虹の彼方に

虹の彼方に

この作品は「ブルーの鎌倉」にも描いてあります。

「ブルーな鎌倉」

「あっ 」また虹が出た。

2020年の幕開けは虹。

順子が生まれ故郷 仙台に帰って来た2018年にダブルの大きな虹を見たいと思った。それからちょくちょく虹をみるようになり、仙台では「虹の彼方に」の曲で何か創作バレエを創ってみたいと思うようになっていたのだが、中々イメージが湧かないため、仙台の「雀踊り」で披露できる創作バレエを考えた。

本当なら2019年10月に横浜市金沢区の新しい金沢公会堂で創作バレエ「天舞雀」を踊り終えているはずだった。

仙台雀踊り

しかし、台風19号の影響で延期となり、2020年の4月に開催されることになった。順子はバレエの先生を辞め、今は別な仕事をしているし、わざわざ横浜に行って雀踊りを踊らなくとも良いのでは、という気持ちになった。しかし去年は金沢区の日本舞踊の先生宅に行き指導を受けたり、谷桃子バレエ団の多胡先生のスタジオで多胡先生に会ったり、谷桃子バレエ団の高等科で一緒に学んだ前田新奈さんと再会したり、仙台に帰ったとは言え娘と妹夫婦は横浜に住んでいるため、これからも横浜との縁は続いていくのだろうと思う。
今年は谷桃子バレエ団の創立70周年記念公演があり、上野の文化会館に懐かしの「リゼット」を観に出かけた。2020年1月

谷桃子バレエ団のリゼットは、

1960年谷桃子先生がチャイコフスキー・バレエ学校に入学し、スラミフィ・メッセレル先生、バルラーモフ先生の指導を受けたのち、1962年11月1日・2日に東京文化会館で日本初演を飾りました。

リゼット 谷桃子
コーラ  内田道生 小林功
ニケーズ 小林恭

メッセレル先生との出会い
1984年8月27日

盛岡の黒沢智子バレエ研究所でメッセレル先生の講習会が開催された時に出会いました。
この日はメッセレル先生の76歳のお誕生日でした。私とメッセレル先生のご縁は1984年のこの日から18年続きました。

1985年8月、仙台でザハーロフ版「ルスランとリュドミラ」、ゴールスキー版「フレスコ」、メッセレル先生振り付け「瀕死の白鳥」を学びました。

1986年3月 東京メルパルクホールにて開催された「第9回 全国合同バレエの夕べ 東北支部」で順子は「ルスランとリュドミラ」の主役を踊ったのです。

渡邉順子 経歴

1986年3月「ルスランとリュドミラ」の出演を踊り終わると、盛岡の黒沢智子先生の生徒さんだった力丸純奈さんが海外から一時帰国し「リゼット」公演を行うことになりました。谷桃子先生が振り付け、指導のため5月に黒沢智子先生のスタジオを訪れました。
リゼットの第2幕のワルツの振付けに私も混ぜて頂き、練習に参加させて頂きました。私は谷桃子バレエ団のリゼットという作品を全く知らなかったのですが、谷桃子先生が椅子に座って「リゼットがねー」とおっしゃった瞬間「リゼット」が少し分かったような気持ちになったのです。

1986年5月、盛岡の石割り桜が咲く頃、私は谷桃子先生と再会したのです。

「虹の彼方に」2

谷桃子バレエ団の舞台観賞と共に歩んだ私の歴史

年譜

8歳から仙台でバレエを学ぶ。

1982年〜2020年までの思い出を書き綴ってみようと思います。

1982年
順子 16歳
日本バレエ協会 東北支部 「バレエの夕べ」レ・シルフィードに出演。
初めて 東京に行き谷桃子バレエ団・研究所で中等科のレッスンを受ける。

1986年
順子 20歳
3月、日本バレエ協会 東北支部「ルスランとリュドミラ」の主役を踊り、5月、盛岡の黒沢先生のスタジオに行き谷桃子バレエ団のレパートリー一つである「リゼット」の第2幕のワルツの振り付けを谷先生に習いに行く。
8月から東京都目黒区中根町で1人暮らしを始める。谷桃子バレエ団・研究所の生徒になり、初等科・中等科でレッスンを始める。

