しらとり 2023年
渡邉順子
御書の一節
「輪陀王という大王は、この声(白鳥の鳴く声)を聞かされて、色つやは太陽のように輝き、肌は月のように鮮やかに、力は大力の那羅延のように強く、智謀、知恵は梵天王のように豊かになった」
渡邉順子
若山牧水の短歌
「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」
第1章 序曲
マイヤ・ミハイロヴナ・プリセツカヤさんの出会い
2023年1月仙台
2018年に主人と仙台に帰って来てから、やっと広瀬川に行き、寒い中、白鳥の写真を撮った。小さい頃、八幡町の広瀬川にも白鳥は来ていた。しかし、仙台のニュースでは最近、宮沢橋の近所に白鳥が飛来する様になったと言っている。
長い事、仙台を離れ暮らしていたから、昔と今は違っている部分もある様に思う。
一体、今まで何をしていたかと言うと、踊っていた。
何故 踊っていたかと言うと「感動したから」「心を打たれたから」と言えばいいのかなー。
納得いかない。もっと上手くなりたいと言う願望もあったのから、踊っていた。
私はプリセツカヤの踊る「瀕死の白鳥」を見て感動した。
「瀕死の白鳥」を踊りたくなった。
だから、上手くなりたいと思ったから、踊っていた。
1976年 第1回世界バレエフェスティバル
バレエのF先生宅で初めてプリセツカヤの踊る「瀕死の白鳥」の映像を見た。
「第1回世界バレエフェスティバル」が開催されたのは私が10歳の時だった。
10歳の時にバレエの先生宅で第1回世界バレエフェスティバルを見るはずがない。だから高校生になってから見たのだと思う。
それに私は宮城県民会館でプリセツカヤの踊る「瀕死の白鳥」を見た。
舞台で花束も渡した。
Fバレエ研究所の発表会で「ドン・キホーテ」を踊ったのが1983年だから、プリセツカヤの「瀕死の白鳥」を見たのも1983年だと思う。
兎に角、「瀕死の白鳥」で有名なプリセツカヤさんの叔母さんに当たるメッセレル先生に1984年、盛岡で出会い。1985年に仙台でも講習会が行われ、1991年に私はミラノ・スカラ座に行き、メッセレル先生と息子さんのミハイルさんのレッスンを受けたり、2000年から「瀕死の白鳥」を横浜で10年踊ったりして、2018年に仙台に帰ってきた。
プリセツカヤさんの踊る「瀕死の白鳥」と出会った、
私の人生を大きなキンパスに絵を描くようにこの物語をかけたらいいなーと思っています。
1)順番としては1983年にマイヤ・ミハイロヴナ・プリセツカヤさんと出会う。
ロシアのバレエダンサーで20世紀最高のバレリーナと称されたバレリーナ。
1937年5月1日、プリセツカヤの父がスパイ容疑で逮捕され銃殺される。翌1938年3月に母のラリヒ(メッセレル先生の姉)が無実の罪で逮捕、プリズンに連行される。郵便局でメッセレル先生が受け取った小さな手紙は新聞の切れ端で、カザフスタンの収容所からだった。メッセレル先生はカザフスタンの収容所を訪ねる。1941年にようやくプリセツカヤの母ラリヒは釈放される。
この話は私が1991年頃からメッセレル先生からお聞きして2000年頃、第14回新風舎出版ノンフィクション部門に公募。
2次を通過したが出版にはならなかった。
その頃から自費出版で本を出したいと思うようになった。
*姪のプリセツカヤ さんが書いた「闘う白鳥」にも同じ内容の文章は書かれている。
有名なプリマバレリーナであるプリセツカヤ が踊る「瀕死の白鳥」を仙台の宮城県民会館(現在は東京エレクトロホール宮城)で見、舞台で花束を渡した。「スパシーバー」(ありがとう)とロシア語で挨拶をした。日本のお辞儀で挨拶もした。
*小学生の頃から私は海外のバレエの公演があると花束を渡すお手伝いをしていました。
高校生の時にプリセツカヤ さんに花束を渡してたのです。
プリセツカヤさんに花束を渡し、袖幕に帰るとスタッフの方からプリセツカヤが「貴方のために踊る」と言ってもう一度アンコールに答えて「瀕死の白鳥」を踊りますから、袖幕で踊りを見て下さいと言う指示がでた。袖幕でプリセツカヤさんの「瀕死の白鳥」を見て、踊り終わってからプログラムにサインを頂いた。
私のバレエ人生が始まった。
一番、感動したのは映像で観た第1回、世界バレエフェスティバルで観た、プリセツカヤの「瀕死の白鳥」。
手が湖の波のように動いている。
その手の動きを舞台袖から見つめていた。
プリセツカヤさんにとって「瀕死の白鳥」を踊ると言うことは私の人生を踊ることを言っていた。
1925年11月20日ー2015年5月2日プリセツカヤ さんの人生は静かに止まった。
*尾本安代先生もアロンソ振付の「カルメン」を踊られているので多胡版「くるみ」のページに紹介しています。
マリシア・アロンソは第1回世界バレエフェスティバルに出演しています。
第1回の世界バレエフェスティバルに出演したマイヤ・プリセツカヤ。マーゴ・フォンティン。アリシア・アロンソ。カルラ・フラッチなどなど世界のトップスターが東京に集結した夢の共演で多くの人々を魅了した、
花束を持っているのが私で右が尾本安代先生
谷桃子バレエ団 所属 尾本安代
私自身が踊った「カルメン」
渡邉順子 バレエ歴
1974年仙台で 8歳の時にバレエを学び始めた。
近所のお友達と一緒に一番町にあるカワイ楽器のスタジオでバレエを習う。
週に一回、金曜日の日だけのバレエ。
カワイ楽器のホールでバレエのレッスンをしていたけど、バーはなく、机がバーの変わりだった。そのうち、F先生が仙台の駅に近い専門学校を借りて土曜・日曜とレッスンをしていた。中学も高校生の頃も仙台駅にある専門学校がバレエの稽古場。
小さい時だったからあまり記憶はないけど、F先生は東京の谷桃子バレエ団に行きレッスンを受けているとおっしゃっていた。
月に1回程度、仙台から東京まで通っていたと言う話だった。
私もいつか、東京のバレエの先生に会って見たいなーと思ったのでした。
8歳からバレエを習い初め、小学校6年生の時に「眠りの森の美女」のシンデレラ役で初めて男性と踊りました(パドドゥ)。中学校生になると宮城県芸術祭「レ・パティヌール」(スケートをする人々)で初めての主役を踊りました。その後、高校生になってから日本バレエ協会、東北支部の委員長、元谷桃子バレエ団員だった、黒澤智子先生と出会いました。
盛岡の黒澤智子先生
東京で主役を踊る時には黒澤先生のスタジオに行き「ルスランとリュドミラ」の練習をしたのです。
1984年(18歳)にメッセレル先生の講習会を受けに行き、東京の谷バレエ団でレッスンを受けたいと言う話になった時は盛岡の黒澤先生のスタジオで桃子先生ともお会いすることができたのでした。
1986年3月「ルスランとリュドミラ」の出演を踊り終わると、盛岡の黒沢智子先生の生徒さんだった力丸純奈さんが海外から一時帰国し「リゼット」の公演を行うことになりました。谷桃子先生が振り付け、指導するため5月に黒沢智子先生のスタジオを訪れたのです。
力丸純奈さん
1980年 ローザンヌ国際コンクール振付賞
1982年 NHKバレエの夕べ テレビに少女役で出演。ジャクソン世界バレエコンクール ファイナリストとな。文化庁派遣在外研修員としてスイス・フランス・ドイツに留学
1991年スイス サンガレン市立劇場バレエカンパニーのプリンシバルとして再契約
*現在は日本でバレエスタジオを開設し、バレエの先生になられています。
「リゼット」の第2幕のワルツの振付けに私も参加させて頂きました。私は谷桃子バレエ団の「リゼット」という作品を全く知らなかったのですが、谷桃子先生が椅子に座って「リゼットがねー」とおっしゃった瞬間「リゼット」が少し分かったような気持ちになったのです。
谷桃子バレエ団の「リゼット」はS .メッセレル先生が振付した作品です。
1962年 谷桃子バレエ団 日本初演「リゼット」
