絵本作家を目指す1

絵本作家を目指す1

 

渡邉順子

1966年 仙台生まれ

8才からバレエを学び、結婚後、横浜でバレエ教師をしていた。

詩人の始まり

よく覚えていないけど。

2425歳頃。

仙台の本屋で画家で舞台美術家の宮内裕さんの本を買い、東京の宮内宅を訪ねた。

なんで尋ねたかと言うと。

本を読んで、その本の感想文を出版社に送った。

そしたら、出版社に私のファンレターが届いたと宮内さんに連絡が入ったらしい。

出版社から私に連絡が入り、宮内裕先生宅の住所を教えて頂き、また手紙を送りたい時にはご自宅にお願いしますと言われた。

宮沢裕さんの奥様は元モデルでファッション評論家の大内順子さん。

仙台から東京の青山の自宅マンションを訪ね、宮内先生行きつけのとんかつ屋でとんかつをおごって頂き。

私の手紙を読んだ感想を教えてくれた。

「君、詩人になれるよ」

宮内裕さんの本にサインを頂いた。

1990年 コスモス文学の同人誌の詩部門で佳作。

長い事、バレエの道を歩き過ぎて、最近、詩など書いていないが詩を書いてみる事にした。

宮内裕さんから頂いたサイン入りの本は今、どこにあるかな。

探してみる。

探しました。宮内さんのサインを更新しました。

2023年5月3日

宮内先生のサイン

文学の道を目指した2 年間

谷桃子先生と私

バレエ雑誌に紹介された

❤️2006年 自分自身でバレエ台本を描き、自分で振付して踊った経験もある。

2018年に帰仙

2021年から宮城県美術館創作室に行き,絵の技法などを少し学ぶ。

2023年から絵本作家を目指している。

⭐️作家になるための経歴⭐️

1990年7月コスモス文学新人賞(同人誌)詩の部門 佳作 楽屋

9月コスモス文学新人賞(同人誌)ノンフィクション部門 受賞

コスモス文学に載せている作品を紹介しているページ

詩の部門 「楽屋」

渡邉順子 執筆活動

1990年6月 コスモス文学新人賞 現代詩部門「楽屋」で佳作を受賞する。

「楽屋」

鏡に向かい

彼女は自分だけの世界へ

はいりこんでゆく

白い頬に

もっと白いドウランを塗り

長いまつげの上に

もっと長いつけまつげをつける

愛らしい口びるに

赤々と燃ゆる口紅をさし

塗り潰された眉の上に

筆でゆっくり眉を書く。

ブルー色のアイシャドウ

茶色の鼻立て 頬紅をさして

私は顔の芸術を見ているようだった。

躰中を白く塗り

顔に白粉を塗ると 彼女は

私を見つめ

「きれい」と尋ねる

私は黙ってうなずく

私は彼女が鏡に向かい 自分の顔をつくりあげている時が一番美しいと思う

舞台に立っている時よりも

鏡に向かい

半開きの口びるに紅をさす時

口を閉じ

ゆっくり眉を書く姿はどんな仕草より 美しい

私は彼女が舞台に立つ前の時間が好きである

髪をギュッと結び

細い首筋 肉のない背中

暗い舞台の袖から

沢山の観客の中に飛びこんでゆく

その瞬間

彼女が鏡に向かい

化粧をはじめる時と同じ緊張感を感じる

緞帳が下がり

観客の温かい拍手を聞き

楽屋に戻ってくる

彼女の笑みは

化粧が終わり

満足した時の顔と同じだ

私は彼女の成功を見た

この詩が1990年に同人誌で佳作に選ばれた。

「空の落書き」

発表した詩

「空に書いた落書き」

岩淵順子

1991年

 

雨のふる日

僕は家の中にいた。

白い画用紙にクレヨンで落書きをした。

僕は「赤色のクレヨン」を手にし、早く雨がやむように太陽を書いた。

大きな、大きな、丸を描いた。

真っ赤な、太陽を、

赤色のクレヨンで描いた。

「赤色のクレヨン」はママが持っている、口紅に似ている。

 

