「ショパンの音楽を聴きながら」第1章

     ショパンの音楽を聴きながら

七色の色が一本になっている鉛筆でえ
エラールピアノの絵を描く

 

第1章

フジコ・ヘミングのCD

フジコ・ヘミング
LaCampanella 1973
CD解説

フジ子・ヘミング
耳の中の記憶

1998年 4月 上野の旧奏楽堂で行われたリサイタル

10月にも奏楽堂でのライブ録音

「ラ・カンパネラ」「ハンガリー舞曲第5番」「泉のほとりで」

2004年の東京ライブも収められた貴重のライブ・アルバム ラ・カンパネラ1973

東京音楽芸大在学中に毎日コンクールで入賞し、多くの音楽賞を受賞、卒業後に本格的に演奏活動を開始する。

東京芸大

旧東京音楽学校奏楽堂

旧東京音楽学校奏楽堂

旧東京音楽学校奏楽堂

東京 名建築探し

*2022年に撮影した東京名建築探しのページも見てください。

 

フジコ・ヘミングの軌跡

ウィーンのリサイタルを開けることになった直前、風邪が悪化し両耳の聴力を失うと言う致命的なアクシデントが襲う。

ストックホルムに移り、耳の治療に専念、教育、演奏活動を続け1995年帰国。

1999年2月に放送された「フジコ あるピアニストの軌跡」よって最も注目を浴びる音楽家となる。

2022年12月17日

私はやっとフジコ・ヘミングコンサートを聴きに行きました。

「フジコ・あるピアニストの軌跡」から23年、一度も生のフジコ・ヘミングコンサートに行く事はできなかったけど、フジコさんの音楽を聴きながら絵を書いているうちにコンサートにも行けるようになりました。

フジコ・ヘミングの音楽を聴きながら絵を描く

2022年に書いた絵

R .シューマン1810-56

ドイツの作曲家

「人間の心の奥底へ光を送ること、それが芸術家の使命」

私はフジコ・ヘミングさんの奏でる音色から光を感じコンサートに出かけました。

 

2022年12月17日
「フジコ・ヘミング」コンサートのプログラム

 

      ショパンの音楽を聴きながら

202281
夜中に「文豪聖地さんぽ」を読んでいた。最近、太宰治、芥川龍之介、夏目漱石の文学を読んだり、DVDの映画をみていた。私は横浜の中区に住んでいたのに神奈川近代文学館には縁遠く、バレエのレッスンに明け暮れ、鎌倉でアルバイトをしていた。港の見える丘公園によく行ったが、文学館にいかずにいた事が残念に思う。
神奈川近代文学館は夏目漱石、中島敦の貴重なコレクションを収蔵している。最近、中島敦の文学もいいと感じるのは中区の喜久屋洋菓子舗の和歌がある「愛しきやし仏蘭西の娘らショコラ飲み蒙古族われ独りパイを食す」
あー横浜にまた行きたいなー。
2022年12月25日
私は12月17日、18日と横浜馬車道にあるホテルに泊まった。
17日は立川ステージガーデンに「フジコ・ヘミングコンサート」を聴きに行った。
18日は港の見える丘公園から中区山下町あたりを眺めガンダムの写真を写すことができた。そして定番の横浜ベイブリッジの写真。
横浜観光に来た私は元町の喜久屋でラムボールを買い、山手十番館でプリンアラモードを食べた。
12月だから山手西洋館はクリスマスの飾り付けがされていました。

元町にある喜久屋

2022年12月27日
「私は20歳の時に東京一人暮らしを経験したの。
その後はずっとずっと働きながら原稿を書いていたわ。
病院のレントゲンの受付事務をして、一年間、東京のバレエ団の研究生をして、バレリーナになる事を諦めたの。
仙台に帰ってからはアルバイトをして、また、会社員になって働き始めたの。
20代を過ぎてから仙台のバレエ学校に入学。
発表会にも出演して、仙台から六本木のバレエスタジオに通い、鎌倉に遊びにいくようになったの。」
それで「ブルーな鎌倉」と言う題で 2022年に執筆した(*2022年7月から8月の間に書いた。)
ブルーの鎌倉を書き終えた頃、ピアニスト フジコ・ヘミングの映画を見た。
「フジコ・ヘミングの時間」

フジコヘミングの時間

パリ音楽散歩

「フジコ・ヘミングの時間」の映画を見てから、フジコ・ヘミングの音楽を聴きながら絵を描くと言う題名の通り、絵を書き始めた。
そして2022年12月17日 念願のフジコ・ヘミングのコンサートを聴きに行きにいった。
これでまた新しく「ショパンの音楽を聴きながら」を書くことにした。
日記のように書いているので、のんびり私の日記を見ていただければ幸いです。