日本にロシア・バレエを伝えたスラミフ・メッセレル、アレクセイ・ワルラーモフ直伝のゴルスキー版を基に、1962年主人公の名前をとって「リゼット」のタイトルで日本全幕初演。
*1960年、谷桃子先生がチャイコフスキー・バレエ学校に入学し、スラミフィ・メッセレル先生、バルラーモフ先生の指導を受けたのち、1962年11月1日・2日に東京文化会館で日本初演を飾る。
リゼット 谷桃子
コーラ 内田道生 小林功
ニケーズ 小林恭
2020年1月19日 70周年記念作品・LISETTE を観に上野文化会館に行く。
リゼット 斎藤耀
コーラ 牧村直紀
マルセリーヌ 岩上純
ミッショー 赤城圭
ニケーズ 中村慶潤
*世界バレエフェスティバルで「リーズの結婚」のパドドゥは見たことがありました。
虹の彼方より
*我が街仙台にリンクを貼りました。
*仙台の祭りにもリンクを貼りました。
渡邉順子(岩渕)バレエ経歴
1966年生まれ
1974年 8才から仙台でバレエを習う
初舞台は1975年、F先生が振付した創作バレエ第5回発表会「青い鳥」。お砂糖の精が初デビュー
1977年 第6回発表会は「くるみ割り人形」雪のソリストとあし笛の踊りに出演する。
宮城県芸術祭では昼の部「くるみ割り人形」からあし笛の踊る。夜は「ライモンダ」のパドシス
1978年 第7回発表会「コッペリア」パドシス 京谷幸雄振付 *東京バレエ団。溝下四郎がゲスト出演する。
1978年 宮城県芸術祭「ジゼル」第2幕 コールド・バレエに出演。
1979年 第8回発表会「眠れる森の美女」シンデレラのパドドゥ
1980年 第9回発表会で「白鳥の湖」全幕で白鳥の二羽(ソリスト)を踊る。*東京バレエ団。溝下四郎がゲスト出演。
1982年 日本バレエ協会 東北支部 「バレエの夕べ」レ・シルフィードに出演。郵便貯金ホール
東京に行き谷桃子バレエ団・研究所で中等科のレッスンを受ける。
1983年 第10回発表会「くるみ割り人形」全幕で雪の女王を踊る。
1984年 第11回発表会「ドン・キホーテ」全幕 踊り子を踊る。
盛岡の黒澤智子バレエ研究所 s・メッセレル先生の講習会に参加する。
1985年 第12回発表会「コッペリア」全幕 第2幕のスワニルダを踊る
1985年 宮城県芸術祭「コッペリア」全幕でパドシス。
1985年 日本バレエ協会 東北支部「バレエの夕べ」雪のあしたに出演する。郵便貯金ホール
*現在はメルパルク東京
1985年 仙台でs・メッセレル先生の講習会が開催される。
仙台の講習会でスラミフィ先生から「アルファベットがすべて覚えられなければ単語は書けない」
バレエの基礎の大切さを教えて頂きました。
メッセレル先生から「フレスコ」・「ルスランとリュドミラ」・「瀕死の白鳥」の振付を学ぶ
メッセレル先生が姪のプリセツカヤさんに「瀕死の白鳥」を振り付けしたのは1941年のことだった。
葉書にロシア語で書いて頂いた。↓
1986年 日本バレエ協会 東北支部「バレエの夕べ」ルスランとリュドミラより「ラトミールのまぼろし」、郵便貯金ホール*メルバルク東京
上京、谷桃子バレエ団の研究生になる。(8ヶ月)
1986年8月から東京都目黒区中根町で1人暮らしを始める。谷桃子バレエ団・研究所の生徒になり、初等科・中等科でレッスンを受け1987年5月に帰郷する。
1987年から宮城県 大河原にて太田厚のアトリエでバレリーナモデル、仙台のカルチャースクールで絵もモデルを務める。
「瀕死の白鳥」を踊るまでの経緯
1、1983年にマイヤ・ミハイロヴナ・プリセツカヤさんと出会う。
ロシアのバレエダンサーで20世紀最高のバレリーナと称されたバレリーナ。
その有名なバレリーナが踊る「瀕死の白鳥」を仙台の宮城県民会館(現在は東京エレクトロホール宮城)で見、舞台で花束を渡し、「スパシーバー」(ありがとう)とロシア語で挨拶をした。日本のお辞儀で挨拶もした。
プリセツカヤさんに花束を渡し、袖幕に帰るとスタッフの方からプリセツカヤが「貴方のために踊る」と言ってもう一度アンコールに答えて「瀕死の白鳥」を踊りますから、袖幕で踊りを見て下さいと言う指示がでた。袖幕でプリセツカヤさんの「瀕死の白鳥」を見て、踊り終わってからプログラムにサインを頂いた。
2、1984年8月27日盛岡の黒澤智子バレエスタジオの講習会で始めて スラミフィ・メッセレル先生に出会う。
メッセレル先生、76歳のお誕生日の日。
1985年、仙台でスラミフィ・メッセレル先生の講習会が行われる。「瀕死の白鳥」・「ルスランとリュドミラ」・「フレスコ」の振り付けを学ぶ。
1991年にイタリア、ミラノ・スカラ座バレエ団でメッセレル先生のレッスンを受け、谷桃子先生から指導を受け、仙台で「瀕死の白鳥」を踊る。
1992年に谷桃子バレエ団・研究所に戻りバレエ団の舞台に立つ。結婚、出産、子育。
2000年〜横浜で「瀕死の白鳥」を10年踊る。
1991年「瀕死の白鳥」
谷桃子先生から「瀕死の白鳥」を学んだ時は、あまり強く言われなかったが、2000年に「瀕死の白鳥」を踊る時には「きちんと息を止めて踊りなさい」という指導を頂き踊った。
1991年頃の指導では「私より先に死ぬな」、「年功序列」と谷先生に言われ、最後の場面ではいつも手首をひねる程度で、先生の目の前で息を止めることはなかった。
1991年の「瀕死の白鳥」のリハーサルでは真剣な部分もあったが「死」に対しては、まだこれから学ぶものという未来があり、谷先生自身もいつかは訪れる死であっても「今は順子ちゃんに教えていると楽しいわ~」という雰囲気の中でのリハーサルだった。但し、「まっとうして死ぬ」という言葉になると、まるで谷先生自身に言い聞かせているかのように真剣になられた。
仙台から上京し、谷桃子バレエ団・研究所に学び始めた私の心には「諦めが肝心」という答えが先に出ていて、自分自身の心に負けていた。8ヶ月間の東京暮らしを終え帰省した私は、絵のモデルをしながら、絵を描き、気持ちの整理をしていた。谷桃子先生からは「お元気になられたら、何時でも谷桃子バレエ研究所にいらして下さい。あせらずに…ね」というお手紙を頂戴した。そして1986年に谷桃子バレエ団・研究所で学んでから5年の歳月を経て、ついに、やっと谷桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導を受けることができた。
谷桃子バレエ団・研究所の初等科・中等科のレッスンを受けている私が、谷桃子先生のレッスンを受け、直接指導をうける日なんて来ない、諦めが肝心だわ、私は思っていた。私はたぶん谷先生に「東京へは遊びに来ただけです。」と話し仙台に帰ったように思う。
大きな夢が破れた気持ちだった。8歳からバレエを始めた私は、谷桃子先生の写真を眺めながら、いつか谷桃子バレエ団に入って公演に出演するのが夢だった。日本バレエ協会の東北支部の主役だって踊れたし、次の夢は谷桃子バレエ団の団員になること。だが、東京暮らしを始めた途端、その夢を現実にするのは到底無理な話だと逃げ出したのだ(笑)。でもこの無理を何とか可能にすることができた。
仙台の橘バレエ学校とメッセレル先生が仕事をしているミラノ・スカラ座バレエ団でレッスンを受け、憧れの谷桃子先生の直接指導を勝ち取ったのだ。私はまっとうして「瀕死の白鳥」を踊れるようになった。
谷桃子先生に「瀕死の白鳥」の指導を受ける1991
「瀕死の白鳥」リハーサル
1992年 谷桃子バレエ団・研究所に戻り「くるみ割り人形」出演。
平成4 年(1992年) 10月26日から「くるみ割り人形」のリハーサルが始まる
11月15日わらび市「くるみ割り人形」に出演(会館主催)
11月16日えびな市「くるみ割り人形」に出演(学校公演)
11月18日新春公演「ドン・キホーテ」のリハーサルが始まる
12月3日「くるみ割り人形」のリハーサル始まる
12月13日小川町で「くるみ割り人形」に出演(会館主催)
平成5年(1993年)1月8日川口総合文化センター「ドン・キホーテ」出演
9・10日簡易保険ホール「ドン・キホーテ」出演
