。可愛い天使とも再会しました。

フジコ・ヘミングの音楽を聴きながら文章を書くのが好きです。

2022年7月の日記より

書きはじめた随筆「ブルーの鎌倉」が落ち着き始め、フジコ・ヘミングのDVDを見ていたら、雲の上からメロディーが流れてきた。やっと絵を描きたくなった。そして作曲家ショパン・リスト・シューマンの人生まで勉強してみたくなった。

 

      ショパンの音楽を聴きながら

「ショパンの音楽を聴きながら」第1章 2022年ー2024年

フジコ・ヘミングの音楽を聴きながら

202281
夜中に「文豪聖地さんぽ」を読んでいた。最近、太宰治、芥川龍之介、夏目漱石の文学を読んだり、DVDの映画をみていた。私は横浜の中区に住んでいたのに神奈川近代文学館には縁遠く、バレエのレッスンに明け暮れ、鎌倉でアルバイトをしていた。港の見える丘公園によく行ったが、文学館にいかずにいた事が残念に思う。
神奈川近代文学館は夏目漱石、中島敦の貴重なコレクションを収蔵している。最近、中島敦の文学もいいと感じるのは中区の喜久屋洋菓子舗の和歌がある「愛しきやし仏蘭西の娘らショコラ飲み蒙古族われ独りパイを食す」
2022年12月25日
私は12月17日、18日と横浜馬車道にあるホテルに泊まった。
17日は立川ステージガーデンに「フジコ・ヘミングコンサート」を聴きに行った。
18日は港の見える丘公園から中区山下町あたりを眺めガンダムの写真を写すことができた。そして定番の横浜ベイブリッジの写真。
横浜観光に来た私は元町の喜久屋でラムボールを買い、山手十番館でプリンアラモードを食べた。
12月だから山手西洋館はクリスマスの飾り付けがされていました。

元町にある喜久屋

2022年12月27日bの日記
「私は20歳の時に東京一人暮らしを経験したの。
その後はずっとずっと働きながら原稿を書いていたわ。
病院のレントゲンの受付事務をして、一年間、東京のバレエ団の研究生をして、バレリーナになる事を諦めたの。
仙台に帰ってからはアルバイトをして、また、会社員になって働き始めたの。
20代を過ぎてから仙台のバレエ学校に入学。
発表会にも出演して、仙台から六本木のバレエスタジオに通い、鎌倉に遊びにいくようになったの。」
その後「瀕死の白鳥」を仙台で踊り、谷桃子バレエ団・研究所に戻り、結婚しバレエ教師になった。

