ショパンの音楽を聴きながら
第1章
フジコ・ヘミングのCD
フジコ・ヘミング
1998年 4月 上野の旧奏楽堂で行われたリサイタル
10月にも奏楽堂でのライブ録音
「ラ・カンパネラ」「ハンガリー舞曲第5番」「泉のほとりで」
2004年の東京ライブも収められた貴重のライブ・アルバム ラ・カンパネラ1973
東京音楽芸大在学中に毎日コンクールで入賞し、多くの音楽賞を受賞、卒業後に本格的に演奏活動を開始する。
フジコ・ヘミング プロフィール
フジコ・ヘミングHPから引用
本名/ゲオルギー・ヘミング・イングリット・フジコ
東京音楽学校(現・東京芸術大学)出身のピアニスト、スェーデン人画家/建築家ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングとピアニスト大月投網子を両親としてベルリンに生まれる。
幼き頃、帰国。以来東京に育ち、5歳から母、投網子の手ほどきでピアノを始める。また10歳から、父の友人だったロシア生まれドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツアー氏にも師事。クロイツアー氏は、「フジコはいまに世界中の人々を感激させるピアニストになるだろう」と絶賛した。青山学院高等部在学中、17歳でデビュー・コンサートを果たす。また、東京芸大在学中には、NHK毎日コンクール入賞、文化放送音楽賞など多数受賞。
東京芸大卒業後より、本格的な演奏活動に入り、渡辺暁雄指揮による日本フィルなど、数多くの国内オーケストラと共演。たまたま来日中だったサンソン・フランソワは、日比谷でのフジ子のショパン及びリストの演奏を聴き絶賛したという。
その後28歳でドイツへ留学。ベルリン音楽学校を優秀な成績で卒業。その後長年にわたりヨーロッパに在住し、演奏家としてのキャリアを積む。その間、ウィーンでは後見人でもあったパウル・バドゥラ=スコダに師事。
今世紀最大の作曲家・指揮者の一人と言われる、ブルーノ・マデルナにウィーンで才能を認められ、彼のソリストとして契約したことは、フジコが最も誇りにしていることのひとつである。ちなみに、この契約に際しては、フジコの演奏に感銘を受けたレナード・バーンスタイン、ニキタ・マガロフ、シューラ・チェルカスキーからの支持、及び援助があった。
しかし「一流の証」となるはずのリサイタル直前に風邪をこじらせ、聴力を失うというアクシデントに見舞われる。失意の中、ストックホルムに移住。耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を得、以後はピアノ教師をしながら、欧州各地でコンサート活動を続ける。
1999年2月11日には、フジコのピアニストとしての軌跡を描いたNHKのドキュメント番組、ETV特集『フジコ〜あるピアニストの軌跡〜』が放映され大反響を巻き起こす。「フジコの演奏をもっと聴きたい」という視聴者からの要望が殺到し、番組は幾多に及び再放送され、さらに続編「フジコ、ふたたび〜コンサートin奏楽堂」も放送された。
1999年8月25日に発売されたファーストCD『奇蹟のカンパネラ』は200万枚(2012年4月現在)を超える売り上げという、クラシック界異例の大ヒットを記録し、いまだにその記録を更新し続けている。これまでに日本ゴールドディスク大賞、4度にわたる各賞のクラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。
上野の旧奏楽堂を訪ねる
*2022年に撮影した東京名建築探しのページも見てください。
フジコ・ヘミングの軌跡
ウィーンのリサイタルを開けることになった直前、風邪が悪化し両耳の聴力を失うと言う致命的なアクシデントが襲う。
ストックホルムに移り、耳の治療に専念、教育、演奏活動を続け1995年帰国。
1999年2月に放送された「フジコ あるピアニストの軌跡」よって最も注目を浴びる音楽家となる。
2022年12月17日
私はやっとフジコ・ヘミングコンサートを聴きに行きました。
「フジコ・あるピアニストの軌跡」から23年、一度も生のフジコ・ヘミングコンサートに行く事はできなかったけど、フジコさんの音楽を聴きながら絵を書いているうちにコンサートにも行けるようになりました。
R .シューマン1810-56
ドイツの作曲家
「人間の心の奥底へ光を送ること、それが芸術家の使命」
私はフジコ・ヘミングさんの奏でる音色から光を感じコンサートに出かけました。
ショパンの音楽を聴きながら
ずっと働きながら詩や随筆を書いていた。