横浜の思い出

20代の時、中学校の友達と観光バスに乗り、仙台→東京ディズニーランド→横浜山手観光をした事があった。
横浜ベイブリッジを渡り、東京ディズニーランドで遊び、横浜の元町と山手観光をするツワー。
あまり記憶はないがそれが初めての横浜観光だったかもしれない。
仙台から東京都目黒区に住みバレリーナを目指したが8ヶ月で挫折。
風邪を引いたことが原因だったけれど、仙台に帰り、会社員をしながら執筆活動をし、同人誌で賞を取った。
その後、またバレエの道に戻り、谷桃子バレエ団の公演にも出演。

谷桃子バレエ団
公演 ドン・キホーテ」に出演する1993年

結婚、東京都杉並区和田→横浜市金沢区に住んでいた頃、バレエの先生になる→念願の中区暮らし→仙台暮らしに戻る。
現在は20代の頃に勤めていた病院に戻り仕事をしている。
色々、ゆっくり横浜の思い出を書く予定です。
2023年で私も57歳。
JUNの豆知識
大佛次郎(おさらぎ じろう)について
私が中区に住んでいた頃、大佛次郎記念館を訪ねた。
大佛とも書くが大仏(だいぶつ)とも書く
実は大佛は鎌倉文士で鎌倉にも住んでいた作家。
鎌倉長谷の大仏の裏に住んでいたので大仏または大佛というペンネーム
本名は野尻清彦
鎌倉女学院高等学校で教師をし、退職後「鞍馬天狗」などの時代小説やノンフィクションなど幅広く執筆した作家
兎に角、ホテルニューグランドで「鞍馬天狗」「霧笛」を書き上げた作家です。
ホテルニューグランド318が「鞍馬天狗の間」と呼ばれています。
大佛次郎は大の猫好きで「大佛次郎と猫」と言う本が出版されています。
家には10匹以上の猫がたむろし、一緒に住んだ猫は500匹を超え猫好き作家として知られている。
「猫のいる日々」「スイッチョねこ」といった本も出版されています。

ブルーな鎌倉から引用

「大佛次郎が長谷の大仏裏に住んだのが1921年(大正10年)

昭和に入り、鎌倉文士たちの中心となるのが、1936年(昭和11)久米正雄の呼びかけによって構成された「鎌倉ペンクラブ」だ。メンバーには、川端康成、林房雄、深田久弥、里見弴、小林秀雄、大佛次郎、大岡昇平、太田水穂、神西清、高浜虚子、横山隆一、中里恒子、野田高悟、今日出海、小杉天外、小牧近江、三好達治、島木健作ら鎌倉在住の文学者などが名を連ね、大いに親睦を深める場となった。」

ブルーな鎌倉
江ノ電の「由比ヶ浜駅」、昔の江ノ電の列車が置かれている公園、由比ヶ浜から逗子方向に歩いて行くと材木座の海がある。
私は由比浜の海を見るのが大好きです。そこには文字の流れる旋律があるからです。
鎌倉八幡宮からまっすぐな道を歩き続け
由比ヶ浜の海にたどり着く。
さざなみの音が聴こえ始める。
風が吹いて聴こえるリズム。
「おかえり」
「おかえり」と波が歌い出す。
心の奥まで打ち寄せる波音のしらべ。
私は鎌倉に帰ってきた。
由比ヶ浜から聴こえるメロディーは永遠に変わることはないリズム
-順子の詩-
ブルーな鎌倉にも書いていますが、私は東京の六本木にあったスタジオ一番街のスタジオに通い小川亜矢子先生のレッスンを受けていたことがありました。

小川亜矢子先生は22歳の時に、イギリスの日本文学研究者のアイヴァン・モリスと結婚し、彼と共にパリに渡ったことで、フランスのバレエを学ぶ機会を得た。さらに彼がコロンビア大学の東洋学部の教授として招聘され、1960年(昭和35)年にはアメリカへ。ニューヨークのメトロポリタンオペラバレエ団で国際的に活躍、ローザンヌ国際バレエコンクールの審査員も務めた先生でした。

*201517日に亡くなる。

イギリスの日本文学研究者のアイヴァン・モリス

英語圏での古典・近代日本文学の研究進展に寄与し、英文著書のほか三島由紀夫の金閣寺、大佛次郎「旅路」など多数を英訳。同学のドナルドキーンが友人であった。

大佛次郎氏の「旅路」が英訳され海外でも紹介されている事をしりました。

ホテルニューグンド

12月28日

「ホテルニューグランド」の思い出

JUNの横浜名建築でコーヒーを

*JUNの横浜名建築でコーヒーをのページもリンク貼りました。

 