「黄色のクレヨン」

大きな、大きなひまわりの花。

黄色のクレヨンで画用紙、一枚に向日葵の花を描き上げる。

ママが、僕の絵を見ながら「みかん」と、言った。

僕は急に悲しくなった。

 

「緑色のクレヨン」

緑色は、草の色。

緑色は、野菜の色。

緑色は、僕のまわりにたくさんある。

僕は、緑色のクレヨンで、「キャベツ畑と緑虫」の絵を描いた。

春になると、きれいなチョウチョが、キャベツ畑から飛んでいくことだろう。

 

「茶色のクレヨン」

茶色の色。

茶色は木の色。

茶色は、チョコレートの色。

ママも茶色のクレヨンで「眉」を描くんだ。

どうして、顔に色を塗るのか。僕は不思議に思った。

 

「白色のクレヨン」

雪だるまを、白色のクレヨンで描いた。

画用紙と同じ色だから、

雪だるまの絵が見えてこない、

クレヨンは、短くなるのに、

雪だるまの絵は、みえない。

「白色のクレヨン」ははずかし屋さん。

 

「青色のクレヨン」

青色は、空の色。

青色は、海の色。

青色は涼しい五月の空を思わせる。

青色のクレヨンで、空と海を描いたら、画用紙が、「青」一色に染まった。

 

「ピンク色のクレヨン」

ピンク色のクレヨンは、

春の色。

桃の花が咲き、ウグイスが鳴き、

白い冬の世界から、明るい春の世界へとうつりかわる。

桜の花が風にふかれ、

辺りが、桜色に染まる風景を、

思い浮かべて色を塗った。

 

「水色のクレヨン」

一滴、一滴。

白い画用紙に、落ちてゆく。

「雨の」様に。

「涙」の様に。

「水」の様に。

「水色のクレヨン」は、泣き虫なのさ。

僕が白い画用紙に落書きをしていると、空には、大きな落書きが描いてあった。

 神様が描いた落書きは、とてもきれいな虹だった。

 空にうかんでいる、小さな水のつぶに、太陽の光があたるとできる  

 七色の弓形の帯。

 雨が上がると、太陽の反対側に見える。

あの虹は、神様が描いた、最高の芸術。

 小さい頃の僕は、とてもロマンチストだった。

「虹の橋を渡りたい」

そう、思っているうちに、消えてなくなる虹。

それは、夢と現実を渡る橋だったのだろう。

大人になった時、

君は「虹の橋を渡りたい」と思うかな。

僕は、今でも虹を見るたび、

小さい頃の僕を思い出すんだ。

あれは、神様が描いた落書き

 そんな言葉を。

 

バレエ関連「ダンサーに憧れて」ノンフィクション部門

バレエ童話「アン・ドゥ・トロワ」

*
「ガラスのバレリーナ」
というバレエ童話に書き直す予定

ガラスのバレリーナ(白鳥にバレエを学んだ少女の物語)

 

BEAR BALLET

ガラスのバレリーナ
イラスト

 

 

コスモス文学
同人誌に発表した作品
渡邉順子(旧岩渕順子)

2000年 第14回新風舎 出版 ノンフィクション部門で2次までは通過 

本の出版までにならなかった。

「マダム メッセレル」

虹の彼方に

虹の彼方に 抜粋

1990年
順子 24歳
6月 コスモス文学新人賞 現代詩部門「楽屋」で佳作を受賞する。
10月20日、21日に谷桃子バレエ団・研究所を訪ねる。
メッセレル先生がロイヤル・バレエ学校で高部尚子さんを教えた。「シンデレラ」を尚子さんの振り付け・指導するため来日。順子はメッセレル先生について書きたいと思いバレエ団を訪ねる。

1991年
順子 25歳
1991年1月11日・12日 メルパルクホール
谷桃子バレエ団公演「シンデレラ」を2日間観る。
シンデレラ 高部尚子
王子 赤城圭/樫野隆幸