1987年
順子 21歳

1月 谷桃子バレエ団公演「リゼット」
谷桃子バレエ団の公演を初めて観る。
5月に風邪をこじらせ、体調を崩し帰仙。
10月 谷桃子バレエ団公演「ジゼル」を観に東京へ行く。

1988年
順子 22歳
1月 谷桃子バレエ団の「白鳥の湖」を観に東京に行く。

仙台の橘バレエ学校でバレエを再開した。会社勤めをしながら「日ソ友好バレエコンサート」や発表会に出演する。(88年〜91年)

橘バレエ学校時代の私
仙台教室

1989年
順子 23歳
牧阿佐美バレヱ団の「ドン・キホーテ」と日本バレエ協会の「ドン・キホーテ」を観に上京。
12月 メッセレル先生が来日。メッセレル先生の講習会のレッスン。谷桃子バレエ団・研究所でメッセレル先生、谷桃子先生と再会。

1990年
順子 24歳
6月 コスモス文学新人賞 現代詩部門「楽屋」で佳作を受賞する。
10月20日、21日に谷桃子バレエ団・研究所を訪ねる。
メッセレル先生がロイヤル・バレエ学校で高部尚子さんを教えた。「シンデレラ」を尚子さんの振り付け・指導するため来日。順子はメッセレル先生について書きたいと思いバレエ団を訪ねる。

1991年
順子 25歳
1991年1月11日・12日 メルパルクホール
谷桃子バレエ団公演「シンデレラ」を2日間観る。
シンデレラ 高部尚子
王子 赤城圭/樫野隆幸

5月にミラノ・スカラ座バレエ団に一週間行きレッスンを受ける。
1991年 メッセレル先生振り付け「瀕死の白鳥」を谷桃子先生の指導で踊る。(仙台初演)

「瀕死の白鳥」の練習風景 

1992年
順子 26歳
谷桃子バレエ団・研究所に戻る。
高等科クラスと凖団クラスを受ける。
1982年「くるみ割り人形」学校公演に出演。

 思い出の谷桃子バレエ団・研究所 発表会1993年

谷桃子バレエ団「くるみ割り人形」にも出演する

1993年
順子 27歳
新春公演「ドンキホーテ」・学校公演「くるみ割り人形」に出演する。
谷桃子先生 勲四等宝冠章受賞

1994年
順子 28歳 結婚

1995年
順子 29歳
メッセレル先生が東京バレエ団の仕事で1月末〜10月まで来日。プリセツカヤさんの弟、アザーリ・M・プリセツキー氏が牧阿佐美バレヱ団で「ロメオとジュリエット」を振り付けするために来日。メッセレル先生が宿泊中のマンションで出会う。
1991年に渡邉順子が踊った「瀕死の白鳥」のビデオをアザーリさんとメッセレル先生に見て頂き、「瀕死の白鳥」の最後の手の動きの部分の指導を受ける。

1996年
順子 30歳
戦後50年記念特別記念企画「1945・・・そして今に」谷桃子先生が出演し、1歳になる娘を連れて挨拶のため谷桃子先生の楽屋を訪ねる。舞台は娘を連れず私一人で鑑賞。

1997年
順子 31歳
3月 スラミフィ・メッセレル先生の勲三等瑞宝章をお祝いする会に家族で出席する
東京バレエ団の仕事でメッセレル先生が来日。

東京バレエ団主催のパーティー。メッセレル先生が中央

1998年
順子 32歳
谷桃子バレエ団公演を観る。
「白鳥の湖」王子 ゲスト出演 熊川哲也

1999年
順子 33歳
娘を連れて観に行った。谷桃子バレエ団の公演
「創作バレエ 卒業舞踏会・テス」
メッセレル先生が東京バレエ団の仕事で来日中。

2000年
順子 34歳
谷桃子バレエ団公演「ロメオとジュリエット・令嬢ジュリー」を観る。
2000年メッセレル先生のお弟子さんのスタジオの発表会で順子「瀕死の白鳥」を踊る。
第14回新風舎出版ノンフィクション部門に公募。2次を通過したが出版にはならなかった。メッセレル先生のことを本にしょうと1990年から書き続け一つの形になった。今も大切な原稿。

虹の彼方に1

2001年
順子 35歳
JUNバレエスクールを開設
「瀕死の白鳥」を踊り始める。

「瀕死の白鳥 物語1」

「瀕死の白鳥物語」遺言

バレエ関連 「瀕死の白鳥」

横浜で「瀕死の白鳥」を10年踊り続けて

 