ホテルニューグランドに宿泊した事はありません。

ホテルニューグランドで吉川久子さんのコンサートには何度か足を運んだ事はあります。

毎年、12月24日にホテルニューグランドで行われる「吉川久子フルートコンサート」を聴きに行った事はあったからです。

金沢区に住んでいた時と中区に住んでいた頃です。

2008年頃〜2016年の間に何度か足を運びました。

吉川久子作曲 「湘南太平記」の音楽ではよく踊り、共演もしました。

「湘南太平記」の曲でバレエ鷺娘と言う創作バレエ作品を振付したのです。

吉川さんが「湘南太平記」を発表した2008年頃に初めてホテルニューグランドに行き、中区に住んでからは、日々、ホテルニューグランドの前を自転車で走っていました。

ホテルニューグランドのカフェにも行き、吉川さんがホテル泊した日はお友達とホテルの探検隊になってマッカサーズスィート315号室を探したことが楽しい思い出になっています。今は横浜の深い歴史あるホテルが私にとって懐かしい横浜の思い出の場所となっています。

ホテルニューグランドのBAII ROOM(舞踏室)で、吉川久子さんのコンサートが行われたことがありました。そのホールは横浜市確定歴史的建造物と呼ばれていた部屋です。世界のVIPをお迎えした場所でホテル探検隊渡邉はそこの部屋にも入りました。(レインボーボールルーム)

*現在は「ペリー来航の間」で吉川さんのコンサートは行われていると思います。

ホテルニューグランド内

山下公園から見るホテルニューグランド

12月29日

民音音楽博物館の思い出

東京都信濃町にある民音音楽博物館
2022年12月1日にリューアルオープンしました。

2003年 初めて民音音楽博物館を訪ねる

私が初めて信濃町を訪ねたのは2003年頃だったと思います。

横浜市金沢区に住み娘がピアノを習い始めた頃でした。私も小さい頃にピアノを習っていましたが、ピアノの練習をするのが好きではありませんでした。小学6年生の運動会の日にアコーディオンで弾きながら運動場を歩き、中学生になってからはピアノもバレエも一度は辞めてしまいました。中学時代は図書委員になり、図書委員の会報誌にイラストを描いていました。

娘がピアノを習うため、ピアノを購入し、ピアノ店の方から「民音音楽博物館」があることを教えて頂き、海外のピアノ見たさに、信濃町に知り合いと出かけて行きました。娘もピアノは3年ほど習いましたが絵を習いたいと言うことで鎌倉まで家族で絵を習いに行ったのです。

多分、私も娘もピアノを弾く事よりも絵を書く方が好きなタイプのようでした。

それで2022年、「フジコ・ヘミングの音楽を聴きながら絵を書く

フジコ・ヘミングの音楽を聴きながら絵を描く

と言う気持ちになり絵を書き始めたのです。

2022年12月17日、立川ステージガーデンで行われた「フジコ・ヘミングコンサート」を聴きに行き、18日はリューアルされてた懐かしの民音音楽博物館を訪ね、ヨハン・フリッツ・シュトローム・ピサ・チェンバロといった懐かしのピアノと再会。可愛い天使とも再会しました。

「母の曲」

1991年にミラノ・スカラ座バレエ団にスラミフィ・メッセレル先生を訪ね、レッスンを受けた。イタリアに一週間ほど滞在した時にイタリアのSGl(創価学会インターナショナル)の方からミラノ・スカラ座のオペラの公演「ポエーム」のチケットを頂きました。イタリアのミラノ・スカラ座を日本に初めて招いたのが民主音楽協会だったらしい。
私とメッセレル先生はSGIの方から「日本の仏壇と数珠を買って祈っている。日本の宗教は素晴らしいと聞いた。」メッセレル先生は日本に来日するようになってから少し民主音楽協会を理解したようでした。

渡邉順子は民音創立者でSGI会長の長編詩が歌詞になり、松原真美、松本真理子によって作曲された「母」の曲で何度か踊る。
イタリアSGIの方からミラノ・スカラ座でオペラを見せて頂いたお礼と感謝の気持ちで舞い続けました。

*民音音楽博物館内1にオルゴールの展示室もありますので、お時間があればオルゴールの音色もお聞きになってください。

「ブルーな鎌倉」

虹の彼方に

*「ブルーな鎌倉」・「虹の彼方に」に民音音楽博物館の思い出を書いています。

「母」の曲で踊る。
初演2004年「母の舞」の写真を載せました。

「母の舞」を踊る金沢文化芸術祭で踊る2010年頃

 

三人の天使

2007年頃、バレエの先生になってから訪ねた民音音楽博物館

1999年から横浜市金沢区に住み、2002年に金沢区でバレエスクールを開設し、バレエの先生になりました。2007年頃、民音音楽博物館に訪ね「第1回 世界バレエフェスティバル」の写真を撮影していたカメラマンと知り合いになり、民音で撮影したバレエ公演の写真を見せて頂いたのです。

1976年の第1回公演の写真ですから、古い写真です。

*2021年が第16回目でした。

世界バレエフェスティバルは3年に一度東京で開催される世界のバレエが集結する大イベント。

第1回の世界バレエフェスティバルに出演したマイヤ・プリセツカヤ。マーゴ・フォンティン。アリシア・アロンソ。カルラ・フラッチなどなど世界のトップスターが東京に集結した夢の共演で多くの人々を魅了した、当時の写真を拝見しました。