仙台公演

フジコ・ヘミング」ソロ・コンサート

*2022年3月に地震があり、2023年に延期された。

延期された事もあり久しぶりに詩を書いた。

フジコ・ヘミングの音色を聴いていると

渡邉順子

フジコ・ヘミングの音色を聴きながら

忍耐強く 辛抱強く 粘り強く 根気強く

聴き続け 暖かい光に包まれ 幸せな気持ちになる

幸せとは

忍耐強く 辛抱強く 粘り強く 根気強く

続けていると 幸せになれると私は思った。

忍耐強く辛抱強く粘り強く根気強く

待つこと

平和の鐘の音が光輝き世界に響き渡った。

フジコ・ヘミングは世界で名のあるピアニストになった

忍耐強く辛抱強く粘り強く根気強く

生きることを私はフジコ・ヘミングから学んだ

2023年6月10日

久しぶりに詩を描いた。

2022年12月17日

 立川までフジコ・ヘミングコンサートを聴きに行く。

Fuzjko Hemming Specil Concert

2022年12月17日

演奏プログラム

モーツアルト:ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K467より第2楽章

ベートヴェン:ピアノ協奏曲 第5番「皇帝」変ホ長調Op.73より第2楽章

ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調0p.11より 第2楽章

リスト:ハンガリー狂詩曲 第2番

ドビッシー :月の光

リスト :カンパネラ

シューマン:トロイメイ

第2部

チャイコフスキー:交響曲ホ短調0p.64

指揮者:マルコ・コシック

管弦楽:東京21世紀管弦楽団

2023年2月 チケット販売で6月11日のコンサートチケットを購入した。

2023年1月はフジコ・ヘミングの書いた本を読みながら仙台の公演を待っていた。

パリ音楽散歩

フジコ・ヘミングの書いた本

 「パリの音楽家たちを訪ねて」の章が好きだった。

パリ音楽散歩

亡きフランスの音楽家の家を訪ねフジコ・ヘミングがその音楽家の曲を弾くと言う章。

モーリス・ラヴェル、ショパン、クロード・ドビュッシー、フランツ・リスト、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、カミーユ・サン=サーンス・リヒヤルト・ワーグナー、ガブリエル・フォーレ、エクトル・ベルリーオーズ、エリック・サティ、ジョルジュ・ビゼー、フランソワ・クープラン、セザール・フランクについて書いている。

 

フジコ・ヘミングの本

フジコ・ヘミングの本

「COLORS」から

夜想曲 第20番 嬰ハ短調

遺作 ショパン

ユダヤ系ポーランド人のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの半生を描いた「戦場のピアニスト」でながれたのが印象的。あの映画はとても好き。私は戦争い嫌いだけど、戦争映画は好きね。と書かれていた。

「戦場のピアニスト」の映画をまた見てみた。

 

2023年2月17日

DVDをメディアテークで観る

フジコ〜あるピアニストの軌跡〜

1 ハンガリアン・ラブソディーより リスト

2ノクターン第2番より ショパン

3聴かせてよ愛の言葉 ルノワール

4月光ソナタ第1楽章よりベートーヴェン

5ため息より リスト

6 ラ・カンパネラ リスト

1999年4月30日

7 愛の夢第3番 リスト

8魔王 シューベルト=リスト

9小鳥に語るアンジの聖フランシス リスト

10練習曲op25-9蝶々 ショパン

11練習曲op10-5黒鍵 ショパン

12練習曲op10-3別れの曲 ショパン

13練習曲op-12革命 ショパン

14ハンガリー狂詩曲 第2番 リスト

フジコさんの音楽を聴いているとシャガールの「音楽の勝利」・「音楽の源」の絵が頭に浮かんだ。

2022年6月に開催されるはずのコンサートが2023年6月に変更になった。

2022年12月17日 立川ガーデンステージで行われたコンサートに行って来ました。

そして12月18日に東京信濃町にある民音音楽博物舘を訪ねました。

そしてフジコ・ヘミングさんが奏でるブリュートナーピアノを拝見して来ました。

プリュートナーは「歌うピアノ」と呼ばれ賞賛されたこともあるピアノメーカーで、1853年にドイツ・ライプツィヒで創業されました。

ドイツの王室のみならずヨーロッパ諸国の王室、イギリスのヴィクトリア王女もプリュートナーに触れたと言われています。

リスト、チャイコフスキー、ヨハン・シュトラウス2世など多くの音楽家、作曲家・ピアニストに絶賛されたピアノ。

民音音楽博物館の展示 プリュートナーは齋藤ピアノと呼ばれています。

チェロ奏者。音楽教育者として活躍した齋藤秀雄(1902-1974)氏が愛用したピアノの一台。

フジコ・ヘミング ピアノ・ソロ コンサート

2023年6月11日

第1部

シューベルト:即興曲 変ト長調

スカルラッティ:ソナタ ホ長調K380

スカルラッティ:ソナタ ハ長調K159

ここからショパンに入りますとフジコさんがマイクで説明

エチュード・別れの曲・黒鍵・遺作・革命。

第2部

ドビッシー:月の光

ラヴェル:亡き女王のためのパヴァ~ヌ

リスト:ハンガリー狂詩曲 第2番 變ハ長調

リスト:ため息

リスト:ラ・カンパネラ

最後はベートーヴェンの曲だった。

 