「楽屋」
*この詩が1990年に同人誌で佳作に選ばれた。
横浜の思い出
ホテルニューグランド318が「鞍馬天狗の間」と呼ばれています。
ブルーな鎌倉から引用
昭和に入り、鎌倉文士たちの中心となるのが、1936年(昭和11)久米正雄の呼びかけによって構成された「鎌倉ペンクラブ」だ。メンバーには、川端康成、林房雄、深田久弥、里見弴、小林秀雄、大佛次郎、大岡昇平、太田水穂、神西清、高浜虚子、横山隆一、中里恒子、野田高悟、今日出海、小杉天外、小牧近江、三好達治、島木健作ら鎌倉在住の文学者などが名を連ね、大いに親睦を深める場となった。」
小川亜矢子先生は22歳の時に、イギリスの日本文学研究者のアイヴァン・モリスと結婚し、彼と共にパリに渡ったことで、フランスのバレエを学ぶ機会を得た。さらに彼がコロンビア大学の東洋学部の教授として招聘され、1960年(昭和35)年にはアメリカへ。ニューヨークのメトロポリタンオペラバレエ団で国際的に活躍、ローザンヌ国際バレエコンクールの審査員も務めた先生でした。
*2015年1月7日に亡くなる。
イギリスの日本文学研究者のアイヴァン・モリス
英語圏での古典・近代日本文学の研究進展に寄与し、英文著書のほか三島由紀夫の金閣寺、大佛次郎「旅路」など多数を英訳。同学のドナルドキーンが友人であった。
大佛次郎氏の「旅路」が英訳され海外でも紹介されている事をしりました。
12月28日
「ホテルニューグランド」の思い出
*「JUNの横浜名建築でコーヒーを」のページもリンク貼りました。
ホテルニューグランドに宿泊した事はありません。
ホテルニューグランドで吉川久子さんのコンサートには何度か足を運んだ事はあります。
毎年、12月24日にホテルニューグランドで行われる「吉川久子フルートコンサート」を聴きに行った事はあったからです。
金沢区に住んでいた時と中区に住んでいた頃です。
2008年頃〜2016年の間に何度か足を運びました。
吉川久子作曲 「湘南太平記」の音楽ではよく踊り、共演もしました。
「湘南太平記」の曲でバレエ鷺娘と言う創作バレエ作品を振付したのです。
吉川さんが「湘南太平記」を発表した2008年頃に初めてホテルニューグランドに行き、中区に住んでからは、日々、ホテルニューグランドの前を自転車で走っていました。
ホテルニューグランドのカフェにも行き、吉川さんがホテル泊した日はお友達とホテルの探検隊になってマッカサーズスィート315号室を探したことが楽しい思い出になっています。今は横浜の深い歴史あるホテルが私にとって懐かしい横浜の思い出の場所となっています。
ホテルニューグランドのBAII ROOM(舞踏室)で、吉川久子さんのコンサートが行われたことがありました。そのホールは横浜市確定歴史的建造物と呼ばれていた部屋です。世界のVIPをお迎えした場所でホテル探検隊渡邉はそこの部屋にも入りました。(レインボーボールルーム)
*現在は「ペリー来航の間」で吉川さんのコンサートは行われていると思います。
12月29日
民音音楽博物館の思い出
2003年 初めて民音音楽博物館を訪ねる
私が初めて信濃町を訪ねたのは2003年頃だったと思います。
横浜市金沢区に住み娘がピアノを習い始めた頃でした。私も小さい頃にピアノを習っていましたが、ピアノの練習をするのが好きではありませんでした。小学6年生の運動会の日にアコーディオンで弾きながら運動場を歩き、中学生になってからはピアノもバレエも一度は辞めてしまいました。中学時代は図書委員になり、図書委員の会報誌にイラストを描いていました。
娘がピアノを習うため、ピアノを購入し、ピアノ店の方から「民音音楽博物館」があることを教えて頂き、海外のピアノ見たさに、信濃町に知り合いと出かけて行きました。娘もピアノは3年ほど習いましたが絵を習いたいと言うことで鎌倉まで家族で絵を習いに行ったのです。
多分、私も娘もピアノを弾く事よりも絵を書く方が好きなタイプのようでした。
それで2022年、「フジコ・ヘミングの音楽を聴きながら絵を書く」
と言う気持ちになり絵を書き始めたのです。
*未完成交響曲を奏でるように 2024年
2022年12月17日、立川ステージガーデンで行われた「フジコ・ヘミングコンサート」を聴きに行き、18日はリューアルされてた懐かしの民音音楽博物館を訪ね、ヨハン・フリッツ・シュトローム・ピサ・チェンバロといった懐かしのピアノと再会。可愛い天使とも再会しました。
「母の曲」