マイヤ・プリセツカヤさんの「瀕死の白鳥」の写真は本当に素敵でした。マイヤ・プリセツカヤさんの叔母さんに当たるスラミフィ・メッセレルに振付して頂いた「瀕死の白鳥」を私も横浜で10年踊りましたが、10年踊っても未完成作品のままです。絵を描いている方がとても描きがいがあり、多分、踊ることではなく、絵を描く事で私の「瀕死の白鳥」は浄化される事でしょう。

 

「ブルーな鎌倉」

マイヤ・プリセツカヤ、スラミフィ・メッセレルについては「ブルーの鎌倉」にも少し書いています。

 

希望の歌劇と言う写真集を民音音楽博物館から2012年頃に、いただいたので少しだけ、紹介します。

文章をそのまま書くのではなく、私が好きな文章だけを書きます。

                     希望の歌劇

厳しい練習を積み重ねた分だけ、芸術家は自由になる。

人もまた、さまざまな悩みや苦しみに磨かれた分、きっと幸せになる。

人間そのものが芸術であり、あらゆる人生が、美しい音色を奏でているようだ。

「歌う」ことは「うったう(訴える)」こと、天に訴えれば祈りとなり、

人に訴えれば心と心の橋になる。

12月30日

 

8歳からバレエを学び結婚して出産、子育てを始めた頃、バレエの先生になりました。東京の杉並から横浜市金沢区に住むようなってからのことです。スラミフィ・メッセレル先生のお弟子さんのスタジオで2000年に鎌倉で「瀕死の白鳥」を踊り始めてから磯子でスタジオを借り、バレエの先生になりました。2010年までは「瀕死の白鳥」一本勝負で踊りながらの私でしたが、自分で作品を作って生徒たちと踊ったり、生徒達が小さい時は「白鳥の湖」を踊ったりもしました。

「白鳥の湖」

2005年にABC・FACTRYバレエ団公演「ゆうづる」にも出演したりしましたが、主人が病院に3ヶ月間入院したため磯子の借りスタジオから磯子スポーツセンターの研修室を借りるようになったのです。

JUNバレエスクールからJUNバレエ塾と名前も変わり、2009年に金沢区の長浜ホールを借りて小さな小さな発表会を開きました。

発表会イラスト
JUNバレエ塾 生徒が書いたイラストです。

鎌倉
「湘南太平記」

「湘南太平記」を作曲した吉川久子さんを招いての小さなコンサート

「湘南太平記」も生徒達が吉川さんのフルートの音色で踊った姿はとても可愛らしかったです。

私自身も踊りましたが生徒達が本当に一生懸命踊ってくれました。

私は横浜で10年「瀕死の白鳥」を踊りながら、自分の中でもっと向上したいと言う気持ちが目ばえ始めたのです。

横浜で「瀕死の白鳥」を10年踊り続けて

2010年に神奈川県立音楽堂・8月いわきアリオス・10月テアトルフォンテの会場で「瀕死の白鳥」を踊り、鎌倉から始まった「瀕死の白鳥」は「生きても歓喜・死んでも歓喜」の作品に繋がり、仙台で絵を描き始めるようになるまでの過程を少し書いておきます。

2010年から「ダンスカナガワフェスティバル」(神奈川県芸術舞踊祭)に出演しています。

この「ダンスカナガワフェスティバル」はジュニアの部・シニアの部があり、クラッシック・バレエとモダン・バレエが参加する舞台でした。

ダンスカナガワフェスティバルにはヨコハマ・コンペティションの受賞者が踊ると言う特権もありました。

*ダンスカナガワフェスティバルについても書いていますのでリンクを貼りました。

ダンスカナガワフェスティバル2010年〜2015年

ダンスカナガワフェスティバルの思い出

2010年「瀕死の白鳥」

2010年まで踊り続けた「瀕死の白鳥」の最後の写真

2011年「ルスランとリュドミラ」よりリュドミラのヴァリエーション

「ルスランとリュドミラ」を踊る渡邉順子

2012年「白鳥の湖」からルースカヤ

ルースカヤ

2013年「くるみ割り人形」アラビアのコーヒー

2014年「バレエ藤娘」

ダンスカナガワフェスティバルで踊ったバレエ藤娘

2015年「カルメン」

振付:渡邉順子

指導:多胡寿泊子

衣装:ベラーム(多胡先生のスタジオの衣装)

 

神奈川県舞踊祭 NO.102 ダンスカナガワフェスティバル 2015年6月21日「カルメン」

神奈川県舞踊祭 NO.102 ダンスカナガワフェスティバル 2015年6月21日「カルメン」

2015年 カルメン

*カルメンについても書いているのでリンクを貼りました。

2015年4月26日に谷桃子先生が亡くなりました。

6月にダンスカナガワフェスティバルで「カルメン」を踊りました。

7月には谷桃子バレエ団の大先輩にあたる多胡寿伯子(たご すわこ)先生の発表会に「白鳥の湖」より スペインの踊りで出演。カルメンに少し雰囲気が似ていると思います。

スペインの踊り

ポーランドのバレエ団で活躍しているプリマ・バレリーナの黒澤瑞さんと。(教子)