ショパンの思い出

日本バレエ協会公演 第5回全国合同バレエの夕べ

1982年3月26日18:00

東京郵便貯金ホール

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

指揮者:堤俊作

曲:ショパン
振付:佐々木八重子
監修:黒沢智子
制作:日本バレエ協会東北支部
上演団体:日本バレエ協会東北支部

「レ・シルフィード」

配役
ノクターン コール・ドゥ・バレエ
旧姓 岩渕順子で出演した。
初めて東京の舞台に立ちその後、バレエの道を歩き出した。
思い出の曲

バレエ「レ・シルフィード」だった。

*1982年 日本バレエ協会 東北支部 「バレエの夕べ」レ・シルフィードに出演。郵便貯金ホール
東京に行き谷桃子バレエ団・研究所で中等科のレッスンを受ける。

1982年 初めて憧れのバレリーナ谷桃子先生に出会う。

バレエ『ショピニアーナ』について

振付師はミハイル・フォーキン。バレエの優雅さを堪能させるもので、森の精(シルフィード)と詩人(ショパン)が月明かりの下で踊り明かす。白のバレエ とも呼ばれている。

私自身の思い出の曲と言ったら、高校1年の時にオーケストラ付きで、ショパンの曲で踊った事。バレエ では「レ・シルフィード」と言う。ショパンのピアノ曲を管弦楽に編曲したバレエ音楽・バレエ作品。『ショピニアーナ』との別名もある。

私はショパンの曲は何でも好きです。

東北支部
盛岡の黒瀬先生のスタジオ
古い時代の稽古場です
日本バレエ協会

音楽構成

  1. 前奏曲イ長調

  2. 夜想曲変イ長調 全員の踊り

  3. ワルツ変ト長調 女性ソリストヴァリアシオン

  4. マズルカ作品33-2 女性ソリストのヴァリアシオン

  5. マズルカ作品67-3 女性ソリストのヴァリアシオン

  6. 前奏曲イ長調(最初と同じ) 女性ソリストのヴァリアシオン

  7. ワルツ嬰ハ短調 パ・ド・ドゥ

  8. ワルツ(華麗なる大円舞曲) 全員の踊り

私的にはワルツ(華麗なる大円舞曲)の曲が大好きだった。

ショパン=リストの作りあげた音楽

「乙女の願い」

 ショパン=リスト「6つのポーランドの歌」より 1 「乙女の願い」は、愛人カロリーネ・ヴィトゲンシュタイン伯爵夫人の1人娘マリーに捧げられました。

 カロリーネと夫ニコラウスの間の1人娘であったマリーは、生まれてからずっと母に連れられて、リストと一緒に暮らしていました。13年間の同居生活をおくったリストとカロリーネのもとで、マリーは少女から乙女へと成長していきました。
 そんなマリーに贈られた「乙女の願い」は、ショパンの歌曲をリストがピアノ編曲したものです。

 

フジコ・ヘミングコンサート

フジコ・ヘミングコンサート

2022年・2023年とフジコ・ヘミングコンサートを聞いているので、フジコさんが奏でるショパンの音楽が大好きです。

フレデリック・ショパン

 3つの新しいエチュード 第1番 変ヘ長調(ショパン)

ノクターン 第2番 夜想曲 変ホ長調 Op.9-2(ショパン)

ノクターン 第20番 嬰ハ短調 遺作(ショパン)

 エチュード 第3番 ホ長調(別れの曲)作品10-3(ショパン)

練習曲op10-5黒鍵 ショパン

革命 ショパン 練習曲10-12

エチュード イ短調「木枯し」(*2023年に好きになった曲)

民音音楽博物館
エアールピアノ

フランツ・リスト

パガニーニによる大練習曲集(Grandes etudes de Paganini)【1851年作曲】

183120歳の時にリストは当時すでにヴァイオリンの巨人であったパガニーニの演奏に触れた。

その後「私はピアノのパガニーニになる。」という有名な言葉とともに、パガニーニのヴァイオリン曲をピアノに編曲した。

1838年に出版、その後、1851年に改定し、現在の形となった。「ラ・カンパネッラ」が有名。

ラ・カンパネッラにはエラールのピアノ🎹をイメージしました。

 

エアールピアノ

愛の夢 第3番変イ長調s.41の3

リスト:ハンガリー狂詩曲 第2番 變ハ長調

リスト:ため息

リスト:ラ・カンパネラ

*リスト:コンソレーション (2023年から好きになる)

2023年11月29日の日記

リストなコンソレーションと言う曲を聴いた。

清らかな気持ちになった。

湖の水がどこまでも透き通っているイメージ。その清らか水を見つけている気持ちになる。

広瀬川

コンソレーション(慰め)(Consolations)【184950年作曲】

「コンソレーション」とは「慰め」という意味で他のリストの作品と異なり、超絶技巧を使う作品ではなく、心を落ち着かせるような小品集である。 特に3番はショパンのノクターン風の叙情的な内容で有名である。

「コンソール」の語源は?