5月にミラノ・スカラ座バレエ団に一週間行きレッスンを受ける

Sメッセレル先生、私、ミハイル・メッセレル(メッセレル先生の息子さん)

1991年 メッセレル先生振り付け「瀕死の白鳥」を谷桃子先生の指導で踊る。(仙台初演)

1991年
「瀕死の白鳥」

「瀕死の白鳥」の練習風景 

 

メッセレル先生関連の本

バレエ大国

 

 

 

メッセレル先生について描かれているページがあります。

 

ボリショィ・バレエの技法

闘う白鳥

プリセツカヤ

マイヤプリセツカヤの本

プログラムにサインを頂いた。
プリセツカヤ

マイヤ・プリセツカヤ
1925年11月20日生まれ。
死没:2015年5月2日(89歳)

1968年、プリセツカヤさんが初めて日本に招かれ「白鳥の湖」を披露する。プリセツカヤさんの踊る「瀕死の白鳥」はその芸術性の高い演技で日本の多くのバレエファンを魅力した。

マイヤ・プリセツカヤさんの母方の叔母がスラミフィ・メッセレル先生。
父:ミハイル・プリセツキーは、スターリンの粛清により1938年に銃殺刑に処された。

サイレント映画女優だった母ラリサ・プリセツカヤ(スラミフィ・メッセレル先生のお姉)は、人民の敵」の妻と言う理由でカザフスタンへ強制送致される。そん時代のお話である。
1990年10月20日・21日に記録する。

とても難しいお話だった。
メッセレル先生の日本語で書くことにする。

1938年3月 ロシア

「スラミフィ・メッセレル 29歳。
私はボリショイ・バレエ団のプリマ・バレリーナでした。まだ、日本の国知らない頃でした。
プリセツカヤのお父さんは1937年5月1日に逮捕されました。無実の罪で。」
*1930年後半、スターリンは反対派を排除・処刑する。『大粛清』と呼ばれ、死亡者8百万〜1千万人といわれる。

「あの時、よくない時間でした。私にはお姉さんいます。ラヒリ・メッセレル。ラヒリ子どもたち、マイヤ・プリセツカヤ、アリクサンドル・プリセツキー、アザーリ・プリセツキー。
私は眠りの森の美女を踊るために楽屋でメーキャップをしていました。急にお姉さんの子供が私を訪ねて来ました。私はびっくりしました。何故ならばボリショイ劇場の楽屋に子供は入ることはできません。、私は何かあった、何かあったと思いました。その前にお姉さんのご主人、プリズンに連れて行かれました。
みんな、みんな夜誰か来ます。連れて行かれます。舞台に立たなければ。一幕のメロディーが始まりました。私は子ども達を私の楽屋に待たせました。子ども達にどうやって劇場に来たか聞きました。
プリセツカヤ『お母さん、スラミフィ叔母さんのいる劇場行きなさい。早く早く』言いました。
スラミフィ・メッセレル『アザーリはどこにいますか?』
プリセツカヤ『わからなーい』
私は兄 アサフ・メッセレルと踊っていました。
アサフの楽屋に行きました。
アサフ『ノーパニック。ノーパニック』
『踊って下さい』
「私は2幕のメロディーを聞きましたから、舞台に立ちました。この日の舞台は何を踊ったか覚えていません。私はマイヤとアリクを連れて子供達の家(ラヒリの家)に行きました。ドアは閉まったままでした。
だれもいない。
何度もドアをたたきました。
よく朝早く、お姉さん(ラヒリ)の家に行きました。ドアは閉まったままでした。だれもいない。なんどもドアをたたきました。次の日の朝早く、お姉さんの家に行きました。2人のミラタリーが立っていました。お姉さんの赤ちゃん(アザーリ・プリセツキー)とお姉さんはモスクワ市にあるブトィルスカヤ刑務所に連れて行かれました。」