ポーランドのバレエ団のプリマ
「シンデレラ」を踊る黒澤瑞

 

ヨコハマ・コンペティション

「さくらさくら」・「バレエ鷺娘」・「生きても歓喜・死んでも歓喜」と言う作品を創りました。

 

「さくらさくら」

下田栄子先生のご主人である黒澤輝夫先生が審査員をされていて、下手くそながら日本舞踊を取り入れて作った作品。

「さくらさくら」
渡邉順子 金沢文化芸術祭でも踊りました。

「バレエ鷺娘」

「バレエ鷺娘」
モダンのコンクールで踊りました。

ご主人の黒澤先生から審査員が下田先生に変わりました。

下田:素敵なバレエだった。

バレエ鷺娘

金沢文化芸術祭で踊った鷺娘

 

*バレエ鷺娘についても色々書いていますのでリンクを貼りました。

「生きても歓喜・死んでも歓喜」

私自身が考えた「生きても歓喜・死んでも歓喜」の振付内容

光の場所に歩いて歩いて行くのですがあまりにも眩し過ぎてその光の中に入ることがっできなかった。そして一緒に歩いていた大切な人を亡したことに気づいたのです。初めて分かったのです。生きている時も死んでしまっても私は貴方を愛しています。

渡邉順子経歴に舞台の経歴は書いてあります。

渡邉順子 経歴

*「ブルーな鎌倉」にも桃子バレエ団の公演に出演した記録にも舞台経歴は書いています。

「ブルーな鎌倉」

 

 

故下田栄子先生の思い出

 

2012年頃に横浜の網島のスタジオに下田先生を訪ねました。私服で音楽もない中で「瀕死の白鳥」を踊ったのです。モダンとは「歩く」事から初めます。下田先生の指導受け、モダンのコンクールに出させて頂きました。

民音のカメラマンからの伝言

「下田先生のご主人、黒澤先生が「瀕死の白鳥」を神奈川県立音楽堂で見たと言う事です」

民音カメラマン:「写真集をお渡しますから、写真集を持って言ってくれ」

私は民音音楽博物館に行き「希望の歌劇(オペラ)」の写真集を下田先生にお渡ししたのです。

「希望の歌劇」の本は私と下田先生が仲良く頂いた本で今も大切にしています。

黒澤先生は2013年のダンスカナガワフェスティバルで踊った「くるみ割り人形」のアラビアの踊りを見て下さいました。

(*私が多胡版「くるみ割り人形」に出演した事を神奈川県立音楽堂で知ったからだったようです)

多胡版「くるみ割り人形」についてリンクを貼っています。

多胡版「くるみ割り人形」(谷桃子バレエ団系列の舞台)

多胡版「くるみ割り人形」に出演した時の写真

黒澤輝夫先生は神奈川県芸術舞踊協会名誉会長で2014年に亡くなりました。

2015年 ダンスカナガワフェスティバルで「カルメン」を踊りました。

*多胡版「くるみ割り人形」に出演し、元谷桃子バレエ団団員だった多胡寿伯子先生の指導を受け最後にカルメンを踊りました。谷桃子先生が亡くなった年でもあります。

2022年12月17日フジコ・ヘミングコンサートに多胡先生をお連れました。

多胡寿伯子

東京生まれ
9歳から大芝信・内田裕子にモダン・ダンスを師事し現代舞踊の創作舞踊の創作公園に多数出演。芝浦工大建築学卒業。東京バレエ劇場でNYCBロイ・バァイアスに師事。バレエ団員となり「くるみ割り人形」のプリマに抜擢。74年に谷桃子団に入団。谷桃子に師事。96年文化庁主催芸術祭舞踊部門芸術祭最優秀賞受賞作「The Scarlet Lettet A 緋文字」などの作品を手掛ける演出、振付家。現在はべラーム・スタジオは閉鎖。

多胡版「くるみ割り人形」には白猫が登場する
多胡寿伯子先生

2022年12月17日
立川ステージガーデン

多分、黒澤輝夫先生・下田栄子先生が生きていらしたら「順子ちゃんが習ったバレエの先生を連れて立川まで行ってフジコ・ヘミングさんのコンサートを聴いて来たんだって。18日はフジコ・ヘミングさんと同じ型のピアノが民音音楽博物館にあるから、ピアノの写真を撮りに信濃町に行ったらしいのよ」と生徒さん達に話した事でしょう。

民音博物館内
撮影:渡邉順子

下田先生の娘さんは2016年に亡くなり、下田栄子先生は2017年に亡くなりました。

「生きても歓喜・死んでも歓喜」(音楽:天空の夜明け)と言う作品が作れたことに感謝しています。。指導して頂いた前田新奈さんは谷桃子バレエ団・新国立バレエ団のソリストとして活躍され現在は振付家として活躍されています。*神奈川芸術舞踊協会公演などにも出演しています。