コンソール(Console)とは、ラテン語の「consolor」(緩める、和らげる)に由来する英語で、「持ち送り」の意味がある

フジコ・ヘミングのCOLORSから引用する

コンソレーション 慰め

第3番 S・172の3リスト

第3番は最も有名で、左手の分散和音の上に浮かび上がる物憂げで美しいメロディは、ノクターンのような性格を併せ持つ。

(ため息)に通じるロマンチィックで上品な雰囲気の作品

フジコ・ヘミング

COLORSにあるコメント

「弾く機会が少ないけど大好きな曲」と書かれていた。

フジコ・ヘミングの本

 

 

第四章 チャイコフスキーの音楽を聴きながら

 

広瀬橋からみた白鳥 写真:渡邉順子

 

チャイコフスキーと言えば「白鳥の湖」から紹介してみます。

白鳥の湖のCD

バレエ「白鳥の湖」
絵本

日本のバレエの歴史を少し勉強してみましょう。

未完成交響曲を奏でるよう

第4章 チャイコフスキーの音楽を聴きながら

「白鳥の湖」

日本のバレエの歴史

新国立劇場運営財団情報センターで10年以上前に購入した本によると。

1916年 大正5年にロシア帝国劇場のエリーナ・スミルノワ一行が来日。

「白鳥の湖」 チャイコフスキー作曲

ポリス・ロマーノフとエリーナ・スミルノワによるパドドゥ。

ポリス・ロマーノフ振付

サン・サーンス作曲

「瀕死の白鳥」

ノクターン

ショパン作曲

ポリス・ロマーノフとのパドドゥ

(レ・シルフィード)

「瀕死の白鳥」の日本初演はエレーナ・スミルノワが踊った。

1922年にアンナ・パヴロワが来日し、「瀕死の白鳥」を踊った。

スワン
アンナ・パブロワの絵本

19253

東京の歌舞伎座で松竹歌劇団舞踊団の第1回公演でクセニア・マクレツォワがバレリーナとして「白鳥の湖」を踊った。(抜粋)

この公演が日本初の白鳥の湖の上演。

1940

チャイコフスキー生誕100年を記念し、「白鳥の湖」がエリアナ・パヴロワの秋期舞踊発表会で上演される。

エリアナ・パブロワ

王子 島田廣

オデット エリアナ・パブロワ

エリアナ・パブロワ

 

1946

チャイコフスキー作曲

白鳥の湖 全幕 日本初演

王子 東勇作/ 島田廣

仙台のダンサー (東勇作 ダンサー)

オデット・オディル

松尾明美/ 貝谷八百子

仙台 西公園 東優作像

 

 

チャイコフスキーの音楽を聴きながら

仙台の西公園に東勇作さんの像がある。

東勇作さんは仙台から鎌倉のエリアナ・パヴロワバレエスクールに行き、バレエを学んだダンサー、バレエ教師。

日本初の白鳥の湖全幕の王子役を務めた。

私も1990年頃、鎌倉にあったエリアナ・パヴロワ記念館を訪ねた事があった。

 

1990年頃

東京の目黒にあった古い谷桃子バレエ団で、今は亡き谷桃子先生から「谷桃子バレエ団の白鳥の湖のコールド・バレエの衣装は膝下まで長く、プリマバレリーナだけがチュチュなのよ」と谷バレエ団の白鳥の湖と別のバレエ団との違いは衣装と教わった。

*今は谷バレエ団の白鳥の湖の衣装も多分、コールド・バレエもプリマもチュチュを着て踊っていると思う。

私も「白鳥の湖」のオデットをバレエの先生になってから踊ったけど、牧阿佐美バレヱ団の「白鳥の湖」の振付で踊った。*2003年 白鳥の湖 相模大野グリーンホール

仙台のバレエ研究所では1980年 第9回発表会で「白鳥の湖」全幕で白鳥の二羽(ソリスト)を踊る。

1990年橘バレエ学校仙台教室では「白鳥の湖」のコールドバレエを踊る

「白鳥の湖」

20代の頃のバレエ経歴

1988年 バレエ学校に入学(仙台)
「日ソ友好バレエコンサート」に出演
1989年 発表会「くるみ割り人形」に出演
1990年 発表会「白鳥の湖」グラズノフ「四季」オーケストラ付き
1991年 発表会「コッペリア」*祈りのソロを踊る