2005年
順子 39歳
順子 ABCバレエ団公演「ゆうづる」公演に3日間 出演。

2006年
順子 40歳
谷桃子バレエ団「ラ・バヤデール 全幕」を観に行く。

2004年にメッセレル先生が他界。メッセレル先生の追悼公演。

2010年
順子 44歳
創立60周年記念公演
「ドン・キホーテ」を上野文化会館で観る。

順子 ダンスカナガワフェスティバルで「瀕死の白鳥」を踊る

「瀕死の白鳥」渡邉順子
 評論家 藤井修治
自作自演の「瀕死の白鳥」とは言うものの百年以上前の原作に近く、奇を衒わず品よく踊った。近年多くのバレリーナが生への執着を濃厚に見せるのに対し、これが本来の姿かもしれない。

ダンスカナガワフェスティバル2010年〜2015年

2015年 カルメン

2011年
順子 45歳
谷桃子バレエ団 団員多胡寿伯子先生のスタジオ。ベラーム・クリエイト「くるみ割り人形」に出演。
王子 斎藤拓(谷桃子バレエ団)
こんぺい糖の精 西田祐子

ベラーム・ステージ・クリエイトのくるみ割人形に出演する

2012年
順子 46歳
谷桃子バレエ団 団員多胡寿伯子先生のスタジオ。ベラーム・クリエイト「くるみ割り人形」に出演。
王子 斎藤拓(谷桃子バレエ団)
こんぺい糖の精 西田祐子

多胡版「くるみ割り人形」(谷桃子バレエ団系列の舞台)

 

2013年
順子 47歳
谷桃子バレエ団 新春公演「くるみ割り人形」を観に行く。
     王子 斎藤拓
     金平糖の女王 林麻衣子

 

2014年
順子 48歳
ダンスカナガワフェスティバルにて創作バレエ「バレエ藤娘」を踊る
「バレエ藤娘」舞踊評論家 山野博大
自作自演のソロ。日本の題材をバレエに取り組んだ意欲作だった。中央のサスペンション・ライトの中に和風の衣装のダンサーが姿を現し、急テンポの三味線に乗ってステップを踏む。もともと「藤娘」は派手な見せ場の続く演目なので、バレエにした時にもそれらしいところは必要となる。コール・ド・バレエを使うなどの派手めの仕掛けを考えてもよかったかもしれない。

バレエ藤娘

2015年
順子 49歳
4月 谷桃子先生 他界
ベラーム・クリエイト公演にて渡邉順子の代表作品「バレエ藤娘」を踊る。

谷桃子先生の追悼公演も多胡先生のスタジオの公演に出演しました。
谷桃子先生に捧げるルースカヤで私は白鳥の湖のスペインを踊りました。

2016年
順子 50歳
1月16日谷桃子バレエ団公演
「眠れる森の美女」を観に上野文化会館に行く。
オーロラ姫 永橋あゆみ
デジレ王子 三木雄馬
カラボス 館形比呂一(ゲスト)
フロリナ姫 斎藤耀
青い鳥 牧村直紀

2020年
順子 54歳
1月19日 70周年記念作品・LISETTE を観に上野文化会館に行く。
リゼット 斎藤耀
コーラ 牧村直紀
マルセリーヌ 岩上純
ミッショー 赤城圭
ニケーズ 中村慶潤

「バレエ大国」日本の夜明け

チャイコフスキー記念東京バレエ学校 1960年〜1964

 作者 斎藤慶子(現在は北海道大学スラブ・ユーランシア研究センター学術研究員)

 

研究テーマは日露バレエ交流史

本の内容

1960年5月

旧ソ連から来日した二人の教師は、日本人の踊り手達に、愛情と熱意と、持てる技術のすべてを注いだ。冷戦構造の状況下、米ソ中の対立い翻弄され、わずか4年しか続かなかった学校。

二人のロシア人の熱い想いが日本のバレエ教育に変革をもたらした

メッセレル・スラミフィ

ワルラーモフ

が紹介されています。

ロシア留学の先鞭ページに本間陽子先生が紹介されています。

チャイコフスキー記念東京バレエ学校の活動について書かれています。

メッセレルとワルラーモフの教育

「まりも」の創作バレエ

私自身も故メッセレル・スラミフィ先生から沢山の事をお聞きた事をJUNブログにアップしています。
よかったら読んでみてください。

2000年
第14回新風舎出版ノンフィクション部門に公募。2次を通過したが出版にはならなかった。メッセレル先生のことを本にしょうと1990年から書き続け一つの形になった。今も大切な原稿が書かれています。