生命の底力を見せる舞」に私自身も挑戦できたのは、下田先生と出会えたからだと思っています。

元新国立バレエ団
前田新奈さんと
2016年(CD天空の夜明け)

ピアニスト「リベルタンゴ」で有名
藤木明美さんのCDで踊りました。

リベルタンゴのCDでも踊りました。2004年頃

リベルタンゴの衣装でバレリーナモデル

 

モダンの故黒澤先生と故下田先生
ダンスカナガワとモダンのコンクールでお世話になりました。ありがとうございました。

 

*ダンスカナガワフェスティバルの他にも「金沢文化芸術祭」にも出演していました。

2009年〜2017年まで踊っていました。

「湘南太平記」・「母への舞」・「バレエ鷺娘」・「バレエ藤娘」などの創作バレエを踊りました。

金沢文化芸術祭については「仙台雀踊り」の章に書いていますのでリンクを貼りました。

仙台雀踊り

 

金沢文化芸術祭

「母への舞」を踊る指導:多胡寿泊子

*詩吟コンサートにも出演しました。

バレエ「藤娘」
多胡先生の衣装指導

プレイエルピアノと斎藤ピアノ(ブリュートナー)が今回の主役

 

プレイエルピアノ

ショパンは 1838 年に作家のジョルジュサンドを伴ってスペインのマヨルカ島を訪れました。彼らはラカルトゥハデヴァルデモッサ修道院のセル No.4を借り、そこでショパンはパリからプレイエルピアノを受け取りました。

滞在中、彼はこのピアノを使って、いくつかのプレリュード、ポロネーズ、2番目のバラード、3番目のスケルツォなどの素晴らしい作品を作曲しました。

ショパンはマヨルカ島で所有していたピアノをカヌー家に売却しました。

1932年以来、ショパンが演奏したのと、同じプレイエルピアノが部屋に展示されています。東京にある民音音楽博物館にもプレイエルピアノは展示されています。

2022年12月にマヨルカ島を訪ねたフジコ・ヘミングさんの映像も拝見しました。

フジコ・ヘミングのマヨルカ島の映像を見た感想 2022年12月24日

フジ子さんは幼少時代、日本人であったお母さんの弾くショパンの曲を聴きながら夜は眠ったそうです。母親は、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)出身のピアニスト。ピアノは身近な生活の一部。5歳の頃から、母の指導でピアノを弾く毎日となった。「ショパンとリストを弾く使命のピアニスト」と世界で絶賛されたフジコ・ヘミングの映像には圧巻でした。

 

 

フジコ・ヘミング

プリュートナー斎藤ピアノ

東京信濃町にある民音音楽博物舘に展示されています。

フジコ・ヘミングさんが奏でるブリュートナーピアノと同じ型の「斎藤ピアノ」。

プリュートナーは「歌うピアノ」と呼ばれ賞賛されたこともあるピアノメーカーで、1853年にドイツ・ライプツィヒで創業されました。

ドイツの王室のみならずヨーロッパ諸国の王室、イギリスのヴィクトリア王女もプリュートナーに触れたと言われています。

リスト、チャイコフスキー、ヨハン・シュトラウス2世など多くの音楽家、作曲家・ピアニストに絶賛されたピアノ。

民音音楽博物館の展示 プリュートナーは齋藤ピアノと呼ばれています。

チェロ奏者。音楽教育者として活躍した齋藤秀雄(1902-1974)氏が愛用したピアノの一台。

斎藤秀雄氏について

 

斎藤秀雄の彫刻
制作 佐藤忠良

「若き芸術家たちへ」
佐藤忠良・安野光雅

宮城県立美術館と仙台市内にある彫刻のベーじにリンク貼りました。宮城県立美術館と仙台市内にある彫刻

 

 

若き芸術家たちへからの引用

小沢征爾(指揮者、斎藤秀雄に学びフランスに留学。国際的評価も高くボストン交響楽団やウィーン国立歌劇場などで音楽監督を務める)

「やあ、忠良先生は斎藤先生によく似ていらっしゃる」と小沢君(小沢征爾)が言うのね。斎藤さんの写真見たらいい男なんだよ。でも彫刻にしたら、なんだか自分に似た顔になっちゃった。

斎藤秀雄氏がモデルの童話

日本の詩人・童話作家の宮沢賢治が書いた最後の作品「セロ弾きのゴーシュ」の中に出てくる管弦楽団の厳しい楽長(指揮者)のモデルと言われています。ちょうど留学から帰ったばかりで厳しい指導をしていた新交響楽団での斉藤の姿から考えたのではないかという説。(新交響楽団の練習を賢治が上京時に見学した時期と一致しているためです)

宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」から引用

 