7月18日 「くるみ割り人形」ハイライツ ニューフィル千葉定期公演
8月5・6日第33回生徒発表会 白鳥の湖 第3幕に出演 高等科
結婚しバレエの先生になる。
小さい頃に学んだバレエ研究所の発表会の写真
1979年
バレエを習い初めて4年目で「眠りの森の美女」の作品でシンデレラのパドドゥを踊り、宮城県芸術祭の昼の部で主役を踊る。
くるみ割り人形 全幕 雪の女王 1983年
1984年
1985年
親戚や親も娘が主役を踊り、満足したのか。私のバレエの習いことはここで終了する。中学時代は図書委員になり、ごく普通の学生生活をしていた。バレエのF先生から人数が足りないからと連絡があり「ジゼル」のコールド・バレエのお手伝いをした事があった。私のバレエ人生でも少しはバレエ作品「ジゼル」に関われた事はバレエを学んできた私にとっていい思い出になっています。
結婚してバレエの先生になってから、第2幕のジゼルのソロを踊りました。
中学時代に親戚と東京見物に行く。そこで映像ではなく、本物の世界バレエフェスティバルを初めて見たのです。
第3回世界バレエフェスティバルを見たと言う事です。
ちょっといいたくないけど、バレエと言う習い事はお金がかかります。
1980年 第9回発表会で「白鳥の湖」の全幕もにも出演しました。兎に角、バレエはお金がかかり過ぎると両親が起こり出し、一度はバレエを辞めたのです。*「白鳥の湖」は主役ではなく二羽の白鳥を踊ることになり、出演しました。主役の出演料が高いと言う事だと思います。
*1983年 第10回発表会「くるみ割り人形」全幕で雪の女王を踊りましたが、高校生になり、夏にアルバイトをして出演料を払いました。
小さい頃から発表会と宮城県芸術祭に出演していた。高校時代からは日本バレエ協会東北支部の会員にF先生がなられ、全国合同バレエの夕べや日本バレエ協会の講習会などにも参加した。
東京から男性のバレエの先生がいらしていた。牧バレエ団の京谷先生が振付を担当していたので、発表会の日には3~5人ぐらいの男性舞踊手が発表会の舞台を手伝い、華やかな舞台に仕上げ、評判のいい発表会を毎年、開催していた。
床とバーがあるスタジオは先生の自宅で高校生の頃はよく先生の自宅でレッスンをして夕飯も食べて帰るようになった。だからバレエのビデオも見せてもらえるようになった。但し、私は演劇部に入部し、演劇コンクールに出ていたから、あまりバレエには夢中になれなかった。
多分、両親に心配をかけたくなかったのだと思う。「バレエはお金がかかり過ぎる」と言い出すようになったからだった。
私がバレエを始めた頃の両親はとても嬉しそうだった。小さい頃から男性と踊れる娘が自慢の両親だった。但し、段々金額が高くなり、高校時代に日本バレエ協会で東京の舞台にたった時など両親は経済的に本当に大変だったと思う。
高校を卒業してからは会社員になりバレエ研究所の助手としてバレエのアルバイトをしながら会社で仕事をするようになった。日本バレエ協会の舞台に出演する事や東北支部の先生方とも顔見知りになれるようになった。
1982年
順子 16歳
日本バレエ協会 東北支部 「バレエの夕べ」レ・シルフィードに出演。写真一番右ハシが私
初めて 東京に行き谷桃子バレエ団・研究所で中等科のレッスンを受ける。
1985年
日本バレエ協会 東北支部「バレエの夕べ」雪のあしたに出演する。右から三番目が私
1986年
日本バレエ協会 東北支部「バレエの夕べ」ルスランとリュドミラより ラトミールのまぼろし で主役を務める。
1980年4月に東京バレエ団で初演した「ルスランとリュドミラ」の第3幕 ラトミールのまぼろし をスラミフィ・メッセレル先生が復元しました。(振付:ロスチスラーフ・ザハーロフ。復元 スラミフィ・メッセレル)
1980年4月29日・5月1日
東京文化会館
チャイコフスキー記念東京バレエ団公演
1「ルスランとリュドミラ」よりラトミールのまぼろし
2「せむしの仔馬」よりフレスコ
3タムタム
この公演はNHKで放送され、放送されたTVをビデオにダビングし、ビデオを観ながら私たちは振付を覚え、練習に励んだのです。
ラトミールのまぼろしのプリマバレリーナを踊ったのが友田優子先生。
*東京バレエ団 東京バレエ団のプログラムより
「フレスコ」
スラミフィ・メッセレル先生が日本に紹介したバレエ作品
1969年パキータ
東京バレエ団
1969年ショパニアーナ (レ・シルフィード)
東京バレエ 団
1979年 フレスコ
東京バレエ 団
1980年
「ルスランとリュドミラ」
振付:ロスチスラーフ・ザハーロフ。復元 スラミフィ・メッセレル
「海と真珠」
東京バレエ団の「海と真珠」メッセレル先生振り付けで復元。
振付:アレクサンドル・ゴールスキー
音楽:リッカルド・ドリゴ
「春の水」・「白鳥の湖」・「海賊」パドドゥのみ。「ライモンダ」よりグラン・パ・ド・ドゥ。
「バレエ 学校」「コッペリア」
*東京バレエ 学校時代は「くるみ割り人形」「まりも」。
*谷桃子バレエ団にもバレエ作品を紹介しています。
バレエ 作品「フレスコ」について
フレスコ画から飛び出した、4人のバレリーナが踊りたちが、1人1人、踊るソロと、コーダーで全員で踊りフレスコ画の中に戻ると言ったバレエ作品。
東京バレエ 団はモスクワ公演でも踊り、私自身はメッセレル先生が復元したバレエ 作品の中で1番好きだったのがフレスコというバレエ作品でした。
*イギリスで行われた「スラミフィ・メッセレルの生誕75周年記念ガラ公演」でも東京バレエ 団が「フレスコ」を踊った。記念すべき作品。
1978年に私は東京バレエ団の「かぐや姫」のバレエ公演を宮城県民会館で見ていました。
主役のかぐや姫を踊ったのが友田優子先生。
かぐや姫
振付:アレクセイ・ワルラーモフ
音楽:ミハイル・メェローヴィチ
装置・衣裳:ニコラ・ベノワ
1985年にラトミールのまぼろしの主役を踊る友田優子さんのビデオを見ながら練習に励み、1986年に日本バレエ協会東北支部で「ルスランとリュドミラ」よりラトミールのまぼろしの主役を私は踊りました。
結婚し、出産、バレエの先生になってからなんと25年ぶりの2011年、ラトミールのまぼろしよりリュドミラのヴァリエーションを踊ったのです。
*2011年3・11 東日本大震災があった年に1985 年に日本バレエ協会東北支部で踊った「ルスランとリュドミラ」よりリュドミラのヴァリエーションを踊りました。
2022年ブルーの鎌倉にも書いています。
*横浜で「瀕死の白鳥」を10年踊っている間に横浜チャコットのオープンクラスで元東京バレエ団の富田三佳子先生2006年〜2015年まで。
*友田優子先生2007年〜クラスレッスンを受けるようになっていました。
2010年にカナザワバレエフェスティバルで「瀕死の白鳥」
「瀕死の白鳥」渡邉順子
評論家 藤井修治
自作自演の「瀕死の白鳥」とは言うものの百年以上前の原作に近く、奇を衒わず品よく踊った。近年多くのバレリーナが生への執着を濃厚に見せるのに対し、これが本来の姿かもしれない。
2011年にダンスカナガワフェスティバルで「ルスランとリュドミ」よりリュドミラのヴァリエーションを踊ったのです。
2011年・2012年に多胡版「くるみ割り人形」に出演
多胡寿伯子先生、師事
*ブルーな鎌倉に詳しく書いています。
*多胡版「くるみ割り人形」にも詳しく書いています。
ダンスカナガワフェスティバルでも多胡先生の指導で白鳥の湖より「ルースカヤ」・くるみ割り人形より「アラビアの踊り」を踊る。くるみ割り人形のアラビアの踊りの音楽は多胡版「くるみ割り人形」の曲を使用する。
2012年 白鳥の湖より「ルースカヤ」 (谷桃子バレエ団版)
2013年 くるみ割り人形より「アラビアの踊り」(多胡版 くるみ割り人形 音楽使用)
2014年 バレエ 藤娘 日本舞踊 花柳徳蓮先生指導
2015年 カルメン 多胡寿伯子先生 指導