仙台の橘バレエ学校で1990年「白鳥の湖」第2幕のコールド・バレエを踊った。

オデットは川口ゆり子先生。

王子は三谷恭三先生。

オーケストラ付きの発表会。

*「思い出の谷桃子バレエ団・研究所 1993年」

谷桃子バレエ団・研究所の高等科で谷桃子先生のレッスンを受けました。

谷桃子バレエ団・研究所の発表会に出演。「白鳥の湖」より第三幕  ルースカヤ  。一般 高等科 田阿曽美に出演。高等科と準団クラスを受けていたため谷桃子バレエ団 公演「くるみ割り人形」にも出演し、バレエ団からギャラを頂きました。谷桃子バレエ団 新春公演「ドンキホーテ」に出演。結婚後、バレエ教師になる。

私的にはチャイコフスキーのルースカヤの音楽はとても好き。

谷先生がルースカヤの振付を考えたと何度も聞かされたわね。谷先生がルースカヤを踊った事があった事も知った。

バレエの先生になってからは2012年ダンスカナガワフェスティバルでもルースカヤを踊った。

2015年 「白鳥の湖」のスペインの踊りも踊った。

2012年 6月16日 神奈川音楽堂

「白鳥の湖」よりルースカヤ

*衣装:スタジオべラーム

スペインの踊り
多胡先生の最後の公演で「白鳥の湖」よりスペインの踊りを踊る

*バレエ教師になってから「一枚の絵」の新井美智代先生のカルチャースクールでバレリーナモデルの仕事をしていた。

カルメン 絵: 新井美智代

カルメン 絵: 新井美智代

モデル:渡邊順子 絵:鈴木崇夫

モデル:渡邊順子 絵:鈴木崇夫

モデル:渡邊順子 絵:鈴木崇夫

モデル:渡邊順子 絵:鈴木崇夫

モデル:渡邊順子 絵:鈴木崇夫

カルメン
絵:鈴木崇夫

鈴木鬃夫 画

バレエ「藤娘』絵:鈴木宗夫

*エリアナ・パブロワ

1990年に鎌倉バプロワ記念館を訪ねた。

若山牧水の短歌

「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにもまずただよふ」

この短歌が記念館の壁に書かれていた。

(1987年〜1996年 閉館)

1928年〜1892年
エリアナ・パブロワさんが亡き後 妹のナデジダ・パブロワさんがバレエ・スクールを引き継ぎましたが1982年12月16日がナデジダさんが亡くなりスクールは閉館。「日本バレエ発祥の地」と書かれた顕彰碑とロシア窓を二重のアーチが今も鎌倉  七里ヶ浜にあります。

エリアナ・パブロワ館を尋ねた当時1990年の写真

 

1990年に鎌倉パブロワ記念館内の写真

1990年の鎌倉パブロワ記念館の写真

鎌倉パブロワ記念館の本

七里ヶ浜パブロワ館

横浜開港記念館内にもエリナ・パブロワの写真が飾られていた。2014年頃横浜中区に住んでいた当時に写した写真。

懐かしの本牧暮らし(横浜編)

JUNの横浜名建築でコーヒーを

 

 

横浜開港記念館

横浜開港記念館の中

 

エリアナ・パブロア「瀕死の白鳥」

横浜外人墓地

2022年に訪ねた。

 

外人墓地資料館
横浜外人墓地にエリアナ・パブロワの墓がある

2023年11月26日の日記

トロイカ

四季 作品37bから(11月)

チャイコフスキー

四季はロシアの音楽雑誌「ヌーヴェリスト」の企画として作曲されたピアノ曲集で、詩と音楽がコラボし、シリーズとして掲載された。1月から12月までの全曲からなり、ロシアの自然や季節の移り変わり、人々の生活などが表現されている。