マイヤはスラミフィ・メッセレルの家に、弟のアレクサンドルはスラミフィの兄アサフ・メッセレル宅に引き取られることになる。

姉ラヒリの居場所が全く分からなくなった頃、
「私は郵便局でとても小さい手紙を見つけました。新聞の端切れ。当時はトイレットペーパーがありませんから新聞紙を使ってました。
エンピツもない場所だったので、マッチの燃えかすで字を書いた手紙。アクモリンス収容所。」

*この事についてプリセツカヤの自伝「闘う白鳥」にこう書かれている。
—母は窓際に陣取る。手には新聞の切れ端が握りしめられていた。そこには、マッチ棒の硫黄で書き込んだミータ(スラミフィ・メッセレル)の住所。小さな字でアクモリンス収容所と書かれている。列車が人気のない踏切で一時停止をしたとき、小旗を手にした、綿入りジャンパーの暗い顔つきの女性と目が合った。母は丸めたメモを指先で女性の足元にはじき飛ばした—。

お姉さんを訪ねるためには、大人も子供も、家畜運搬用列車に乗るしかなく、メッセレル先生はその列車でカザフ共和国チムケントにお姉さんを訪ねて行く。

「ちょうど、ボリショイ・バレエ団、夏休みでした。私は駅へ行きました。たくさんの人、駅でキップを待ちます。私はとても若いでした。細い、細いでした。ボリショイ・バレエのプリマ・バレリーナ。一年に一回、無料で旅行が出来ます。私は駅ですぐ旅行のキップをもらいました。私は一週間かけてカザフスタンに行きました。」

「何もない所、食べる物もない。とても小さい家がありました。プリズンにお姉さんから届いた手紙を見せました。私はトラックに乗り何もない場所を走り続けました。小さい建物。とても偉い人に私は会いました。お姉さんに会いたい。
とても長い時間、部屋で待ちました。
やっとお姉さんに会えました。
収容所で重いものを運ばせられ、手押し車を引かされ重度のヘルニアにかかっていました。
私は腰の手術を受けさせてほしいと頼みました。
色々、色々努力しました。」

1941年4月に姉のラヒリとプリセツカヤの弟アザーリ・プリセツキーは釈放され帰って来る。

メッセレル先生が姪のプリセツカヤさんに「瀕死の白鳥」を振り付けしたのは1941年のことだった。

メッセレル先生からこの救出劇のお話を聞いた翌年の1991年に、メッセレル先生振り付け、谷桃子先生指導の「瀕死の白鳥」を仙台で踊った。
その後結婚し、子育てしながらJUNバレエスクールを開設。10年近く「瀕死の白鳥」を踊り続けることになる。

1991年1月11日・12日に行われた谷桃子バレエ団の新春公演「シンデレラ」はザハーロフ版をスラミフィ・メッセレル先生と息子ミハイル・メッセレル氏が復元、新振付したものだった。
谷桃子バレエ団の初のシンデレラを演じたのは高部尚子さんだった。
谷桃子バレエ団のプリマ・バレリーナの高部尚子さん。現在は谷桃子バレエ団の芸術監督(2017年頃〜)になられている。

私は宮城県民会館でプリセツカヤさんの踊る「瀕死の白鳥」を観たのは15歳の時だった。瀕死の白鳥を踊り終えたプリセツカヤさんに「スパシーバー」(ありがとう)とお礼を言い、舞台で花束を渡した。プリセツカヤさんはアンコールに応えてもう一度「瀕死の白鳥」を踊ってくれた。1984年に叔母にあたるメッセレル先生と出会う。

