塩釜に行く
仙台暮らしを始めて3年が過ぎた。
2021年12月4日。
仙山線の福祉大駅から仙台駅。仙石線で仙台駅から本塩釜まで行ってきました。
塩釜市杉村惇美術館をめざしました。
太田屋で仙台みそのジェラートを食べました。
日本酒で有名な浦賀の工場を通って杉村惇美術館に向かいました。
御釜神社とまちかど博物館の前も通りました。
塩釜神社側から見た美術
塩釜市杉村惇美術館
昭和25年に公民館として健築。アーチ型の大聖堂が素晴らしい。
平成26年に塩釜ゆかりの洋画家の杉村惇画伯のの作品を展示する美術館に改装される。
杉村惇デザインの外壁が仙台にもあります。東京エレクトルンホール宮城の外壁。
宮城県仙台市青葉区国分町3-3-7
塩釜神社
鎌倉街道から芭蕉止宿の地の碑の通り、旧亀井邸を見学する予定でいましたが、12つき4日は休館と扉に張り紙があり、閉まっていました。
裏坂を通りを歩き。紅葉を眺め、塩竈神社博物館の脇にある茶屋で休み、御神苑の庭を眺め、12月だと言うのに四季桜が咲いていることに驚きました。
志波彦神社と塩釜神社があり、松島を一望できる高い山に自分が立っているのだと感じました。
塩釜神社は国の重要文化財。今はパワースポットとして人気を集めている神社。
マリンゲート塩釜
本塩竈の駅からマリンゲートデッキ塩釜を歩きマリンゲート塩釜まで行ってみた。
1Fの蕎麦屋でマグロワンタンそばを食べた。
シオーモの小径があり、宮沢賢治などのゆかりの文学碑が並ぶ小路があったり、津波の記憶を刻む建立を眺めながめ、御座船も塩釜湾に浮かぶ姿を眺めた。
2023年 塩釜の旅
2023年7月2日
2021年に尋ねたシオーモの小径の写真を7月2日、撮りに行きました。
塩釜まちかど博物館
2021年は素通りした場所ですが今回は1Fカフェはれまでカレーを食べたり、2・3階の旧ゑびや旅館の建築物の説明も詳しく聞けました。
2・3階
宮沢賢治と塩釜
宮沢賢治が初めて塩釜を訪ねたのは、明治45年(1912),15歳の時でした。賢治が学んでいた盛岡中学の四年生恒例の修学旅行。
二泊三日の修学旅行
1912年5月27日
午前3時30分 盛岡駅を臨時列車で出発し7:3分に一関駅に到着。そこから北上川の狐禅寺の船着場まで4キロを徒歩でゆき、北上株式会社が運航する岩手丸に乗船。5,6時間かけて北上川を下り、河口の石巻に14時30分頃に到着。その後日和山に登って眺望を楽しんだり、渡波塩田を見学したりして、その後は宿泊しました。
1912年5月28日
午前10時頃に石巻を船で出発。船は外海(仙台湾)に出て11時30分頃に松島に到着。松島の瑞巌寺などを見物後、蒸気船に乗船して、塩竈に到着。
塩竈神社を参拝して塩釜駅から列車で仙台に向かいました。
宮沢賢治は一人、菖蒲田浜に向かいそこで静養中の伯母を見舞い、その夜はそこに一泊しています。
1912年5月29日
朝食後菖蒲田浜を出て、塩釜駅8時20分発の列車に乗り8時50分に仙台駅に到着。
仙台市内の宿舎(堺屋)にいた一行と合流。
仙台駅発12時55分の下り列車に乗車。16時54分に平泉駅に到着。中尊寺を見学後、駆け足で駅に戻り、19時45分発の列車に乗車、23時30分に盛岡駅に到着。
修学旅行から帰った翌日、賢治は父宛てに手紙を書き送っている。
賢治から父への手紙はなかなか興味深い。
「銀河鉄道の夜」に登場するジョバンニの母と賢治の伯母
物語ではジョバンニのは病気という設定に関して想起されてるのが、賢治の伯母(父の姉)の平賀ヤギが病気で療養していた事実です。
明治45年(1912年)修学旅行で塩釜を尋ねた際、一人で菖蒲田浜に向かい、そこで療養中の伯母を見舞い。そこに一泊しています。
賢治が訪れたわずか半年後の2月1日、ヤギは43歳で亡くなりました。
賢治から父への手紙(明治45年5月30日)
塩竈にて無理に先生の許可を得、ただ一人黄き道を急ぎました。曇れる空、夕暮れ、確かなる当てもなき一漁村に至る道、賢治(小生)は寂しさに堪えかねました。
塩竈より約1時間、再び海を見、黒き屋根の漁夫町を望みました。波の音が高く響いていました。1軒1軒を尋ねても伯母上を見んと思い、大東館と書かれた玄関の閉まった戸を幾度か叩きましたけれども答えなければ、葉のはしばしに見えました。9時半、小生は先に睡りました。この夜、咳の声に二度ばかり目覚めました。翌朝。朝食を少しおそく食い、8時20分の汽車に間に合うため、大急ぎにて来路を歩み9時仙台着(一行に合流)
ポラーノの広場
宮沢賢治
画 小林敏也 そして八月三十日の午ごろ、わたくしは小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に着き、そこから汽車でセンダードの市に行きました。
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