1991年にミラノ・スカラ座バレエ団にスラミフィ・メッセレル先生を訪ね、レッスンを受けた。イタリアに一週間ほど滞在した時にイタリアのSGl(創価学会インターナショナル)の方からミラノ・スカラ座のオペラの公演「ポエーム」のチケットを頂きました。イタリアのミラノ・スカラ座を日本に初めて招いたのが民主音楽協会だったらしい。
私とメッセレル先生はSGIの方から「日本の仏壇と数珠を買って祈っている。日本の宗教は素晴らしいと聞いた。」メッセレル先生は日本に来日するようになってから少し民主音楽協会を理解したようでした。
渡邉順子は民音創立者でSGI会長の長編詩が歌詞になり、松原真美、松本真理子によって作曲された「母」の曲で何度か踊る。
イタリアSGIの方からミラノ・スカラ座でオペラを見せて頂いたお礼と感謝の気持ちで舞い続けました。
*民音音楽博物館内1にオルゴールの展示室もありますので、お時間があればオルゴールの音色もお聞きになってください。
*この部分の文章や写真を1冊の冊子にしました。
*「ブルーな鎌倉」・「虹の彼方に」に民音音楽博物館の思い出を書いています。
2007年頃、バレエの先生になってから訪ねた民音音楽博物館
1999年から横浜市金沢区に住み、2002年に金沢区でバレエスクールを開設し、バレエの先生になりました。2007年頃、民音音楽博物館に訪ね「第1回 世界バレエフェスティバル」の写真を撮影していたカメラマンと知り合いになり、民音で撮影したバレエ公演の写真を見せて頂いたのです。
1976年の第1回公演の写真ですから、古い写真です。
*2021年が第16回目でした。
世界バレエフェスティバルは3年に一度東京で開催される世界のバレエが集結する大イベント。
第1回の世界バレエフェスティバルに出演したマイヤ・プリセツカヤ。マーゴ・フォンティン。アリシア・アロンソ。カルラ・フラッチなどなど世界のトップスターが東京に集結した夢の共演で多くの人々を魅了した、当時の写真を拝見しました。
マイヤ・プリセツカヤさんの「瀕死の白鳥」の写真は本当に素敵でした。マイヤ・プリセツカヤさんの叔母さんに当たるスラミフィ・メッセレルに振付して頂いた「瀕死の白鳥」を私も横浜で10年踊りましたが、10年踊っても未完成作品のままです。絵を描いている方がとても描きがいがあり、多分、踊ることではなく、絵を描く事で私の「瀕死の白鳥」は浄化される事でしょう。
*マイヤ・プリセツカヤ、スラミフィ・メッセレルについては「ブルーの鎌倉」にも少し書いています。
希望の歌劇
と言う写真集を民音音楽博物館から2012年頃に、いただいたので少しだけ、紹介します。
文章をそのまま書くのではなく、私が好きな文章だけを書きます。
希望の歌
厳しい練習を積み重ねた分だけ、芸術家は自由になる。
人もまた、さまざまな悩みや苦しみに磨かれた分、きっと幸せになる。
人間そのものが芸術であり、あらゆる人生が、美しい音色を奏でているようだ。
「歌う」ことは「うったう(訴える)」こと、天に訴えれば祈りとなり、
人に訴えれば心と心の橋になる。
12月30日
8歳からバレエを学び結婚して出産、子育てを始めた頃、バレエの先生になりました。東京の杉並から横浜市金沢区に住むようなってからのことです。スラミフィ・メッセレル先生のお弟子さんのスタジオで2000年に鎌倉で「瀕死の白鳥」を踊り始めてから磯子でスタジオを借り、バレエの先生になりました。2010年までは「瀕死の白鳥」一本勝負で踊りながらの私でしたが、自分で作品を作って生徒たちと踊ったり、生徒達が小さい時は「白鳥の湖」を踊ったりもしました。
2005年にABC・FACTRYバレエ団公演「ゆうづる」にも出演したりしましたが、主人が病院に3ヶ月間入院したため磯子の借りスタジオから磯子スポーツセンターの研修室を借りるようになったのです。
JUNバレエスクールからJUNバレエ塾と名前も変わり、2009年に金沢区の長浜ホールを借りて小さな小さな発表会を開きました。
「湘南太平記」を作曲した吉川久子さんを招いての小さなコンサート
「湘南太平記」も生徒達が吉川さんのフルートの音色で踊った姿はとても可愛らしかったです。
私自身も踊りましたが生徒達が本当に一生懸命踊ってくれました。
私は横浜で10年「瀕死の白鳥」を踊りながら、自分の中でもっと向上したいと言う気持ちが目ばえ始めたのです。
2010年に神奈川県立音楽堂・8月いわきアリオス・10月テアトルフォンテの会場で「瀕死の白鳥」を踊り、鎌倉から始まった「瀕死の白鳥」は「生きても歓喜・死んでも歓喜」の作品に繋がり、仙台で絵を描き始めるようになるまでの過程を少し書いておきます。
2010年から「ダンスカナガワフェスティバル」(神奈川県芸術舞踊祭)に出演しています。