1938年3月 ロシア メッセレル先生からお聞きした話をそのまま書きました。

この本に紹介されているスラミフィ・メッセレル先生と出会ったのは盛岡の黒澤智子バレエ研究所の事でした。

黒澤智子先生のスタジオには力丸純奈さんがいらっしゃいました。

1980年にローザンヌ国際コンクール振付賞を受賞され、現在は青森県八戸にスタジオがあります。

私も1986年、純奈さんが一時帰国公演「リゼット」で出演される時には私も出演する予定で盛岡の黒澤先生のスタジオに伺いましたが出演することもなく東京都目黒区中根町に住み、谷桃子バレエ団・研究所の生徒になりました。体調を崩し仙台に帰りましたがまた再び谷桃子バレエ団に帰り、結婚しました。

谷桃子バレエ団・研究所の稽古場にメッセレル先生が仕事でいらっしゃることもあり何度かメッセレル先生のレッスンを谷桃子バレエ団・研究所で受けることができたのです。

谷桃子バレエ団のレパートリーにはメッセレル先生が振付した「リゼット」と言う作品があります。

谷桃子バレエ団は1949年に創立され、「リゼット」と言う作品は1962 年に日本初演

原題は「ラ・フィユ・マル・ガルテ」でメッセレル先生も現役バレリーナ時代に踊られた作品です。

2020年1月19日に谷桃子バレエ団 70周年記念新春公演を見に行きました。

谷桃子バレエ団で私が知っているダンサーはコーラ役の牧村直紀さんです。

何故?私が牧村直紀さんを知っているかと言うとお母様もよく知っていたからです。

神原ゆかり先生。

多胡寿伯子先生のスタジオの「くるみ割人形」で神原ゆかり先生、牧村直紀さんと同じ舞台に立ちました。

多胡版「くるみ割り人形」(谷桃子バレエ団系列の舞台)
 思い出の谷桃子バレエ団・研究所 発表会1993年

 

結婚して出産、子育てして、メッセレル先生のお弟子さんのスタジオを借りてバレエの練習をして舞台復帰したのは2000 年の事です。

日本の夜明けの本でも紹介されている鎌倉の本間陽子先生のスタジオを借りて一人孤独にレッスンしました。(瀕死の白鳥の指導なども受ける)

本間陽子先生は神奈川県出身のバレリーナ。日本人バレリーナ海外進出の先駆者。

あの頃のように2021年4月からまた再び孤独にトレーニングは続けています。

55歳と言う年齢ですので静かに見守ってくださいね。

 

渡邉順子

 

渡邉順子

 

私が撮影した牧村直紀さん。(谷桃子バレエ団)

 

 

バレエ大国

 

 

*谷桃子バレエ団の作品を知りたい時には「谷桃子バレエ団の公式HP」をご覧下さい。

 

谷桃子バレエ団
70周年記念公演

虹の彼方に3

スラミフィ・メッセレルの思い出

2004年

追悼の思いで踊った
「瀕死の白鳥」

 

2004年6月18日に谷先生よりメッセレル先生が6月3日にロンドンで亡くなったという連絡が入りました。
その頃、私はJUNバレエスクールを開設し、骨髄バンクチャリティーコンサートで毎年「瀕死の白鳥」を踊っていました。
2004年11月によこすか芸術劇場で踊った「瀕死の白鳥」は、メッセレル先生への追悼の思いを込めて踊りました。

渡邉順子「瀕死の白鳥」
2004年

 

「ルスランとリュドミラ」を踊る渡邉順子

2011年6月18日

には、ダンスカナガワフェスティバルにてメッセレル先生振り付けの「ルスランとリュドミラ」からリュドミラのヴァリエーションを踊りました。(*1980年4月29日、5月1日に東京バレエ団公演が日本初演。

「ルスランとリュドミラ」よりラトミールのまぼろし)
キャスト まぼろしの女 友田優子 ラトミール 上田忠男 まぼろしの女 安田由貴子・友田弘子・田中洋子

1937年4月〜66年10月までザハーロフの演出振り付けの「ルスランとリュドミラ」はボリショィ劇場で18シーズン合計274回の上演を記録している。*東京バレエ団のプロブラムを参考にして書きました。