2013年 ヨコハマコンペティション 「さくらさくら」(お琴CD使用)
2014年 ヨコハマコンペティション 「鷺娘」(フルート奏者吉川久子CD)
2015年 ヨコハマコンペティション「天空の夜明け」(ピアノ 藤木明美CD)
私のバレエ人生は寄り道をしながらも真っ直ぐに進んでいるようにも思えました。
*多胡先生のスタジオの発表会にも最後に出演した。
*金沢文化芸術祭にも出演しました。
第1回 2010年11月「湘南太平記」
第2回 2011年11月「母の舞」お琴との共演
第3回 2012年11月「母の舞」お琴との共演
2013年から2016年までは「さくらさくら」・「バレエ藤娘」「バレエ鷺娘」など日本舞踊の指導を受けて踊る。
2017年に「生きても歓喜・死んでも歓喜」を踊る
第2章 世界バレエフェスティバル
1976年 第1回世界バレエフェスティバル
世界的にも異例といわれた豪華なプログラム。
マイヤ・プリセツカヤ、マーゴ・フォンテイン、アリシア・アロンソという世界三大バレリーナが同じ舞台に立つ前代未聞の華やかさで、多くの人々を魅了した舞台。
東京文化会館
1976年5月1日
「バヤデール」グラン・パ・ド・ドゥ | チェルカスキー・ブフォネス | |
「ジゼル」第2幕パ・ド・ドゥ | エフドキモワ・エスキバル | |
「海賊」グラン・パ・ド・ドゥ | スンボー・バール | |
「ドン・キホーテ」グラン・パ・ド・ドゥ | サビロワ・ブルファーノフ | |
「瀕死の白鳥」(アンコール) | プリセツカヤ | |
「ロメオとジュリエット」ベルリオーズのパ・ド・ドゥ | マーゴフォンテーン・ネイギー | |
「エフゲニーオネーギン」よりパ・ド・ドゥ | ベルトン・パモス | |
「海と真珠」パ・ド・ドゥ | 友田優子・弘子・北原秀晃 | |
「瀕死の白鳥」 | プリセツカヤ | |
「ラ・シルフィード」グラン・パ・ド・ドゥ | カルラフラッチ・ポルトルッツィ | |
「白鳥の湖」第2幕パ・ド・ドゥ | アロンソ・エスキバル |
この第1回世界バレエフェスティバルのハイライト映像がTVで放送され、私たちはバレエの先生宅でダビングされた映像を見たのだと思う。
中学生の時に東京で見た世界バレエフェスティバルのプロブラムを調べてみる。
第2回世界バレエフェスティバルは上野文化会館でローラン・プティやモーリス・ベジャールの作品を日本で見始められるようになった。バレエフェスティバルは「バレエの祭典」。観客がこの大イベントにたくさんのバレエファンがつき、今もやはり世界バレエフェスティバルは人気のバレエ公演です。
*北原秀晃・友田優子・友田弘子の踊った「海と真珠」のバレエ作品も日本のバレエ界では必ず発表会で踊る演目になるほど人気のバレエ作品になった。
第2回で「じゃじゃ馬ならし」というバレエ作品もプログラムに入っている。「じゃじゃ馬ならし」はとても面白い作品で私は好き。しかし、見たのは第3回バレエフェスティバルだと分かった。
*ローラン・プティ作品「失われた時を求めて」は第4回世界バレエフェスティバルのプロブラムにあった。
1982年第3回世界バレエフェスティバル、7月28日のBプロを東京の五反田で見た。
ジョルジュ・ドンのアダージュトを見、マルシア・ハイデとリチャード・クラガンの踊る「じゃじゃ馬ならし」を見た。
仙台の電力ホールで映像で観た事はあったが舞台で見る方が迫力があった。
2023年 2月26日 仙台メデアテークで世界バレエフェスティバルの本を借りてきた。アダージュトのDVDも仙台メデアテークにあったので借りてきた。最近バレエのDVDを見る日が多くなった。
世界バレエフェスティバルのHP
2024年も世界バレエフェスティバルは開催されます。
https://www.nbs.or.jp/stages/2024/wbf/
世界バレエフェスティバルを説明するための資料になるDVD
おすすめのDVD
*お茶とおにぎり(映画鑑賞日記)のページもあります。
世界バレエフェスティバルで踊った映像が観られるDVD「永遠のジョルジュ・ドン」
大切の私の宝物DVD
■出演
ジョルジュ・ドン
モーリス・ベジャール
マリシア・ハイデ
マイヤ・プリセツカヤ
リン・チャールズ
パトリック・デュポン
ほか
■収録作品
『アダージェット』 1990
『ジークフリートの死』 1985(第4回世界バレエフェスティバルより)
『わが夢の都ウィーン 』より 美しく青きドナウ 1985
DVD
『コンクール』より 1985
『ブリュッセルの20世紀』 バレエ団スタジオにて 1986
『マルロー、あるいは神々の変貌』より 1988
『マリオネットの生と死』より 1988
『デス・フォー・ライフ 』より 1991(第6回世界バレエフェスティバルより)
『瀕死の白鳥』 1985(第4回世界バレエフェスティバルより)
『そしてワルツ』 1988
『ボレロ』 1982(第3回世界バレエフェスティバルより)
ジョルジュ・ドン:
1947年2月28日、アルゼンチンのブエノスアイレス生まれ。
テアトル・コロン附属バレエ学校で学び、幼少のころから舞台に立った。
63年、二十世紀バレエ団の初の南米公演を見て衝撃を受け、バレエ団に入団するため、単身ベルギーに渡った。
入団を許された後は、『ロミオとジュリエット』『ニジンスキー・神の道化』『我々のファウスト』『愛が私に語りかけるもの』など、重要なベジャール作品のほとんどに出演。
ベジャール芸術の表現者として重要な役割を果たしつづけ、活躍した。
1992年11月30日、スイスのローザンヌで死去。
東京バレエ団
創立は1964年。レパートリーは、古典の全幕作品をはじめ、ベジャール、キリアン、ノイマイヤーという現代を代表するコリオグラファーの作品にいたるまで、幅広い。
パリ・オペラ座、ミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場、英国ロイヤル・オペラハウス、ボリショイ劇場、ベルリン・ドイツ・オペラなどの有名劇場を含む世界各国の海外公演は、のべ88カ国、627回を誇るインターナショナルなバレエ団。
映画「アダージュト」
世界バレエフェスティバルに森下洋子さんは出演されていませんがベジャールが森下洋子さんのために振付した「ライト」と言うバレエ作品はジュルジュ・ドンと踊りますがとても美しい作品です。永遠に光り輝く森下さんの美しさに感動しました。
アダージュト
-
- 監督:フランソワ・レシャンバック
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- 出演者:モーリス・ベジャール
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- 出演者:ジョルジュ・ドン
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- 出演者:森下洋子
2007年11月22日に他界した振付家 モーリス・ベジャールの遺作のDVD「80分間世界一周」
「北極」ペンギンの着ぐるみを着てダンサーたちが登場するシーンはちょっと心が和む。
「ヴェネツィア」恋する兵士の踊りをDVDで見られて良かった。多分「恋する兵士」を舞台で私は見ていた。
女性も男性も美しい。
*ベジャール・バレエ・ローザンヌ芸術監督 ジル・ロマン
英国ロイヤルの夕べ
マーゴ・フォンテイン、ルドルフ・ヌレエフ
DVD制作総指揮:サー・デヴィッド・ウェブスター
バレエ監督:ニネット・ド・ヴァロワ
最高振付師:フレデリック・アシュトン
指揮:ジョン・ランチベリー
演奏:コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団
撮影協力:コヴェントガーデン王立歌劇場、British Home Entertainment Ltd.