メッセレル先生がプリセツカヤに「瀕死の白鳥」を振付したと書かれています。

執筆活動開始

影響を受けた作家

里見弴(本名:山内英夫)
1888年(明治21年)7月14日、横浜にて薩摩藩士有島武、さちの4男として生まれた。
出生の2日前に、母の実家である盛岡の山内家当主山内英郎が亡くなったため、山内姓を名乗る。
*山内家は代々盛岡藩江戸表留守居役を勤めている。
長兄の作家有島武郎、次兄の画家有島生馬(壬生馬)、次兄の友人志賀直哉らから影響を受けた弴は、文学書に親しんだ。
1910年(明治43年)
志賀や武者小路実篤らとともに文芸雑誌「白樺」を創刊。
里見弴のペンネームで作品の発表をする。
『善心悪心』、『多情仏心』など多くの作品を残した。
“小説の小さん(古典落語の名人)”と称せられた。
“自分の心を素直に信じそれに従うという思い”は、“まごころ哲学”と呼ばれ、弴の小説の特徴とされた。
1959年(昭和34年)には、その業績により文化勲章を受章している。
自分の思いに正直であり続けた弴は、1983年(昭和58年)1月21日に、94歳の生涯を終えてた。

2022年

鎌倉文学に影響を受けた

里見弴

2022年「ブルーな鎌倉」

多情仏心

里見弴原作の「彼岸花」の映画を観る。

小津安二郎監督の映画をたくさん観る。

「東京物語」の映画と「お茶漬けの味」の映画が私は好き。

図書館で里見弴の本を探したら「多情仏心」の本を見つけた。

文士邸でのんびり「多情仏心」を読み始めた。

映画で観た「彼岸花」の本も読んでないけれど、まずは「多情仏心」を読むことにする。

映画「多情仏心」もレンタルビデオ店に行き、借りてみた。

 

監督:小沢茂弘
里見弴の代表作の一つ。
1957年

2022年7月14日

「文章を考える事は難しい」

仙台生まれ、仙台育ち。

8歳からバレエを学び、仙台から鎌倉のエリアナ・パブロワ記念館を訪れ、今は亡きエリアナ・パブロワの「瀕死の白鳥」を踊ったバレリーナ。文才力は無し。バレエを辞めてから絵を描いたり、絵のモデルをしている。

横浜に住んでいた頃、鎌倉のホテルで仕事をする日に小町にあるとんかつ屋でとんかつを食べた。その後、鎌倉の寺巡りが始まる。

私の好きな鎌倉は安国論寺の富士見台から富士山を眺める事。光則寺の前に咲く時計草を眺める事。そして鎌倉文学に触れる事。

有島武郎の「カインの末裔」・「或る女」・「一房の葡萄」・「生まれ出づる悩み」を少しは読んだことがあったけれど、里見弴の文学をあまり知らなすぎて、今、四苦八苦しながら里見弴を勉強中。

2022年 上野にある国際子ども図書館を訪ねた。

東京 名建築探し

*東京名建築探しのページに国際子ども図書館の写真があります。

私はこの子ども図書館で児童雑誌「赤い鳥」が読みたいと思った。

国際こども図書館

児童雑誌 赤い鳥(全3巻)

代表作 童話の部

くもの糸 芥川龍之介

ないてほめられた話 有島生馬

一房のぶどう 有島武郎

有島武郎(1878年3月4日-1923年6月9日)小説家検索

住所 〒048-1531 北海道虻田郡ニセコ町字有島57番地
有島武郎記念館がある

学習院中等科卒業後、農学者を志して北海道の札幌農学校に進学、洗礼を受ける。1903年に渡米。ハバフェード大学で1年ほど歴史、経済学を学び。帰国後、志賀直也や武者小路篤(むしゃのこうじさねあつ)らと共に同人「白樺」に参加する。1923年、軽井沢の別荘で波多野秋子と心中した。

映画「華の乱」を見れば、軽井沢の別荘で波多野秋子と心中事件の雰囲気が映像で見れかもしれない。

鎌倉 里見弴邸

1926年(大正15年)に里見邸は建てられた。

長編「安城家の兄弟」の舞台になった家。

「善心悪心」「多情仏心」「極楽とんぼ」が代表作。

映画監督:小津安二郎とも親しくしていた。

彼岸花の書き下ろしなど映画制作にも関わった。(1958年)