この「ダンスカナガワフェスティバル」はジュニアの部・シニアの部があり、クラッシック・バレエとモダン・バレエが参加する舞台でした。
ダンスカナガワフェスティバルにはヨコハマ・コンペティションの受賞者が踊ると言う特権もありました。
*ダンスカナガワフェスティバルについても書いていますのでリンクを貼りました。
ダンスカナガワフェスティバルの思い出
2010年「瀕死の白鳥」
2011年「ルスランとリュドミラ」よりリュドミラのヴァリエーション
2012年「白鳥の湖」からルースカヤ
2013年「くるみ割り人形」アラビアのコーヒー
2014年「バレエ藤娘」
2015年「カルメン」
振付:渡邉順子
指導:多胡寿泊子
衣装:ベラーム(多胡先生のスタジオの衣装)
*カルメンについても書いているのでリンクを貼りました。
2015年4月26日に谷桃子先生が亡くなりました。
6月にダンスカナガワフェスティバルで「カルメン」を踊りました。
7月には谷桃子バレエ団の大先輩にあたる多胡寿伯子(たご すわこ)先生の発表会に「白鳥の湖」より スペインの踊りで出演。カルメンに少し雰囲気が似ていると思います。
ヨコハマ・コンペティション
「さくらさくら」・「バレエ鷺娘」・「生きても歓喜・死んでも歓喜」と言う作品を創りました。
「さくらさくら」
下田栄子先生のご主人である黒澤輝夫先生が審査員をされていて、下手くそながら日本舞踊を取り入れて作った作品。
「バレエ鷺娘」
ご主人の黒澤先生から審査員が下田先生に変わりました。
下田:素敵なバレエだった。
*バレエ鷺娘についても色々書いていますのでリンクを貼りました。
「生きても歓喜・死んでも歓喜」
私自身が考えた「生きても歓喜・死んでも歓喜」の振付内容
光の場所に歩いて歩いて行くのですがあまりにも眩し過ぎてその光の中に入ることがっできなかった。そして一緒に歩いていた大切な人を亡したことに気づいたのです。初めて分かったのです。生きている時も死んでしまっても私は貴方を愛していました。
*渡邉順子経歴に舞台の経歴は書いてあります。
*「ブルーな鎌倉」にも桃子バレエ団の公演に出演した記録にも舞台経歴は書いています。
故下田栄子先生の思い出
2012年頃に横浜の網島のスタジオに下田先生を訪ねました。私服で音楽もない中で「瀕死の白鳥」を踊ったのです。モダンとは「歩く」事から初めます。下田先生の指導受け、モダンのコンクールに出させて頂きました。
民音のカメラマンからの伝言
「下田先生のご主人、黒澤先生が「瀕死の白鳥」を神奈川県立音楽堂で見たと言う事です」
民音カメラマン:「写真集をお渡しますから、写真集を持って言ってくれ」
私は民音音楽博物館に行き「希望の歌劇(オペラ)」の写真集を下田先生にお渡ししたのです。
「希望の歌劇」の本は私と下田先生が仲良く頂いた本で今も大切にしています。
黒澤先生は2013年のダンスカナガワフェスティバルで踊った「くるみ割り人形」のアラビアの踊りを見て下さいました。
(*私が多胡版「くるみ割り人形」に出演した事を神奈川県立音楽堂で知ったからだったようです)
多胡版「くるみ割り人形」についてリンクを貼っています。
黒澤輝夫先生は神奈川県芸術舞踊協会名誉会長で2014年に亡くなりました。
2015年 ダンスカナガワフェスティバルで「カルメン」を踊りました。
*多胡版「くるみ割り人形」に出演し、元谷桃子バレエ団団員だった多胡寿伯子先生の指導を受け最後にカルメンを踊りました。谷桃子先生が亡くなった年でもあります。
2022年12月17日フジコ・ヘミングコンサートに多胡先生をお連れしました。
多胡寿伯子
多分、黒澤輝夫先生・下田栄子先生が生きていらしたら「順子ちゃんが習ったバレエの先生を連れて立川まで行ってフジコ・ヘミングさんのコンサートを聴いて来たんだって。18日はフジコ・ヘミングさんと同じ型のピアノが民音音楽博物館にあるから、ピアノの写真を撮りに信濃町に行ったらしいのよ」と生徒さん達に話した事でしょう。
下田先生の娘さんは2016年に亡くなり、下田栄子先生は2017年に亡くなりました。
「生きても歓喜・死んでも歓喜」(音楽:天空の夜明け)と言う作品が作れたことに感謝しています。。指導して頂いた前田新奈さんは谷桃子バレエ団・新国立バレエ団のソリストとして活躍され現在は振付家として活躍されています。*神奈川芸術舞踊協会公演などにも出演しています。
「生命の底力を見せる舞」に私自身も挑戦できたのは、下田先生と出会えたからだと思っています。
*ダンスカナガワフェスティバルの他にも「金沢文化芸術祭」にも出演していました。