製作年:1963年
製作国:イギリス
【収録内容】
◆「レ・シルフィード」
振付:ミハイル・フォーキン/音楽:フレデリック・ショパン
出演:マーゴ・フォンテイン、ルドルフ・ヌレエフ、英国ロイヤル・バレエ団
◆「海賊」のパ・ド・ドゥ
振付:ルドルフ・ヌレエフ/音楽:リッカルド・ドリゴ
出演:マーゴ・フォンテイン、ルドルフ・ヌレエフ
◆「ラ・ヴァルス」
振付:フレデリック・アシュトン/音楽:モーリス・ラヴェル
出演:英国ロイヤル・バレエ団
*この作品をとても観たかったので観られて良かった。
◆「オーロラの結婚式」(「眠れる森の美女」第3幕)
振付:ニコラス・セルゲイエフ/原振付:マリウス・プティパ/音楽:チャイコフスキー
出演:オーロラ姫:マーゴ・フォンテイン/デジレ王子:デヴィッド・ブレア
フロレスタン王子:グラハム・アッシャー
フロレスタン王子の2人の姉妹:メール・パーク、ジョージナ・パーキンソン
フロリナ王女:アントワネット・シブレー
青い鳥:ブライアン・ショウ
*マーゴ・フォンティンは第1回バレエフェスティバルに出演しています。
ウラジーミル・マラーホフ
<収録作品>
『白鳥の湖』(ブルーン版)より 黒鳥
出演:マーティヌ・レミー&オーウェン・モンタギュー
『ドン・キホーテ』 第3幕より
出演:ヴィヴィアナ・デュランテ&エロール・ピックフォード
『ラ・シルフィード』(ブルノンヴィル版)第2幕より
出演:オーゼ・ガッドゥ&ロイド・リギンズ
『眠れる森の美女』(マクミラン版)第3幕より
出演:ボニー・ムーア&ウェス・チャップマン
『四季』(振付:ケネス・マクミラン)
出演:ヴィヴィアナ・デュランテ&エロール・ピックフォード
『ロミオとジュリエット』より(マクミラン版)
出演:ボニー・ムーア&ウェス・チャップマン
『ブルー・スネイク』(振付:ロバート・デ・ロジエ)
出演:マーティヌ・レミー
『春の祭典』(振付:グレン・テトリー)
出演:オーウェン・モンタギュー
『葉は色あせて』(振付:アントニー・チューダー)
出演:オーゼ・ガッドゥ&ロイド・リギンズ
『白鳥の湖』第2幕より出演:ナタリア・マカロワ&ケヴィン・マッケンジー
パドドゥの花束DVD説明
1984年、アメリカ・ロサンゼルスで開かれた国際バレエフェスティバル。
NYCB、パリ・オペラ座バレエ、デンマーク・ロイヤル・バレエほか、世界中のバレエ団から精鋭が集い
『ドン・キホーテ』『海賊』『ゼンツァーノの花祭り』など、パ・ド・ドゥの名作をつぎつぎと踊ります。
日本からは松山バレエ団の森下洋子と清水哲太郎が参加し、観客の喝采を浴びています。
<収録作品>
『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』 出演:パトリシア・マクブライド&リード・オルソン
『ラ・シルフィード』 出演:ギレーヌ・テスマー&ミカエル・ドナール
『ゼンツァーノの花祭り』 出演:リンダ・ヒンドバーグ&アーネ・ヴィラムセン
『ドン・キホーテ』 出演:森下洋子&清水哲太郎
『海賊』 出演:マリエレーネ・メンシア&ヤニス・ピキェリス
『青い鳥』パ・ド・ドゥ(『眠れる森の美女』より) 出演:ナデジダ・ゾビーヌ&ルイス・アストルガ
『眠れる森の美女』第3幕よりグラン・パ・ド・ドゥ 出演:エレン・バウアー&ダミアン・ウォツェル
*パドドゥの花束のDVDの映像で『ラ・シルフィード』 を踊るギレーヌ・テスマーが出演している映画「バレエに生きる」パリ・オペラ座のDVDもオススメです。
世界バレエフェスティバルのミューズたち
プリセツカヤ
「瀕死の白鳥」
マーゴット・フォンテーン
「ロメオとジュリエット」
*とても古いDVDだけど大切にしている「ロミオとジュリエット」マーゴット・フォンティンとルドルフ・ヌレエフ
第1回世界バレエフェスティバルはマイヤ・プリセツカヤ、マーゴ・フォンテイン、カルラフラッチと言うバレリーナの踊りが観られてとても良かった。
*ミラノ・スカラ座 魅惑の神殿のDVDでもカルラ・フラッチの映像が見られます。
第2回世界バレエフェスティバルからはジョルジュ・ドン、ドミニク・カルフーニとデニス・ガニオ、モニク・ルディエールとマニュエル・ルグリ、ウラジーミル・マラーホフなどなど、素敵なパドドゥがたくさん観られるようになった。
ジュルジュ・ドン
第2回世界バレエフェスティバル
『レダ 』より 1979(第2回世界バレエフェスティバルより)
第3回世界バレフェスティバル
『ボレロ』 1982(第3回世界バレエフェスティバルより)
第4回世界バレエフェスティバル
『ジークフリートの死』 1985(第4回世界バレエフェスティバルより)
『瀕死の白鳥』 1985(第4回世界バレエフェスティバルより)ドンの踊る「瀕死の白鳥」も素敵でした。
第6回世界バレエフェスティバル
『デス・フォー・ライフ 』より 1991(第6回世界バレエフェスティバルより)
様々なドンの踊りが観れるDVDは今も大切な宝物のDVDです。
世界バレエフェスティバルでは様々なバレエ作品が見られる事が楽しみの一つでもなりました。
第5回世界バレエフェスティバルではベジャール作品「ライト」は森下洋子さんとジュルジュ・ドンが踊った映像を見ていますが、バレエフェスティバルではリン・チャールズとジル・ロマンが踊っている。
*仙台でハンブルグバレエ団公演を観た時にリン・チャールズの踊りを見て感動した。
Lynn Charles
(リン・チャールズ)
アメリカンバレエシアタースクール、スクールオブアメリカンバレエにて学ぶ。ヴァルナ国際コンクール銅賞。ジュネーヴバレエ、ハンブルクバレエ、20世紀バレエ団、ベジャール・バレエ・ローザンヌ、ローランプティ・バレエマルセイユなどで活躍。ジョン・ノイマイヤー、モーリス・ベジャールによって数多くの役がリンのために振付けられた。
世界バレエフェスティバルで観たドミニク・カルフーニとデニス・ガニオの「失われた時を求めて」ローラン・プティ振付の作品も感動した。
チャイコフスキーのパドドゥの作品を見るのも好きだった。
バレエ作品「ドン・キホーテ」
世界バレエフェスティバルのプログラムの最後には「ドンキホーテ」のバドドゥを踊ると観客が沸くと世界バレエフェスティバルの総監督をしていた佐々木忠次氏が「世界バレエフェスティバル写真集」の中に書いている。
様々なダンサーたちが世界バレエフェスティバルでドンキホーテの第3幕のパドドゥを踊った。
バレエ作品「椿姫」
ジョン・ノイマイヤ振付の「椿姫」も世界バレエフェスティバルで様々なダンサーたちが踊っている作品。
バレエ作品「マノン」
この作品も世界バレエフェスティバルで様々なダンサーが踊った。
バレエ作品「マノン」について
18世紀を代表する、運命とも言える激しい情熱を描いた恋愛小説を、ケネス・マクミランの振付により官能的にバレエ化された作品。(1982年作 品)
