松尾芭蕉を探す小さな旅
*宮沢賢治のページにある北上文学にも松尾芭蕉を紹介しています。
松尾芭蕉 1644―1694 俳人
有名な句
「古池や蛙飛び込む水の音」
1689年に松尾芭蕉は曽良と共に「おくのほそ道」の旅に出る。
夏草や兵どもが夢の跡
(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)平泉 岩手県
高館に立って見てみると、あたりはただ夏草が生い茂っているだけ。ここは昔、義経以下の有志たちが功名を夢見て奮戦した場所であるが、それも夢と消えてしまった。目の前にぼうぼうと繁った夏草に、人生の興亡の姿を見る思いがする。
私は2018年から仙台暮らしを始め、まだ平泉には行ってない。
仙台生まれ、仙台育ちで結婚する前には一度訪ねたけれど、また行きたい平泉。
仙台暮らしは始め、松尾芭蕉も身近に感じるようになった。
仙台を出た松尾芭蕉と河合曽良は一路塩釜、松島へ。道中、多賀城の「壺碑(つぼのいしぶみ)」をはじめ歌枕や塩釜神社を巡り、船で松島に渡った。「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)冒頭で「松島の月先心にかゝりて」と記していた念願の地だ。曽良の「日記」によると、到着は1689(元禄2)年5月9日(陽暦6月25日)の昼ごろ。快晴だった。
仙台西公園
西公園にリンク貼りました
風流の初めや奥の田植歌
松尾芭蕉の石碑
仙台藩六十二万石の権威を表す仙台城大手門は、戦災で消失する前は国宝に指定されていました。芭蕉に同行した曾良の随行日記に「城ノ追手ヨリ入」と記しているのが大手門のことです。大橋をわたった西公園に芭蕉句碑が建っています。
仙台城大手門跡
所在地:宮城県仙台市青葉区川内
この近所には源吾茶屋という老舗のお茶屋があり、ラーメンやゴマ餅などが名物になっている。
西公園には臥龍梅が咲く(瑞鳳殿・片平公園・西公園に咲く)
「芭蕉の辻」
芭蕉が仙台に到着したのは旧暦5月4日。仙台城下の中心芭蕉の辻を通り、国分町大崎屋という宿に着いたのは夕刻の頃。芭蕉一行はここに四泊五日逗留し、北野屋加右衛門の案内で仙台の歌枕を訪ねました。
なお、「芭蕉の辻」名前の由来は、芭蕉という名の虚無僧が住んでいた、芭蕉の木が植えてあった、との説があり、松尾芭蕉とは関係がありません。
芭蕉の辻
所在地:宮城県仙台市青葉区大町1丁目4
「マチモリ」杜の都は不思議のまち 佐々木ひとみ:作 本郷けい子:絵
芭蕉の辻
伊達正宗公が仙台のまちをつくるにあたり、最初に町割り(設計)した場所。南北に走る奥州街道と仙台城大手門へと至る道が交差している場所。
昔から日本では二つの道が交差する辻はあの世とこの世が交差する場所と考えられ、災いをもたらす「辻神」と呼ばれる魔物や妖怪が住むと考えられていた。辻神を祓い、邪気と呼ばれる悪い気がまちに入り込みのを防ぐために「辻の龍」が置かれている。と本に書かれている。
名取川を渡って仙台に入る。あやめふく日なり。旅宿をもとめて四五日逗留す。
芭蕉の句
鶴岡八幡宮
小さな小道春もやや気色ととのふ月と梅
当時仙台の俳壇の中心であった亀岡八幡宮は、伊達家初代朝宗公の頃、鎌倉鶴岡八幡宮を勧請した由緒ある神社です。仙台開府とともに現在の瀧澤神社に仮宮を祀り、その後川内に移されました。参道の石鳥居と365段の石段は天和三年(1683年)造営当時のものが残っています。瀧澤神社に芭蕉句碑が建っています。
亀岡八幡宮
所在地:宮城県仙台市青葉区川内亀岡62
東照宮 仙台
あらたふと青葉若葉の日の光
仙台にも徳川家康公を祭った東照宮があったとは!奥の細道では江戸千住を出発して三日後に見物した日光東照宮。あらたふと・・・の俳句を残しています。仙台の東照宮も絢爛豪華な唐門をはじめ、日光に引けを取らぬ佇まいを今に伝えています。
仙台東照宮
所在地:宮城県仙台市青葉区東照宮1丁目6-1
2023年4月15日に撮影する
「東照宮祭礼」が4月16日に開催されます。
このお祭りは、1655年に始まった神輿渡御を行うお祭りで、仙台祭とも呼ばれたお祭り。その行列は数千人に及び、遠方からも見物が訪れるなど仙台最大のお祭りだったそうです。