「トロメライ、ロマチックシューマン作曲。」
ねこは口をふいてすましていいました。
「そうか。トロメライというのはこういうのか。」
セロひきはなんと思ったか、まずハンケチをひきさいて、じぶんの耳のあなへぎっしりつめました。それから、まるであらしのようないきおいで「インドのとらがり」という譜をひきはじめました。

 

たぬき

「だってぼくのおとうさんがね、ゴーシュさんはとてもいい人で、こわくないから行ってならえといったよ。」といいました。
そこでゴーシュもとうとうわらいだしてしまいました。
「なにをならえといったんだ。おれはいそがしいんじゃないか。それにねむいんだよ。」
たぬきの子はにわかにいきおいがついたように一足前へ出ました。
「ぼくは小だいこのかかりでねえ。セロへ合わせてらってこいといわれたんだ。」
「どこにも小だいこがないじゃないか。」
「そら、これ。」
たぬきの子はせなかからぼうきれを二本出しました。
「それでどうするんだ。」
「ではね、『ゆかいな馬車屋』をひいてください。」
「なんだ、『ゆかいな馬車屋』ってジャズか。」
「ああ、この譜だよ。」
たぬきの子はせなからまた一まいの譜をとりだしました。ゴーシュは手にとってわらいだしました。
「ふう、へんな曲だなあ。よし、さあひくぞ。おまえは小だいこをたたくのか。」  ゴーシュはたぬきの子がどうするのかと思ってちらちちらそっちを見ながらひきはじめました。

 

 

ホールでは、はく手の音がまだあらしのように鳴っております。楽長はポケットへ手をつっこんで、はく手なんかどうでもいいというように、のそのそみんなの間を歩きまわっていましたが、じつはどうして、うれしさでいっぱいなのでした。みんなはたばこをくわえてマッチをすったり、楽器をケースへ入れたりしました。
ホールはまだパチパチ手が鳴っています。それどころではなく、いよいよ手がつけられないような音になりました。大きな白いリボンをむねにつけて、司会者がはいってきました。
「アンコールをやっていますが、なにかみじかいものでも聞かせてくださいませんか。」
すると楽長がきっとなってこたえました。
「いけませんな。こういう大物のあとへなにを出したって、こっちの気のすむようにはいくもんでないんです。」
「では楽長さん、出てちょっとあいさつしてください。」
「だめだ。おい、ゴーシュ君、なにか出てひいてやってくれ。」
「わたしがですか。」
ゴーシュはあっけにとられました。
「きみだ、きみだ。」
バイオリンの一ばんの人がいきなり顔をあげていいました。
「さあ出ていきたまえ。」
楽長がいいました。
みんなも、セロをむりにゴーシュに持たせて扉をあけると、いきなり舞台へゴーシュをおし出してしまいました。ゴーシュがそのあなのあいたセロをもって、じつにこまってしまって舞台へ出ると、みんなはそらみろというように、いっそうひどく手をたたきました。わあとさけんだものもあるようでした。
「どこまで人をばかにするんだ。よしみていろ。『インドのとらがり』をひいてやるから。」
ゴーシュはすっかりおちついて舞台のまん中へ出ました。それから、あのねこの来たときのように、まるでおこったぞうのようないきおいでとらがりをひきました。ところがちょうしゅうはしいんとなって、いっしょうけんめい聞いています。ゴーシュはどんどんひきました。ねこが切ながってぱちばち火花を出したところもすぎました。扉へからだをなんべんもぶっつけたところもすぎました。
曲か終わると、ゴーシュはもうみんなのほうなどは見もせず、ちょうどそのねこのようにすばやくセロをもって楽屋へにげこみました。すると楽屋では楽長はじめなかまが、みんな火事にでもあったあとのように、目をじっとしてひっそりとすわりこんでいます。

ゴーシュはやぶれかぶれだと思って、みんなの間をさっさと歩いていつて、向こうの長いすへどっかりとからだをおろして足を組んですわりました。
すると、みんなが一ぺんに頭をこっちへ向けてゴーシュを見ましたが、やはりまじめで、ベつにわらっているようでもありませんでした。
「今夜はへんなばんだなあ。」
ゴーシュは思いました。ところが楽長は立っていいました。
「ゴーシユ君、よかったぞお。あんな曲だけれども、ここではみんなかなり本気になって間いてたぞ。一週間か十日の間にずいぶんしあげたなあ。十日前とくらべたら、まるで赤んぼうと兵隊だ。やろうと思えばいつでもやれたんじゃないか、きみ。」
なかまもみんな立ってきて、
「よかったぜ。」とゴーシュにいいました。
「いや、からだがじょうぶだからこんなこともできるよ。ふつうの人なら死んでしまうからな。」
楽長が向こうでいっていました。
そのばんおそく、ゴーシュはじぶんのうちへ帰ってきました。
そしてまた水をがぶがぶのみました。それからまどをあけて、いつかかっこうのとんでいった遠くの空をながめながら、
「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれはおこったんじゃなかったんだ。」といいました。