2009年〜2017年まで踊っていました。
「湘南太平記」・「母への舞」・「バレエ鷺娘」・「バレエ藤娘」などの創作バレエを踊りました。
金沢文化芸術祭については「仙台雀踊り」の章に書いていますのでリンクを貼りました。
*詩吟コンサートにも出演しました。
プレイエルピアノと斎藤ピアノ(ブリュートナー)が今回の主役
プレイエルピアノ
ショパンは 1838 年に作家のジョルジュサンドを伴ってスペインのマヨルカ島を訪れました。彼らはラカルトゥハデヴァルデモッサ修道院のセル No.4を借り、そこでショパンはパリからプレイエルピアノを受け取りました。
滞在中、彼はこのピアノを使って、いくつかのプレリュード、ポロネーズ、2番目のバラード、3番目のスケルツォなどの素晴らしい作品を作曲しました。
ショパンはマヨルカ島で所有していたピアノをカヌー家に売却しました。
1932年以来、ショパンが演奏したのと、同じプレイエルピアノが部屋に展示されています。東京にある民音音楽博物館にもプレイエルピアノは展示されています。
2022年12月にマヨルカ島を訪ねたフジコ・ヘミングさんの映像も拝見しました。
フジコ・ヘミングのマヨルカ島の映像を見た感想 2022年12月24日
フジ子さんは幼少時代、日本人であったお母さんの弾くショパンの曲を聴きながら夜は眠ったそうです。母親は、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)出身のピアニスト。ピアノは身近な生活の一部。5歳の頃から、母の指導でピアノを弾く毎日となった。「ショパンとリストを弾く使命のピアニスト」と世界で絶賛されたフジコ・ヘミングの映像には圧巻でした。
プリュートナー斎藤ピアノ
東京信濃町にある民音音楽博物舘に展示されています。
フジコ・ヘミングさんが奏でるブリュートナーピアノと同じ型の「斎藤ピアノ」。
プリュートナーは「歌うピアノ」と呼ばれ賞賛されたこともあるピアノメーカーで、1853年にドイツ・ライプツィヒで創業されました。
ドイツの王室のみならずヨーロッパ諸国の王室、イギリスのヴィクトリア王女もプリュートナーに触れたと言われています。
リスト、チャイコフスキー、ヨハン・シュトラウス2世など多くの音楽家、作曲家・ピアニストに絶賛されたピアノ。
民音音楽博物館の展示 プリュートナーは齋藤ピアノと呼ばれています。
チェロ奏者。音楽教育者として活躍した齋藤秀雄(1902-1974)氏が愛用したピアノの一台。
斎藤秀雄氏について
若き芸術家たちへからの引用
小沢征爾(指揮者、斎藤秀雄に学びフランスに留学。国際的評価も高くボストン交響楽団やウィーン国立歌劇場などで音楽監督を務める)
「やあ、忠良先生は斎藤先生によく似ていらっしゃる」と小沢君(小沢征爾)が言うのね。斎藤さんの写真見たらいい男なんだよ。でも彫刻にしたら、なんだか自分に似た顔になっちゃった。
斎藤秀雄氏がモデルの童話
日本の詩人・童話作家の宮沢賢治が書いた最後の作品「セロ弾きのゴーシュ」の中に出てくる管弦楽団の厳しい楽長(指揮者)のモデルと言われています。ちょうど留学から帰ったばかりで厳しい指導をしていた新交響楽団での斉藤の姿から考えたのではないかという説。(新交響楽団の練習を賢治が上京時に見学した時期と一致しているためです)
黒柳徹子さんのお父さんについて
佐藤泰 (著)
「宮沢賢治と音楽」
黒柳徹子さんのお父さんである黒柳守綱について調べました。
黒柳さんのお父さんは映画の画面に合わせてヴィオリンを弾くN響のコンサートマスター。
セロ弾きのゴーシュを書く動機の下地
1925年(大正14年) 山田耕筰、近衛秀麿等が中心となって日本交響楽協会を設立。大津三郎も黒柳守綱も加入。NHKの開局の年でもある。
7月「岩手軽便鉄道 7月(ジャズ)」
1926年(大正15年) 近衛秀麿は日本交響楽協会を脱退し新交響楽団(後のNHK交響楽団)を設立。大津三郎も近衛秀麿に就いて参加。
宮沢賢治3月依頼退職、夏「羅須地人協会」設立
。年末セロを習うために上京し、大津三郎に手ほどきを受けるのはこの時期にあたる。「セロ弾きのゴーシュ」起案。
1927年(大正16年) 9月、賢治のお気に入りの映画「肉体の道」が上映されるが、その奏楽者として黒柳守綱は、映画に合せてヴァイオリン を弾いたと言われている。
宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」から引用
宮沢賢治関連
皆さんはセロ弾きのゴーシュのお話しを知っていますか?