里見弴が38歳の時に建て、48歳まで過ごし家。

その後、扇ガ谷に住み94歳で亡くなる。

里見邸は昭和11年に里見に手放した後は米軍の接収後、ホテルとしても使われ、赤い絨毯がそのまま残されている。

*ピアノは有島生馬の奥さんと娘さんも弾いていたのかもしれない。

ピアノが置かれ、階段をのばると日本間がある

電気も素敵

階段をのぼる間に見えたステンドグラス

呼び鈴
使用人を呼ぶためのベル

有島武郎・有島生馬・里見弴旧居跡

住所:東京都千代田区六番町3-5 ベルテ六番町 石垣に案内板が設置されている。

父親(有島武)が家を建て里見兄弟が育った場所。

私が知った里見邸

私は「谷戸の風」と言う本を読んで旧里見邸を訪ねた。

「谷戸の風」の一節を引用する

山内静夫氏は里見弴の息子

2022年 谷戸の風

 

 

2023年

宮沢賢治にハマる。

 

❤️2024年からは公募に作品を出す予定。

 

 

2023年 宮沢賢治の世界にハマった。

2024年

「チーズ泥棒」・「ガラスのバレリーナ」・「赤い橋と白鳥」

赤い橋と白鳥 ガラスのバレリーナが一緒になった作品

「ガラスのバレリーナ

白鳥にバレエを学んだ少女の物語」

作品を書いてみる予定

絵本作家を目指す2

絵本作家を目指す2「赤い橋と白鳥」

このページに白鳥の住む舟丁や荒町などを紹介しています。

「赤い橋と白鳥」

ピンクの貴婦人

タチアオイの花が四ツ谷用水跡に咲いた。

ピンクの貴婦人には素敵な日傘をつけて咲いている。

素敵な紳士が日傘を持って

四ツ谷用水跡を眺める貴婦人

貴婦人の目には赤い色のタチアオイの花が蕾が見える。

さあ

そろそろ四ツ谷用水跡にタチアオイの花が咲き始めるわ。

四ツ谷用水

ピンク

2023年6月1日

「赤い橋と白鳥」内容

夏の大三角形
天の川はクロタネソウの花

仙台のへくり沢を散歩しながら広瀬川に辿りつき白鳥で出会うお話

JUNの詩集 へくり沢に咲く花(四谷用水)

仙台「白鳥」(宮城 白鳥伝説)

登場する橋

⭐️淀橋→大橋→赤い橋(宮沢橋)→広瀬橋

⭐️橋姫の話

⭐️広瀬川の白鳥

ここまでは「絵本作家を目指す2」に書いています。

宮城県の船岡に伝わる白鳥伝説

宮城県 大河原の白鳥

白鳥神社

 

「赤い橋と白鳥」あらすじ

 

広瀬川にいる白鳥🦢の羽が流れてくるのを待つ野鼠たち。

白鳥の羽で扇を作り、雀と白鳥と野鼠たちが必死で雀踊りの練習を始める。

野良猫のノラはおおあくび。

みんなで相談して、ノラに笛を吹かせたら、ノラが急に野良猫ノラではなく、世界で名のある演奏家野良になった。

人生が変わり、野鼠、白鳥、雀はノラの奏でる雀踊りの音楽で世界中に雀踊りを広める。

そんな物語を考えています。

仙台雀踊り

仙台市青葉区八幡町

雀おどり

雀おどり

雀おどり

 

20223年5月31日
大橋からの眺め

小林薬品(南材木町)
■ 指定日 平成14年10月15日
* 建築年 明治初期
* 構造
2階建て・土蔵造・瓦葺

丸木商店

旧仙南薬店

橋姫明神由来

広瀬川標識

白鳥の絵

 

2023年1月7日
宮沢橋

白鳥の羽

宮沢橋

船岡

NHK 大河ドラマ「カシの木は残った」

伊達正宗騎馬像
船岡

 

白鳥飛来地

蔵王と桜

北白川駅

イラスト関係のページ

2023年 イラスト集 ( クリスマス絵本作り)

バレエ童話 イラスト画

 