*宮沢賢治の童話「セロ弾きのゴーシュ」を是非読んでください。渡邉順子

 

宮沢賢治の世界

フルート奏者 吉川久子さんについて

アンオリジナル

金沢文化芸術祭では吉川久子さんのCDアンオリジナルから銀河街道の曲で「生きても歓喜心でも歓喜」を踊りました。

吉川久子さんは宮沢賢治の世界をフルートで表現されているアーティストです。

「花巻の宮沢賢治記念館・胡四王の森などで何度もコンサートをしました。2022年は鎌倉建長寺・横浜図書館・学校・みなとみらいホールなどで宮沢賢治の世界をフルートで奏でています」と言うお話でした。

素晴らしいですね。

 

東京信濃町をいつかまた訪ねたいと思います。

東京 名建築探し

*東京名建築探しに信濃町煉瓦館の写真が入ってます。

信濃町煉瓦館

煉瓦館

 

2022年12月に訪ねた横浜の風景写真

港の見える丘公園から見た「ガンダム」

港の見える丘公園から見たベイブリッチ

私が中区に住んでいたのは2016年〜2018年の間です。
JUNブログにはたくさんの横浜写真がアップされています。
*JUNの横浜名建築でコーヒーををブログにアップしている。

馬車道通り

その他、*懐かしの本牧暮らし(横浜編)のページも作った。

本牧に住んでいた当時に移した横浜写真
建築物

 

あとは*横浜関連のページにも色々な横浜の写真が見られます。
横浜山手の写真や元町の写真があります。
*過去に写した写真などもアップしながら書いていきます。
今年は7月3日から5日で横浜、鎌倉、上野を訪ね仙台に帰ってから「ブルーな鎌倉」を書いていた。
その後はフジコ・ヘミングの音楽を聴きながら絵を描くのページを作った。

2022年に書いた絵

天に昇ってバレリーナになった蝶々たち
チャイコフスキー
「眠りの森の美女」
花のワルツの音楽を聴きながら

2022年12月1日
春の宵
月の光に照らされて輝く桜をイメージして作りました。コラージュ作品

2022年12月18日に撮影した写真
エリナ・パブロワの墓がある外人墓地の資料館の写真も写した。
横浜外国人墓地資料館
横浜中区山手町96
毎週土・日 非公開でも墓地維持管理募金のために公開している¥200

エリアナ・パブロワ

外人墓地資料館
横浜外人墓地にエリアナ・パブロワの墓がある

山手十番館ではプリンアラモードを食べる。
*馬車道にも馬車道十番館があります。(過去の写真)
12月16日・17日ホテルは馬車道ルートイン泊でした。

馬車道ルートイン

馬車道十番館

中区馬車道十番館

馬車道十番館

外人墓地資料館

外国人墓地の説明

外人墓地資料館
横浜外人墓地にエリアナ・パブロワの墓がある

外人墓地1

外人墓地2

大佛次郎記念館

大佛次郎記念館

おさらぎじろう
大佛次朗記念館

2023年1月24日

「ちいさい隅」の四季の本を仙台メディアテークの図書館で借りた。

大佛次郎のエッセー

1958年〜72年 「ちいさい隅」を神奈川新聞に連載。

覚え書き

1931年 横浜ホテルニューグランドに仕事場を置く。

小説「霧笛」を東京・大阪毎日新聞に連載1933年。

1948年「帰郷」を毎日新聞に連載。昭和25年同作で芸術院賞受賞、英訳され六カ国語に翻訳され出版される。

1961年 夫婦でヨーロッパ旅行。フランスではパリ、コミューン関係の資料を収集。「パリ燃ゆ」を朝日ジャーナル、世界に連載。

1978年(昭和53年)横浜市の港の見える丘公園に大佛次郎記念館が開館。

 

大佛次郎記念館にある猫の像

ティールーム霧笛にいる猫像

霧笛橋

魔笛橋

霧笛橋を渡ると文学館があります。

神奈川近代文学館

神奈川文学館

神奈川文学館

文学の森へ

中島淳の世界にも触れてみたい。

中島敦
「山月記」

汐汲坂 横浜市中区元町

文豪の聖地

山手十番館

山手十番館
2022年12月18日に尋ねる

店内

山手十番館

山手十番館

山手十番館

プリンアラモード

2022年12月山手西洋館

ベーリック・ホール

ベーリック・ホール

ベーリックホール
フランスのクリスマス

子ども部屋

エリマン邸

山手エリマン邸横浜在住中に写した写真

 

スイスのクリスマス エリスマン邸2022年12月撮影

エリマン邸
スイスのクリスマス2022年12月撮影

エリスマン邸2022年12月撮影

山手234番館

山手234番館

暖炉が暖かそうー2022年12月撮影

クリスマスツリーが可愛い2022年12月撮影

霧笛楼

霧笛楼

横浜元町霧笛楼
1981年に横浜元町に開業したフレンチレストラン

 

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