セロ弾きのゴーシュの内容を簡単に説明します。
最初の場面でゴーシュは楽長に散々ダメ出しをされますが、具体的には「音が遅れる」「糸(音程)が合っていない」「感情がない」といった点を指摘されます。これが毎晩現れる動物たちとの演奏を通じて、意図せず改善されていきます。
登場する動物
猫、かっこう、タヌキ、ノネズミ。
まず最初の晩に現れる猫は、トロイメライを依頼しますが、怒ったゴーシュが嫌がらせで「印度(インド)の虎狩り」を弾き、これが演奏会当日のアンコールの練習となります。
2日目の晩に現れるかっこうは怒って追い返してしまいますが、自分の「糸(音程)が合っていない」ことを気付かされます。
3日目の晩に現れるタヌキとの演奏では、「音が遅れる」ことに気づかされます。
4日目の晩に現れる野ねずみには、ゴーシュの演奏が人知れず動物たちの役に立っていることを知らされて自信を持ち、演奏会のアンコールで「感情豊かに」怒りを表現できるようになるようです。
そして音楽会終了後にゴーシュが急遽アンコールに指名されますが、これまで楽長に指摘されていた欠点を全て克服した「印度(インド)の虎狩り」を見事演奏しきり、全員から大絶賛される。という結末を迎えます
猫
「トロメライ、ロマチックシューマン作曲。」
ねこは口をふいてすましていいました。
「そうか。トロメライというのはこういうのか。」
セロひきはなんと思ったか、まずハンケチをひきさいて、じぶんの耳のあなへぎっしりつめました。それから、まるであらしのようないきおいで「インドのとらがり」という譜をひきはじめました。
たぬき
「だってぼくのおとうさんがね、ゴーシュさんはとてもいい人で、こわくないから行ってならえといったよ。」といいました。
そこでゴーシュもとうとうわらいだしてしまいました。
「なにをならえといったんだ。おれはいそがしいんじゃないか。それにねむいんだよ。」
たぬきの子はにわかにいきおいがついたように一足前へ出ました。
「ぼくは小だいこのかかりでねえ。セロへ合わせてらってこいといわれたんだ。」
「どこにも小だいこがないじゃないか。」
「そら、これ。」
たぬきの子はせなかからぼうきれを二本出しました。
「それでどうするんだ。」
「ではね、『ゆかいな馬車屋』をひいてください。」
「なんだ、『ゆかいな馬車屋』ってジャズか。」
「ああ、この譜だよ。」
たぬきの子はせなからまた一まいの譜をとりだしました。ゴーシュは手にとってわらいだしました。
「ふう、へんな曲だなあ。よし、さあひくぞ。おまえは小だいこをたたくのか。」 ゴーシュはたぬきの子がどうするのかと思ってちらちちらそっちを見ながらひきはじめました。
ホールでは、はく手の音がまだあらしのように鳴っております。楽長はポケットへ手をつっこんで、はく手なんかどうでもいいというように、のそのそみんなの間を歩きまわっていましたが、じつはどうして、うれしさでいっぱいなのでした。みんなはたばこをくわえてマッチをすったり、楽器をケースへ入れたりしました。
ホールはまだパチパチ手が鳴っています。それどころではなく、いよいよ手がつけられないような音になりました。大きな白いリボンをむねにつけて、司会者がはいってきました。
「アンコールをやっていますが、なにかみじかいものでも聞かせてくださいませんか。」
すると楽長がきっとなってこたえました。
「いけませんな。こういう大物のあとへなにを出したって、こっちの気のすむようにはいくもんでないんです。」
「では楽長さん、出てちょっとあいさつしてください。」
「だめだ。おい、ゴーシュ君、なにか出てひいてやってくれ。」
「わたしがですか。」
ゴーシュはあっけにとられました。
「きみだ、きみだ。」
バイオリンの一ばんの人がいきなり顔をあげていいました。
「さあ出ていきたまえ。」
楽長がいいました。
みんなも、セロをむりにゴーシュに持たせて扉をあけると、いきなり舞台へゴーシュをおし出してしまいました。ゴーシュがそのあなのあいたセロをもって、じつにこまってしまって舞台へ出ると、みんなはそらみろというように、いっそうひどく手をたたきました。わあとさけんだものもあるようでした。
「どこまで人をばかにするんだ。よしみていろ。『インドのとらがり』をひいてやるから。」
ゴーシュはすっかりおちついて舞台のまん中へ出ました。それから、あのねこの来たときのように、まるでおこったぞうのようないきおいでとらがりをひきました。ところがちょうしゅうはしいんとなって、いっしょうけんめい聞いています。ゴーシュはどんどんひきました。ねこが切ながってぱちばち火花を出したところもすぎました。扉へからだをなんべんもぶっつけたところもすぎました。