収録:1982年 コヴェント・ガーデン・ロイヤル・オペラ・ハウス
【キャスト】
マノン・・・ジェニファー・ペ ニー
デ・グリュー・・・アンソニー・ダウエル
レスコー・・・デヴィッド・ウォール
ムッ シューG.M.・・・デレク・レンチャー
ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団
指揮:アシュリー・ローレン ス
映像監督:コリン・ニアーズ
シルヴィギエム
世界バレエフェスティバルで観客を沸かせたバレリーナ
バレエフェスティバルインカナダのDVDで見た作品も世界バレエフェスティバルで様々なダンサーたちが踊っている。
『葉は色あせて』(振付:アントニー・チューダー)
『ラ・シルフィード』(ブルノンヴィル版)第2幕より
『ロミオとジュリエット』より(マクミラン版)
ウラジーミル・マラーホフも素敵なダンサーだった。
1994年・1997年・2000年に出演している。「ヴォヤージュ」(マラーホフ)と言う作品が印象に残っている。
世界バレエフェスティバルで、古典の貴公子からフォーサイス、チャーミングなコンテンポラリーまでキュートな魅力をしなやかに見せてファン急増中の、シュツットガルトのフリーデマン・フォーゲル。マラーホフがセミオノワに続いて紹介するベルリンの秘蔵の若手、躍動的なマルチン・クライエフスキーと、ベルリンではマラーホフの相手役も務めるコリーヌ・ヴェルデイユなど、フレッシュな若手たちも登場。
《マラーホフの贈り物》2004年に日本の東京文化会館で行われた。
ドミニク・カルフーニは世界バレエフェスティバルの本の中に「マニュエル・ルグリと「アルルの女」を踊る事ができました。とても美しい思い出として残っていると書いている。」
ドミニク・カルフーニのDVD紹介 プティ「マ・パブロヴァ」・「マチュー・ガニオ&カルフーニ」
アレッサンドラ・フェリの踊る「ロミオとジュリエット」
現代の最も優れた女優バレリーナの一人、アレッサンドラ・フェリ。
イタリア出身の彼女は、英国ロイヤル・バレエで19歳の時に『ロミオとジュリエット』の主役に抜擢された。ABTやミラノ・スカラ座などで踊り、世界でも数少ない“プリマ・バレリーナ・アッソルータ”の称号も持つ。2007年に44歳で引退。
離婚を経て50歳で2013年に舞台に復帰。50代で『ロミオとジュリエット』全幕に主演するという奇跡を見せた。
2021年 第16回 世界バレエフェスティバル
1994年の〈第7回世界バレエフェスティバル〉でマリシア・ハイデとジョン・ノイマイヤーが踊った伝説的な「椅子」を、2021年の今、アレッサンドラ・フェリとジル・ロマンが踊り、またひとつ〈世界バレエフェスティバル〉の歴史を刻む。
40年前、巨匠モーリス・ベジャールがワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』にのせて創作し自ら初演したバレエによる不条理劇「椅子」は、当時21歳のジル・ロマンを圧倒し感動させた。
〈第7回世界バレエフェスティバル〉でジョン・ノイマイヤーとマリシア・ハイデが踊って話題となった作品をジル・ロマンとアレッサンドラ・フェリが2021年に踊った。
世界バレエフェスティバルは見続けているファンがいるから続いているのだと思う。
1976年の第1回世界バレエフェスティバルから2021年の第16回世界バレエフェスティバルまでの長い歴史を振り返る時間がもてた事に感謝します。
3年に一度のバレエの祭典 世界バレエフェスティバルを今も楽しみにしています。
仙台でハンブルグバレエ団の公演を見たり、東京バレエ団とジュルジュ・ドンが共演する「ボレロ」を仙台で観たりしていた。
始めて仙台から新幹線に乗って世界バレエフェスティバルを観に行った事。
東京一人暮らしをしていた時にローランプティ公演を観にいけた事。
体調を壊し、仙台からバレエの公演を観に東京に出かけて行っていた日々、全てが懐かしい思い出です。
*2007年頃、バレエの先生になってから訪ねた民音音楽博物館
1999年から横浜市金沢区に住み、2002年に金沢区でバレエスクールを開設し、バレエの先生になりました。2007年頃、民音音楽博物館に訪ね「第1回 世界バレエフェスティバル」の写真を撮影していたカメラマンと知り合いになり、民音で撮影したバレエ公演の写真を見せて頂いたのです。
1976年の第1回公演の写真ですから、古い写真です。
世界バレエフェスティバルは3年に一度東京で開催される世界のバレエが集結する大イベント。
第1回の世界バレエフェスティバルに出演したマイヤ・プリセツカヤ。マーゴ・フォンティン。アリシア・アロンソ。カルラ・フラッチなどなど世界のトップスターが東京に集結した夢の共演で多くの人々を魅了した、当時の写真を拝見しました。
第3章 バレエ三昧の日々
20代の頃の私は8ヶ月間の東京暮らしを経験し、1987年頃から宮城県の太田厚先生のアトリエで絵を描いたり、絵のモデルをしたりとバレエからは離れた生活を送っていた。ある日、原稿用紙に向かい、自分が歩んできたバレエの道をノンフィクションで書き始めた。バレエを観に東京に行ったり、友達と旅行に出かけたり、スケッチ旅行に出かけたりしながら「ダンサーに憧れて」と言う題で原稿を書き同人誌のノンフィクション部門で入選した。受賞するにも2年間は毎日、原稿用紙に向かっていた。
6月 コスモス文学新人賞 現代詩部門「楽屋」で佳作を受賞する。
1995年メッセレル先生が東京バレエ団で10ヶ月ほど仕事をしていた。私は妊娠中は全く、バレエができない状態だったので原稿用紙に向かいメッセレル先生からお聞きしたスターリン時代のロシアについて書き綴っていた。本の出版まであと一歩だったがまた踊り始めてしまった。
結婚して出産、子育てをしている最中の1997年にメッセレル先生の勲章三等瑞宝章、受賞の祝いの会に出席しました。
スラミフィ・メッセレル先生について
1926年にボリショィ劇場に入団し、リーディング・ソリストとして1950年まで活躍した。1947年に「パリの炎」でスターリン賞を受賞。引退後はボリショィ劇場付属舞踊学校で教職に就いた。現役時代からバレエ学校で教えていた。日本のバレエ界でも貢献したバレエ教師。1996年に勲三等瑞宝章を受賞。1997年 勲章三等瑞宝章を祝う会が行われた(東京バレエ団主催)2000年大英帝国章を受賞。ボリショイ・バレエ学校を卒業後、1926年から25年間、ボリショイ・バレエ団のプリマ・バレリーナとして踊り、ボリショイ・バレエ学校の教師も務められた。息子と共に亡命という経験もされている。