チーズ泥棒

チーズ泥棒

チーズ泥棒イラスト

「絵本作家目指す」・・無理だと思った。

でも頑張ってみたいと思った。

だから公募の作品を出してみようと思うようになった。

「チーズ泥棒」が初の絵本作りになる予定。

それで

日々好きな文章を書いておくことにした。

 

今、私が好きな文章は

「ただの石を宝石と言っても 宝石になるわけではない 宝石をただの石と言っても、石になるわけではない」

日蓮大聖人御書

 

2023年10月25日 今日はこの言葉が好き。

金剛 とは

最も硬い金属 ダイヤモンド

サンスクリットではヴァジュラ (वज्र vajra)

金剛杵は、金剛のあらゆるものを打ち砕く力をもつという意味があり、頑な煩悩を砕いて菩提心(悟りを求める心)を表す仏法を表しています。

金剛心とは,不動なる心という意味で,ゆるぎのない信心という意味。

金剛石は古くから最も貴重とされてきた宝石。

2023年10月26日

ダイヤモンド💎や金貨は人の心を大きく動かす。

けれども、優しい言葉は、もっと力があり、もっと価値がある

シャルル・ペロー

「妖精たち」の童話に書かれていた。

シャルル・ペローの童話は「長靴を履いた猫」や「眠りの森の美女」と言う作品がある。

眠りの森の美女

ダイヤモンド💎や金貨は人の心を大きく動かす。

けれども、優しい言葉は、もっと力があり、もっと価値がある

シャルル・ペロー

「妖精たち」の童話に書かれていた。

シャルル・ペローの童話は「長靴を履いた猫」や「眠りの森の美女」と言う作品がある。

 

2023年10月27日

「稲は花を咲かせ実をなせても、米の精は必ず大地に還る。ゆえに、ふたたび芽が出て、また、花や実を結ぶことができる」

 

「輪陀王という大王は、この声(白鳥の鳴く声)を聞かされて、色つやは太陽のように輝き、肌は月のように鮮やかに、力は大力の那羅延のように強く、智謀、知恵は梵天王のように豊かになった」

日蓮大聖人御書

私が絵本作家になるために一番必要なことだと思います。

2023年1月7日
白鳥

2023年は「白鳥」の写真を撮ったり、白鳥神社を訪ねたりした。

しらとり2023年

しらとり 2023年

白鳥伝説

仙台「白鳥」(宮城 白鳥伝説)

そして宮沢賢治の世界にはまり、絵を描いた。

「星めぐりの歌」を歌いながら絵を描いた。

宮沢賢治関連

宮沢賢治の世界を旅して 1

宮沢賢治の世界 2023年

 

 

星をつける

 

絵を描くようになった日々の作品

 

絵本作り2022年

雑がみ部 作品 (仙台メディアテーク7F)

バレエ絵本仙台版「くるみ割り人形」

バレエ童話を描いてみよう

バレエ台本を描いて踊ってみよう

黒トンボと白猫

宮城県美術館 創作室で絵を描き、絵本作りを始めた。

始めは「くるみ割り人形」の絵を描いた。

2021年

絵本作り2022年

バレエ絵本仙台版「くるみ割り人形」

多胡版「くるみ割り人形」(谷桃子バレエ団系列)

 思い出の谷桃子バレエ団・研究所 発表会1993年

 

白い線を入れる
2023年10月17日

*2011年・2012年「くるみ割り人形」に出演したため、絵本を描いてみたくなった。

ベラーム・ステージ・クリエイトのくるみ割人形に出演する

多胡版「くるみ割り人形」に出演した時のプロブラム

多胡版「くるみ割り人形」に出演した時の写真

2023年に書き直す

きのこについて

宮沢賢治

きのこ🍄

岩手県は豊かな森に恵まれており、夏には涼しい気候であることから、古くからきのこの産地として知られています。岩手県花巻市出身の童話作家、宮沢賢治(18961833)もきのこに魅了されたうちの一人で、『朝に就ての童話的構図』『谷』