曲か終わると、ゴーシュはもうみんなのほうなどは見もせず、ちょうどそのねこのようにすばやくセロをもって楽屋へにげこみました。すると楽屋では楽長はじめなかまが、みんな火事にでもあったあとのように、目をじっとしてひっそりとすわりこんでいます。
ゴーシュはやぶれかぶれだと思って、みんなの間をさっさと歩いていつて、向こうの長いすへどっかりとからだをおろして足を組んですわりました。
すると、みんなが一ぺんに頭をこっちへ向けてゴーシュを見ましたが、やはりまじめで、ベつにわらっているようでもありませんでした。
「今夜はへんなばんだなあ。」
ゴーシュは思いました。ところが楽長は立っていいました。
「ゴーシユ君、よかったぞお。あんな曲だけれども、ここではみんなかなり本気になって間いてたぞ。一週間か十日の間にずいぶんしあげたなあ。十日前とくらべたら、まるで赤んぼうと兵隊だ。やろうと思えばいつでもやれたんじゃないか、きみ。」
なかまもみんな立ってきて、
「よかったぜ。」とゴーシュにいいました。
「いや、からだがじょうぶだからこんなこともできるよ。ふつうの人なら死んでしまうからな。」
楽長が向こうでいっていました。
そのばんおそく、ゴーシュはじぶんのうちへ帰ってきました。
そしてまた水をがぶがぶのみました。それからまどをあけて、いつかかっこうのとんでいった遠くの空をながめながら、
「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれはおこったんじゃなかったんだ。」といいました。
*宮沢賢治の童話「セロ弾きのゴーシュ」を是非読んでください。渡邉順子
宮沢賢治の映画
2023年5月10日に映画館でみる
宮沢賢治の世界
フルート奏者 吉川久子さんについて
金沢文化芸術祭では吉川久子さんのCDアンオリジナルから銀河街道の曲で「生きても歓喜心でも歓喜」を踊りました。
吉川久子さんは宮沢賢治の世界をフルートで表現されているアーティストです。
「花巻の宮沢賢治記念館・胡四王の森などで何度もコンサートをしました。2022年は鎌倉建長寺・横浜図書館・学校・みなとみらいホールなどで宮沢賢治の世界をフルートで奏でています」と言うお話でした。
素晴らしいですね。
2023年6月18日
宮沢賢治記念館・宮沢賢治童話村・宮沢賢治イーハトーブ館・林風舎を訪ねました。
宮沢賢治関連ページ
2022年12月に訪ねた横浜の風景写真
宮沢賢治没90年作品
外人墓地資料館
大佛次郎記念館
2023年1月24日
「ちいさい隅」の四季の本を仙台メディアテークの図書館で借りた。
大佛次郎のエッセー
1958年〜72年 「ちいさい隅」を神奈川新聞に連載。
覚え書き
1931年 横浜ホテルニューグランドに仕事場を置く。
小説「霧笛」を東京・大阪毎日新聞に連載1933年。
1948年「帰郷」を毎日新聞に連載。昭和25年同作で芸術院賞受賞、英訳され六カ国語に翻訳され出版される。
1961年 夫婦でヨーロッパ旅行。フランスではパリ、コミューン関係の資料を収集。「パリ燃ゆ」を朝日ジャーナル、世界に連載。
1978年(昭和53年)横浜市の港の見える丘公園に大佛次郎記念館が開館。
霧笛橋
神奈川近代文学館
山手十番館
2022年12月山手西洋館
ベーリック・ホール
エリマン邸
山手234番館
霧笛楼
2023年6月11日
2022年6月に開催予定でしたが一年延期になり、やっとコンサートが開催されました。
東京エレクトロホール宮城
フジコ・ヘミングソロコンサートを聴きにいく
東京エレクトロホールの会場には2004年にフジコ・ヘミングが書かいた猫の絵が飾られていた。
2023年 ソロコンサート プログラム内容
シューベルト:即興曲D899 Op.90-3 変ト長調
スカルラッティ:ソナタ K.380 ホ長調、ソナタ K.159 ハ長調
ショパン:ノクターン Op.9-2 変ホ長調、エチュード《エオリアンハープ》Op25-1 変イ長調、エチュード Op.10-3 ホ長調、エチュード Op.10-5 変ト長調、3つの新しいエチュードより[遺作]第1番 へ短調、エチュード Op.10-12ハ短調
第2部
ドビュッシー:《ベルガマスク組曲》より〈月の光〉
リスト:ハンガリー狂詩曲 第2番 嬰ハ短調
ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
《パガニーニ大練習曲集》より〈ラ・カンパネラ〉
アンコール曲にベートーヴェン
2023年フジコ・ヘミングソロコンサートを聴きに行った記念に購入したCD Adagio
Adagio
【曲目】
(1) モーツァルト:ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467より第2楽章