1960年に来日、日本では東京バレエ学校が開設され、バレエ教師として招かれる。東京バレエ学校はのちにチャイコフスキー記念東京バレエ団となった。2004年6月3日に95歳で亡くなるまで、日本のバレエ界に多大な貢献をされた偉大なるバレエ教師。アメリカ・ロイヤルバレエ学校でも多くの日本人ダンサーを指導した。
*メッセレル先生はエリザベータ・ゲルトに師事。ゲルトの父はアンナ・パブロワを教えたバレエ教師。
アンナ・パブロワについて
ロシア革命の後、バレエ団を結成してインドや中国などを巡るアジアツアーを行っていたアンナ・パブロワは、1922年に日本で「瀕死の白鳥」を踊る
アンナ・パヴロワはロシアのサンクトペテルブルクに生まれました。9歳の時に母と初めてバレエの舞台「眠れる森の美女」を観劇したことがきっかけでバレリーナを志し、バレエ学校へ入学。その後クラシックバレエの基礎を築いたといわれているマリウス・プティパに認められ、1903年には改訂版『ジゼル』で成功を収めました。
1907年にはミシェル・フォーキン振付の『白鳥』を踊って話題となり、世界的有名バレリーナとして花を咲かせました。
1922年(大正11年)アンナパブロワが来日した。
日本公演は多くの文人も鑑賞しており、芥川龍之介は『露西亜舞踊の印象』で「僕は兎に角美しいものをみた」と賞賛している。
「瀕死の白鳥」は、アンナ・パブロワのために振付された、約2分ほどの作品です。傷を負った白鳥が、死の運命を持ちながらも息が絶えるまで生きるために必死にもがき苦しむ姿を描いた作品です。アンナ・パヴロワの、魂まで訴えかけるような名演と美しさは全ての観客を魅了し、彼女の名を不朽のものにしました。彼女の演技があまりにも素晴らしかったため、この作品は彼女の死後20年にわたって、その栄光を汚さぬよう誰も踊ることができませんでした。
アンナ・パブロワの日本公演 1922年(大正11年)
東京9月10日〜29日 帝国劇場
横浜9月30日〜10月3日 横浜劇場
名古屋10月4,5 日 末広座
大阪 10月6 日〜10日 角座
神戸 10月11日〜17日 衆楽座
京都 10月18日〜21日 南座
岡山10月23日 岡山劇場
広島10月24日 壽座
博多10月26、27日 大博劇場
門司10月28、29日 凱旋座
1931年に風邪をこじらせ肺炎になる。その後オランダのハーグで胸膜炎と診断され手術を勧められるも、手術をするとバレリーナとして再起不可能でることを告げられ、手術を拒否。闘病の末50歳でその人生に幕を閉じました。
佐々木忠次氏
女性の中に一人男性が写っています。その男性が世界の佐々木忠次氏です。オペラ・バレエ プロデューサーであり、公益財団法人日本舞台芸術振興会(NBS)/東京バレエ団代表の佐々木忠次(ささきただつぐ)は、目黒区の自宅で病気療養中のところ2016年4月30日未明、心不全のため死去いたしました。享年83歳。
1976年から3年に一度開催される「世界バレエフェスティバル」も佐々木忠次氏が総監督を努めていた。
*1997年 勲章三等瑞宝章を祝う会が行われた(東京バレエ団主催)の時の写真
*1995年にプリセツカヤさんの弟アザーリさんに会う。
1991年に仙台で「瀕死の白鳥」を踊り、2000年から横浜で10年「瀕死の白鳥」を踊り続けた。
瀕死の白鳥の歩み
2000年 4月鎌倉芸術劇場・5月横浜市イズミ公会堂
2001年 JUNバレエスクール開設・12月鎌倉芸術劇場・根岸駅前 ステッジョィホール
2002年 8月関内ホール・相模大野グリーンホール
2003年 白鳥の湖 相模大野グリーンホール
2004年 9月関内ホール・11月よこすか芸術劇場
2005年 6月八王子芸術劇場・11月関内ホール
2006年 9月関内ホール・10月よこすか芸術劇場
2007年 2月目黒パーシモンホール・4月神奈川県民ホール・8月宮城県民会館
2008年 4月神奈川県民ホール・10月テアトルフォンテ
2009年 10月テアトルフォン
2010年 6月神奈川県立音楽堂・
8月いわきアリオス・10月テアトルフォン
横浜で10年「瀕死の白鳥」を踊り続けて
谷先生の「瀕死の白鳥」とは違うかもしれないけれど、私は私なりの「瀕死の白鳥」をこれからも踊り続けていこう。私の「瀕死の白鳥」は「生きるも歓喜、死ぬも歓喜」という言葉がふさわしいものに変わって行ったと思う。最後に大勝利する「瀕死の白鳥」。未熟でも最後に大勝利できるよう頑張ろうと最後に舞ました。
どんなに大変でも立ち上がる勇気が必要、谷先生が「スパッ」と立ち上がったように、私自身も「スパッ」と立ち上がってみせたい。
2017年
「瀕死の白鳥」は最後に大勝利する作品。「生きるも歓喜 死ぬも歓喜」最後に生命の底力を見せる舞。「スパッ」の振り付けを少しアレンジして最後に入れた。。1991年の「瀕死の白鳥」から26年の歳月が過ぎ、踊り続けてこられたことへの感謝の舞。最後に生命の底力を見せる舞。
「天より四種の花ふり虚空に音楽聞こえ。諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや」御書を学び舞い踊りました。最後の生命の舞。
大空を飛ぶ鳥のように死の世界でも自由な世界が待っている、死を恐る事はない。
最後のシーン1
第4章 さくらさくら
2000年から横浜で10年「瀕死の白鳥」を踊り続け、2013年にヨコハマコンペティションで「さくらさくら」を踊ってから今年で10年になります。
最近「しらとり2023年」の原稿を書きながら本を出版したいと思うようになった。
*私のブログには「虹の彼方に」「ブルーな鎌倉」と言う原稿があり、その原稿を読み直しながら書いている部分がある。
自費出版の夢を叶えるため、原稿を書き続けている。
2004年にスラミィ・メッセレル先生は亡くなりましたが、生前、私が色々、メッセレル先生からお聞きした話を原稿に書いていたので、順子には私から野に咲く花の勲章を渡したいとおっしゃっていたことがありました。
私は野に咲く桜の勲章を頂くことに決めたのです。
2013年に「さくらさくら」の創作バレエを日本舞踊の先生と考え、モダンのコンクールで作品を発表しました。
あれから10年、やっと小さい頃から続けてきたバレエの事、メッセレル先生との思い出、自分自身の事を原稿にかけるようになってきました。
横浜市金沢区に住みバレエの先生になり、金沢区在住の一枚の繪の画家の新井先生の教室で絵のモデルをしたり、金沢文化芸術祭に出演することになり、金沢区在住のお琴の先生や日本舞踊の先生、詩吟の先生と出会うチャンスに恵まれ、私の踊る世界が大きく広がりました。日本舞踊の先生の指導を受け、バレエ藤娘、バレエ鷺娘と言った作品を生み出すことができたのです。
ダンスカナガワフェスティバルでも色々な先生方にお世話になりました。
2014年 ダンスカナガワフェスティバル バレエ藤娘
2014年 ヨコハマコンペティション 「鷺娘」
2015年〜2017年は詩吟コンサートに出演しました。