11月(トロイカ)はニコライ・ネクラーソフの詩のイメージを音楽化したもの。ロシアは冬の期間が長く、11月の真冬の美しい雪景色が広がる。3頭立ての馬車のことをトロイカといい、ソリを引いて走っていく様子が描かれている。

四季の中ではこの曲が一番好き。口ずさみたくなるメロディよね。雪道を馬車が走ってる景色や鈴の音、中間部では馬の蹄の音。そういう情景をイメージしている。

フジコ・ヘミング COLORS  音に色をつけるように弾くより

フジコ・ヘミングの本

 

1986年に日本バレエ協会 「全国合同バレエの夕べ」で東北支部の主役を踊り、8ヶ月ほど 東京の目黒区中根町に住み谷桃子バレエ団・研究所の初等科・中等科でバレエのレッスンを受けましたが、体調を壊し仙台に帰ってしまいました。1991年にミラノ・スカラ座バレエ団でメッセレル先生のレッスンを受け、1991年には谷桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導を受けました。その後谷桃子バレエ団・研究所の高等科で谷桃子先生のレッスンを受け、準団クラスを受け谷桃子バレエ団の「くるみ割り人形」に出演。元谷桃子バレエ団員の多胡寿伯子先生のスタジオの公演の「くるみ割り人形」にも出演しました。

 

くるみ割り人形

仙台でバレエを学び「くるみ割り人形」と言う作品にもたくさん出演しました。

仙台で学んだバレエ

1977年 第6回発表会は「くるみ割り人形」雪のソリストとあし笛の踊りに出演する。

1983年 第10回発表会「くるみ割り人形」全幕で雪の女王を踊る。

「くるみ割り人形」全幕
雪の女王

宮城県芸術祭「くるみ割り人形」全幕 花のワルツの主役

1989年 橘バレエ学校 仙台教室 発表会「くるみ割り人形」に出演 スペインの踊り

谷桃子バレエ団の公演に出演した記録

平成4 年(1992年) 10月26日から「くるみ割り人形」のリハーサルが始まる

11月15日わらび市「くるみ割り人形」に出演(会館主催)

11月16日えびな市「くるみ割り人形」に出演(学校公演)

12月3日「くるみ割り人形」のリハーサル始まる

12月13日小川町で「くるみ割り人形」に出演(会館主催

1993年 7月18日 「くるみ割り人形」ハイライツ ニューフィル千葉定期公演

谷桃子バレエ団「くるみ割り人形」にも出演する

結婚1994年

2001年 JUNバレエスクールを開設 

2002年 鎌倉 JUNバレエスクール 「くるみ割り人形」生徒たちと出演

金平糖のヴァリエーションを踊る

2011年・2012年 多胡版「くるみ割り人形」に出演した。

*元谷桃子バレエ団員の多胡寿伯子先生のスタジオの「くるみ割り人形」にも出演した。

ベラーム・ステージ・クリエイトのくるみ割人形に出演する

ダンスカナガワフェスティバルにて2013年6月「くるみ割り人形」アラビアの踊りを振付して踊る。

くるみ割り人形より
アラビアの踊り

多胡版「くるみ割り人形」

多胡版「くるみ割り人形」
きのこ役

多胡版「くるみ割り人形」に出演した時の写真

 

2023年「くるみ割り人形」のイラストを描いてみた。

バレエ絵本仙台版「くるみ割り人形」

不思議なくるみ割り人情
2023年

くるみ割り人形2021年作成

「くるみ割り人形」絵本
第1幕 コロンビーヌ

アクリル絵の具を塗る
くるみ割り人形
葦笛の踊り
絵:渡邉順子

「眠りの森の美女」

1979年 第8回発表会「眠れる森の美女」シンデレラのパドドゥ

1979年に躍った
「眠りの森の美女」
シンデレラのパドドゥ

*コンクールのパドドゥ部門で「眠りの森の美女」のパドドゥで出場した事もあった。

白猫
眠りの森の美女に登場するキャラクター

白猫 
2023年10月8日

おすすめのDVD

ダニエル・バレンボイム指揮のバレエDVD

ベートーヴェンとジャスを聴きながら 宮沢賢治編2024年

 

白鳥の湖

くるみ割り人形

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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