(2) ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第5番「皇帝」変ホ長調 Op.73より第2楽章
(3) ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 Op.11より第2楽章
(4) ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲 Op.43 第18変奏曲 変ニ長調
(5) リスト:ラ・カンパネラ(パガニーニによる大練習曲)第3番嬰ト短調S.141の3)
(6) ショパン:ノクターン 第2番 変ホ長調 Op.9-2
※(5)(6):ライヴ録音【演奏】
ブラティスラヴァ交響楽団 (1)-(4)
フジコ・ヘミング(ピアノ) (1)-(6)
【録音】
2022年10月/スロヴァキア音楽アカデミー他
演奏:フジコ・ヘミング、ブラティスラヴァ交響楽団
指揮:マリオ・コシック
作曲:モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、ラフマニノフ、リスト
仙台にある珈琲豆専門店 ベートウーヴェン
〒980-0804 仙台市青葉区大町2丁目4-8
仙台のコーヒー豆専門店ベートーヴェンで買った第5番 皇帝 この店の看板犬ベートーヴェンのコーヒーパッケージがかわいい😍。
このコーヒーを飲む時に宮沢賢治の詩が心地よい。
音楽🎵
レコードほしかったらお送ります。
左のうえです。遠慮なくいってくれませんか。
ベートンベン、第五、第六、第九、第一ピアノ司伴奏、ストラウス死と浄化。
手紙 1930年 宮沢賢治
音楽を聴くならフジコ・ヘミングのベートーヴェンピアノ協奏曲第5番
「皇帝」変ホ長調Op.73より第2楽章
第2楽章はゆるやかに、ゆるやかにAdagio un poco
このCDの名前も「Adagio」
このCDの音源は携帯に入れてるの。
だから、いつも聞ける。
宮沢賢治本で私が気に入っているのは、無印良品の人と人物シリーズ。
カップは横浜の元町で買ったコーヒーカップ。横浜の中区に住んでいたから、元町は庭。
金沢区に住んでいた頃はキャラバンコーヒーの工場が近所にあって、キャラバンコーヒーをよく買って飲んでいた。
元町にもキャラバンコーヒーのカフェがあったのよ。
今もキャラバンコーヒーの赤い缶が家にあるわ。
仙台だとコーヒー豆は旦那が好きなコーヒー豆専門店で買ってくるけど、私はたまにコーヒー豆専門店ベートーヴェンのドリップコーヒーを買って夜中に飲みのが好きなのよ。
ショパン本日のコーヒーはフリデリック・ショパン
遠い日の恋を想う、穏やかな酸味
ドリップコーヒー
生産地国名 コロンビア🇨🇴、ブラジル🇧🇷。
大の甘党で、ウィーンで流行したスミレの花の砂糖漬けが大好き。コーヒーに入れるとほのかにスミレの香り漂います。
珈琲豆屋ベートーヴェン
バッハ本日のコーヒー☕︎はヨハン・セバスチャン・バッハのコーヒー。
ドリップコーヒー
1700年代、コーヒーハウスは女人禁制。
娘にコーヒー好きをやめさせようとする父親の姿を歌ったのが「コーヒーカンタータ」
コーヒーカンタータの曲を聴きながら、バッハのイラストを見ながら。
ちょっとほろ苦いコーヒーが心を癒す。
仙台のコーヒー豆屋
ベートーヴェンの店で購入した。
クリスマスプレゼントにここのドリップコーヒーを郵送したの。
中には仙台の有名人、支倉常長のコーヒーパッケージ。
支倉 常長は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての日本の武将。幼名は與市、初名は六右衛門長経、キリスト教洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ・ファセクラ。 慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、有色人種として唯一無二のローマ貴族、及びフランシスコ派カトリック教徒となった方。でも墓は仙台の北山にあり、カトリック教徒と言うより日本で初めてスペインとローマを訪ねた仙台人と私は理解している。
クリスマス🤶が近づいていますね。
色々な音楽に触れるのも楽しみ。
コーヒー豆専門店ベートーヴェン
常長の使命、伊達の黒船、ショパン、第5番 皇帝の4つのドリップコーヒーを購入しました。
今夜のコーヒーは伊達の黒船
サン・ファン・パウティスタ
コーヒー豆
メキシコ🇲🇽コロンビア🇨🇴
大航海時代、スペイン🇪🇸と関わりのあった生産国でブレンドを創りました。
大海原を感じさせるコクと深みのある味わいです。
インスタ・FB にアップした日記です。
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