2018年に仙台に帰ってからは宮城県美術館で絵を描くようになったり、仙台メデアテークでバレエのDVDを見たり、様々な本を借りて読むようになりました。仙台メデアテークの2階にある東日本大震災の資料は震災後の3.11が近づく頃、眺めたりしています。
震災後には石巻、松島に足を運んでいます。東日本大震災のあった年は横浜に住んでいたため、TVで津波の映像を見るだけで、何もできない自分でしたが、仙台に帰ってからは少しつづ、被災地を訪ねながら、3.11を忘れないようにしています。メッセレル先生も1950年チリ地震。「仙台に大きな地震がきました」と教えて下さいました。私が中学生だった1978年にも震度5の地震がありました。その時はブロック塀が崩れ落ちたりする事故が発生したのです。私の家の隣が竹藪で父と弟、妹、私が逃げた場所は竹藪。竹の根っこが地に張っているので安全と父が言うので逃げました。我が家はプロパンガスだったのでお風呂にも入れましたが、市ガスは止まり、普及するのにも時間がかかったようでした。
2022年にも福島県沖地震が発生。宮城県と福島県で震度6強の地震で、阿武隈急行がしばらくの間、運休となりました。丸森町には行ったことがなかったので2022年は丸森町を訪ねました。地震で丸森町で有名な斎藤屋敷の蔵にも被害があり、入れない蔵もありました。
松島を訪ねた時に過去にあった津波というのが松島海岸に書かれていました。
2018年、仙台に帰ってから太田厚先生のアトリエのあった大河原には毎年、桜の花が咲く頃訪ねるようになりました。
私にとっては大切な思い出の場所。
2023年 「宮城の白鳥伝説を旅して」
仙台駅→北白川から歩いて大河原駅まで
4月1日大高山神社を訪ねる 山から降りて白石川の土手を歩き続けると白鳥到来の地がある。
2018年に撮った写真
2022年 大河原から船岡駅に向かって歩く
宮城県美術館で作りあげた「春の宵」フジコ・ヘミングの音楽を聴きながら
宮城の白鳥伝説
宮城県の蔵王町の刈田嶺神社は、祭神のヤマトタケルが死後に白鳥に生まれ変わったという白鳥伝説の広まりとともに、白鳥明神を祭って白鳥大明神という別号を持つようになり、信仰の中心地になった。
*ヤマトタケルの絵本やスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」のDVDなども見た。
*蔵王町の刈田嶺神社を訪ねてみたい。
私が学んだ「瀕死の白鳥」の振付の中に秘密めいた指導がある。「銃でころされた」という言葉。(実はロシア革命でプリセツカヤさんのお父さんは銃殺されました。プリセツカヤさんは父の死についてメッセレル先生は語るのではなく「瀕死の白鳥」を振り付ける事で死を教えたのです。「死ぬのも一瞬』メッセレル先生の指導の中に言われた言葉です。この言葉を理解し死について学びながら私は踊り続けました。
「瀕死の白鳥物語」より
2023年は宮城の白鳥伝説を旅する。
2023年の執筆活動
松尾芭蕉
宮沢賢治
宮沢賢治を学ぶ
2023年8月27日
宮沢 賢治(みやざわ けんじ、正字: 宮澤 賢治、1896年〈明治29年〉8月27日 – 1933年〈昭和8年〉9月21日)は、日本の詩人、童話作家。
2023年は宮沢賢治没90年にあたる年で、宮沢賢治を学ぶことにした。
2024年ポランの広場で学ぶ
3月、6月、9月と開催される。
6月 コスモス文学新人賞 現代詩部門「楽屋」で佳作を受賞する。
熊バレエの絵も描く予定にしています。
バレエイラストのページに更新予定です。
ガラスのバレリーナのモデルは谷桃子先生なので色々勉強してから描く予定です。
JUNの仙台自由時間2023年1月のページに谷先生について書いている文章があるので引用
谷桃子先生は
「美術家の岡鹿之助、奥村土牛、三岸節子、宮本三郎の絵のモデルなったバレリーナ」
日本のバレリーナに紹介されている文を引用します。
戦花の中の花一輪
「谷桃子が踊っていたことだけが、あの戦争中のショツクであり、味気ない時代の安らぎであった。
戦時中のくらい時代に、ドキドキするような歓喜と哀愁を味わった谷桃子の踊りと書かれています。
小磯良平 舞台美術1950年 「白鳥の湖」第2幕 ・1951年 「火の鳥」
岡鹿之助 岡先生の手紙記載されている。
岡画伯の手紙は日本の舞台史上の貴重な記録として残しておきたいと思いあえて綴った。
岡画伯は1925年ー1939年の長いパリ生活のあと、第二次大戦のため止むなく帰国。同じ、パリのアパートで互いに尊重し合う仲間であった阿部女史の進めならと谷桃子のオデットを見た。これが出会いであった。谷桃子と直接会い、自分の見たパリのバレエの話、また舞台の数々、寄席の芸人が一回一回に、いかに全霊を込めて演じているかなどを語るようになった。
「おそらく、白鳥湖の装置としては最上のものと思います。ことに第三幕は傑作。奥深さの効果。壁の色の美しさ。その壁の色と衣装との比較。衣装の色のグループ別の効果は狙う通りの効果を上げたように私も考へられます。ナポリターナは美しかったですね。
全体が優雅な色調に出来ておりましたし、構成に変化があって、海外の舞台をみている感じでした。ゴランランも成功。
第二幕の単色調と森の表現は私は賛成します。この場面は他の場面と違った一種の幻想をたたえてをりました。決してトッピなものではなく、意識しすぎたものなく、云はばごく自然を現れ方であるのに、この場面は確かに異様な雰囲気を作り出すのに成功しておりました。しかもこの表現は新しい。湖水に浮かぶ城は、二階席からでは半分しか見られないので、よくわかりませんでしたが、湖水のへりの岩(フィルムが良い)の表現など大いに賛成で、ひとりニヤニヤして眺めたことでした。確かに今後の舞台装置は全幕を通じて画家の意図するものが一本ギュと感知され、まことに結構なお仕事だったと喜んでをります。ご苦労の見事な結実と存じます。
お疲れでせう。充分なご加餐を念じ上げます。
1955年 11月13日
妹尾河童さんの舞台美術の絵
「バヤデルカ」・「ドン・キホーテ」・「リゼット」
奥村土牛
昭和31年秋に第41回院展に奥村土牛氏が描いた「踊り子」のモデルが谷桃子先生でした。谷桃子先生は画家の奥村土牛氏に絵のスケッチを頼まれた時、「一生の光栄」と奥村土牛氏のモデルを引き受けたと言う事です。谷先生のお母様は「お前が消えても絵は残る」とおっしゃったそうですが、今も山種美術館に谷先生がモデルになった「踊り子」の絵はあります。憧れの谷桃子先生の絵が今も光輝いている。
2023年〜
バレエ童話
ガラスのバレリーナを執筆中
2023年広瀬川の白鳥の写真を撮ることに夢中になっている。
愛する白鳥のページも読んで下さい。
渡邉順子
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