現在は5年に一度開催されており、それが今年の4月16日となります。
*朝早くに撮影しました。
東照宮の近所にある寺 天台宗
【仙台 松尾芭蕉ゆかりの地】榴岡天満宮
花咲きて七日鶴見る麓哉
天神の御社と呼ばれた榴岡天満宮。仙台東照宮の場所から現在の榴ヶ岡に遷座し、菅原道真公直筆の書が奉納されています。芭蕉が訪れた当時の趣を残す「つゝじが岡及び天神の御社」として、国の名勝「奥の細道の風景地」に指定されています。境内には二つの芭蕉句碑が並んで建っています。
榴岡天満宮
所在地:宮城県仙台市宮城野区榴ヶ岡105-3
【仙台 松尾芭蕉ゆかりの地】陸奥国分寺薬師堂
陸奥国分寺薬師堂跡に伊達政宗公が建立した薬師堂は奥州桃山様式を今に伝える佇まい。境内の仁王門や奈良時代の遺跡も素晴らしいですが、毎年2月11日に行われる七日堂修正会の法要と火渡り式は一軒の価値があります。準胝観音堂のすぐ脇に芭蕉句碑が建っています。
陸奥国分寺薬師堂
所在地:宮城県仙台市若林区木ノ下3-8-1
【仙台 松尾芭蕉ゆかりの地】妙心院芭蕉翁蓑塚
芭蕉が仙台に到着したのは梅雨のさなか。紙子とよばれる和紙の雨具が旅の荷物には欠かせませんでした。境内の芭蕉翁蓑塚は、芭蕉が仙台を発ち松島に向かう際に置いて行った紙子を、後に浮月坊鉄船という医者の俳人が供養のために埋めて建てたものです。
妙心院
所在地:宮城県仙台市若林区新寺4丁目1-18
錦町公園
辻票は大仏前がある場所
梅月碑
葉類裳やゝ希之起登々南宇月と梅
(はるもややけしきととなう月と梅)
全国で18ヵ所が名勝「おくのほそ道の風景地」として指定されている。仙台市内では,『つゝじが岡及び天神の御社』と『木の下及び薬師堂』が指定されている。
『おくのほそ道』に見られる,関係のある部分は以下のとおりである。
『おくのほそ道』五月四日仙台部分(抜粋)
名取川を渡りて仙台に入る。あやめ葺く日なり。旅宿を求めて,四五日逗留す。ここに画工(ぐわこう)加右衛門(かえもん)といふ者あり。いささか心ある者と聞きて,知る人になる。この者,年ごろ定かならぬ名所を考へ置き侍ればとて,一日(ひとひ)案内す。宮城野(みやぎの)の萩茂り合ひて,秋の気色思ひやらるる。玉田・横野,躑躅(つつじ)が岡はあせび咲く頃なり。日影も漏らぬ松の林に入りて,ここを木の下といふとぞ。昔もかく露深ければこそ,「みさぶらひみかさ」とは詠みたれ。
薬師堂・天神の御社(みやしろ)など拝みて,その日は暮れぬ。なほ,松島・塩竈(しほがま)の所々,画(え)に書きて贈る。かつ,紺(こん)の染緒(そめを)付けたる草鞋(わらじ)二足餞(はなむけ)す。さればこそ,風流のしれ者,ここに至りてその実を顕す。
あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒
かの画図(えづ)に任せてたどり行けば,奥の細道の山際に,十符(とう)の菅(すげ)あり。今も年々十符(とう)の菅菰(すがごも)を調(ととの)へて国守に献ずといへり。
『つゝじが岡及び天神の御社』
「つゝじが岡」は,「とりつなげ玉田横野のはなれ駒つつじの岡にあせみ咲くなり」(源俊頼)など多くの歌に詠まれ,歌枕として有名であった。現在の「つゝじが岡」は榴岡公園の名で知られ,芭蕉が訪れた直後に馬場の傍らに列植された桜樹の一部が伝わる。また,「つゝじが岡」の一画に位置し,「天神の御社」と記された榴岡天満宮の境内には,寛文7年(1651)建立の唐門,樹齢が約300年を超えるとされるシダレザクラ・シラカシの老樹など,芭蕉が訪れた頃の手がかりとなる景物が残るほか,その後に芭蕉を顕彰して建った数多の句碑もある。
『木の下及び薬師堂』
慶長12年(1607)に伊達政宗が再建した「薬師堂」は宮城野の先にあって,日影も漏らさぬほどに繁った「木の下」の松林とともに深い露に濡れており,「みさぶらひみかさと申せ宮城野の木の下露は雨にまされり」(詠み人知らず)の一節を芭蕉に思い起こさせた。現在,享保4年(1719)再建の准胝観音堂の脇には,芭蕉が仙台城下の居宅を訪ねた大淀(おおよど)三千風(みちかぜ)の門弟である,万水堂(ばんすいどう)朱覚(しゅかく)が享保27年(1722)に建てた大淀三千風供養碑,駿河の俳人・山南官鼠(かんそ)による天明2年(1782)の芭蕉句碑などが残る。