『二人の役人』『さるのこしかけ』という4編のきのこ小説を世に送り出しています。また、「きのことあり」では、幼い蟻が兵隊蟻に白い建物(きのこ)の測量を依頼しますが、柱(きのこの柄)が折れて倒れてしまったために、兵隊蟻が頭を抱えてしまったという、賢治の独特な世界観が表現されています。

 

チャイコフスキーときのこ🍄

「くるみ割り人形」や「白鳥の湖」で有名なロシアの作曲家、ピョートル・チャイコフスキー(18401893)も、ロシア人らしいきのこの逸話を残しています。モスクワ郊外のクリンに移り住んだチャイコフスキーは作曲の合間に自然の中を散歩する日々を送っていました。あるとき、知人と森の中でヤマドリダケの群生を発見したとき、きのこに覆い被さって「きのこは俺のものだ!」と叫んだと、チャイコフスキーの娘、カシーキンが回想しています。それほどきのこに熱い情熱を注いでいたのであれば、もしかするとチャイコフスキーの作品には、きのこからインスピレーションを受けた楽曲もあるのかもしれませんね。

*ネットできのこと作家を調べていて見つけました。

きのこ
くるみ割り人形に出演

アラビアの踊り
「くるみ割り人票」より

 

 蝶々の作品 2021年

裏表紙

絵本の見本品

蝶々の世界

蝶々の世界2

虹の中で

この作品は奮闘した作品

 

バレエ台本を描いた。2006年

バレエ台本を描いて自分で踊った。思い出の台本

私が2006年に書き上げたバレエ台本「フェニックス」(不死鳥)

 

「火の鳥」の音楽を聴きながら作り上げたバレエ台本

扇の国の舞

火の鳥の国の人々

火の鳥たち

ヤキモチ屋株式会社の社員たち」

ヤキモチの矢に刺されたダンサー

お姫様

太陽の国の人々

扇を持って踊るダンサー

順之助

 

バレエ台本の中に登場する火の鳥

私がデザインした衣装
黒のレオタードの上にいろいろなカラフルな布をのせました。

扇を持って舞う。渡邉順子雀踊りが原点の舞。
2009年 初演

扇の舞
渡邉順子

金沢文化芸術祭

「母の舞」を踊る

バレエ鷺娘など日本舞踊を取り入れたバレエ作品が作れた。

バレエ鷺娘

 

 

 2023年

宮沢賢治 没90年記念作品

「セロ弾きのゴーシュ」から

「削除された鷲のバレエ」を執筆する。

この作品を書いている時間はとても楽しかった。

ベートウーヴェンとジャスを聴きながら 宮沢賢治のページも読んで下さい。

ベートーヴェンとジャスを聴きながら 宮沢賢治編2024年

 

諸案

 

 

2023年9月16日
修正しました。
熊のバレリーナ

賢治祭のプログラム
鷲の絵があった。

*セロ弾きのゴーシュのイラストには鷲の絵もある。

宮沢賢治の本

賢治とカバンのイラスト

2023年クリスマス用の見本品

白猫
文字を入れる
絵本の表紙

2023年「絵本作家を目指す」見本品

見本品の表紙

2024年に書く予定にしている
「チーズ泥棒」

JUNブログのイラスト紹介
「絵本作家を目指す」

2023年 たった一冊の本

フジコ・ヘミングの音色を聴きながら

フジコ・ヘミングの音色を聴いていると

忍耐強く 辛抱強く 粘り強く 根気強く

聴き続け 暖かい光に包まれ 幸せな気持ちになる

幸せとは

忍耐強く 辛抱強く 粘り強く 根気強く

続けていると 幸せになれると私は思った。

忍耐強く辛抱強く粘り強く根気強く

待つこと

平和の鐘の音が光輝き世界に響き渡る。

フジコ・ヘミングは世界で名のあるピアニストになった

忍耐強く辛抱強く粘り強く根気強く

生きることを私はフジコ・ヘミングから学んだ

2023年6月10日

久しぶりに詩を描いた。

この詩を入れた冊子を1冊作った。

 

2023年 たった1冊の本

白鳥の羽を飾っている

白鳥からの贈り物
羽を飾っている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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