榴岡天満宮
陸奥国分寺薬師堂
妙心院芭蕉翁蓑塚
これからゆっくり訪ねる予定。
名取市
2023年5月28日
江戸時代の俳人 松尾芭蕉が1689年に藤原実方の墓を訪ねようとしたが、雨天で足本が歩くてたどりつけず、やむを得ず諦めた。
「笠島は いずこ皐月の ぬかり道」
訳:実方の墓がある笠島はどこだろう。この5月のぬかるんだ道では訪ねることもかなわない。
道祖神路道標が旧奥州街道沿いの川内沢川にかかる橋のたもとにある。
芭蕉の句碑
芭蕉の句碑をいつか訪ねたい。
芭蕉の旅
5月8日(現・6月24日)、仙台を出た芭蕉は多賀城跡にある壺碑、周辺に位置する野田の玉川、沖の石(興井)、末の松山を訪ね、夕刻に塩竈に入って籬島を望みました。翌朝には鹽竈神社を参拝し、船で松島へ向かいました。「扶桑第一」の絶景を前に一句も詠めなかったため、曾良の「松島や鶴に身をかれほととぎす」が載せられています。
雄島、瑞巌寺にも立ち寄って松島で一夜を明かし、翌5月10日(現・6月26日)、岩手の平泉に向けて出発しましたが、道を間違え石巻にたどり着き(石巻は当時も名高い漁港であったため、芭蕉の創作という説も)、日和山からまちを見渡しました。
翌朝、北上川を船で渡り、戸伊摩(現・登米市)で一泊し、平泉へ向かいました。
多賀城
多賀城南門跡のすぐそばに立つ古碑です。「おくのほそ道」の旅で碑と体面した芭蕉は、この碑だけは変わらぬ姿を留めているのを見て、「泪(なみだ)も落つるばかり也」と、感動の文章を『おくのほそ道』にしたためています。
現在、多賀城碑と呼ぶこの碑は、江戸時代初めに発見され、すぐに「壺碑」の名で呼ばれました。「壺碑」とは、平安時代の終わり頃から歌に詠みこまれた歌枕で、西行(さいぎょう)や源頼朝(みなもとのよりとも)などの和歌で有名です。こうした著名な歌枕の発見は大きな話題となり、当時の文人や学者の注目するところとなりました。徳川光圀(とくがわみつくに)は、『大日本史』編さんのために派遣した家臣の報告で、碑が苔むした状態であることを知り、仙台藩主伊達綱村(だてつなむら)に対し、碑を保護する覆屋(おおいや)の建設を勧めます。これを受けて間もなく覆屋が建てられ、今日に至るまで碑が守られています。
多賀城駅にある石碑
多賀城駅
塩釜神社
「石の階九仞(きざはしくじん)に重り」
鹽竈神社は、古来より東北鎮護・陸奥国一之宮として、朝廷をはじめ庶民の崇敬を集めてきた由緒正しい神社です。参拝者を迎える表参道は、芭蕉が「石の階九仞(きざはしくじん)に重り」と表現した石段積みの急坂。屹立する杉林に囲まれた二百二段の石段、その先には朱塗りの艶やかな随身門が佇み、神々しい雰囲気が漂っています。
塩釜神社
松島
「松島の月先心にかゝりて」
河合 曾良(かわい そら 慶安2年(1649年) – 宝永7年5月22日(1710年6月18日))は、江戸時代中期の俳人。本名は岩波庄右衛門正字、通称は河合惣五郎。
石巻
*松尾芭蕉は石巻にも行ったと言うので2023年の石巻の写真も載せます。
次は松尾芭蕉を訪ねる石巻の旅したいです。
句碑 『雲折々 人を休める つきみかな』(日和山公園)
日和山は、宮城県石巻市日和が丘にある鰐山の南東部分の名称である。 桜の咲く名所でもあり、地元では周辺一帯を「日和山公園」として親しまれている。
句碑 『川上やこの川下と月の友』(鹿又・八雲神社)宮城県石巻市鹿又町浦96
漫画神社の脇にあった松尾芭蕉が訪ねた石巻の絵
山形県
芭蕉の句を訪ねる旅
松尾芭蕉の句
閑さや 巌にしみ入 蝉の聲
しずかさや いわにしみいる せみのこえ
松尾芭蕉 1689年 奥の細道を辿り、山寺を訪れた松尾芭蕉の句で門人たちが嘉永6年(1853)
に立てた句碑。
山寺駅
山寺 立石寺本堂
登山口
山寺にまた訪ねたと思います。
2023年5月3日の小旅行でした。
平泉を訪ねる予定
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