1986年

私が20歳の時に、日本バレエ協会 東北支部「ルスランとリュドミラ」の主役を踊り、46歳で再びリュドミラを踊れたことは良い思い出になりました。

 

スラミフィ・メッセレルメモリアル

2006年2月25日

谷桃子バレエ公演
ラ・バヤデール全幕

ニキヤ 朝枝めぐみ
ソロル 今井智也
ガザムッティ 林麻衣子
黄金の仏像 桑原智昭
バラモン 赤城圭(24日と共通)
ドロラグヴァ 梶原将仁(24日と共通)
上野文化会館へ観に行く。
このバレエ作品は谷バレエ団にとって貴重な作品。

谷桃子バレエ団の日本初演は1981年1月8・9日、スラミフィ・メッセレル招聘公演
東京文化会館
演出・振り付け スラミフィ・メッセレル
舞台監督 谷桃子
ソロル ミハイル・メッセレル(客演)
ニキヤ 尾本安代/広瀬和子
ガムザッティ 大塚礼子/前田藤絵

*1981年は、谷桃子バレエ団が8月に初の海外公演(台湾公演)を行なった年でもある。
「谷桃子バレエ団の40年」の本を参考に。

谷桃子バレエ団の1981年の「バヤデルカ」はボリショイ・バレエ版、「ラ・バヤデール」と題名が変わり2010年、2013年に谷桃子・望月則彦の演出・振り付けで上演され、2019年に高部尚子の演出・振り付けで上演された。

バヤデルカ(ラ・バヤデール)の原振り付けはマリウス・プティパ。

今から書く内容は1980年、1981年頃の話しです。

絵:山本重也 仙台の風景画を描くイラストレーター

虹の彼方に4

日本初演を飾ったバヤデルカ

谷桃子バレエ団の日本初演は1981年1月8・9日 東京文化会館 スラミフィ・メッセレル招聘公演

谷桃子バレエ団にはメッセレル先生が日本に紹介したバレエ作品「リゼット」、「ドン・キホーテ」の二作品があります。

「リゼット」日本初演 1960年
「ドン・キホーテ」日本初演 1964年

日本初演を飾った「バヤデルカ」はメッセレル先生の亡命騒動後に上演された作品です。

メッセレル先生の亡命騒動とマイヤ・プリセツカヤのお母さん(メッセレル先生の姉)を強制労働収容所(ラーゲリ)から救出しようと何度も試みたお話は、1990年10月20日、21日のインタビューを録音したテープに保存されています。

メッセレル先生が姪のプリセツカヤさんに振り付けした「瀕死の白鳥」は、メッセレル先生の亡命騒動とメッセレル先生の姉ラヒリさん救出劇にその原点があります。

メッセレル先生がアメリカに亡命されたのは1980年。メッセレル先生が東京バレエ団の仕事で東京に滞在中に息子さんがボリショイ・バレエ団のダンサーとして来日され、息子さんと共に在日アメリカ大使館に助けを求め、母子共にアメリカに亡命されたのです。

メッセレル先生の言葉でその当時の事を書きます。「あの時、私は東京バレエ団の仕事で半月ほど、東京にいました。モスクワに帰る4日ほど前、私は身体の調子が悪くなりました。国立病院でレントゲンを撮り、色々な検査を受けました。あまり、よく無い。
私はソ連の大使館に電話しました。ビザの期限切れます。けれども身体はよくない。少しの間、日本にいたい。大丈夫、大丈夫 モスクワに着いたら検査しましょう。
私はものすごーく怒りました。
丁度、モスクワからボリショイ・バレエ団が来日。私の息子も来日しました。私は息子をホテルに呼びました。自由になりたい。アメリカいきましょう」

メッセレル親子が亡命した年はモスクワオリンピックが開催された年でしたが、日本、アメリカ、中国、西ドイツが不参加のまま、オリンピックが行われました。

メッセレル先生72歳。
元ボリショイ・バレエ団のプリマ・バレリーナ。
ボリショイ・バレエ学校の教師。

アメリカに住んでから日本の谷桃子さんから手紙が届きました。日本で「バヤデルカ」を上演したいと。私は再び、日本で「バヤデルカ」の振り付けをするため谷桃子バレエ団を訪ねました。

メッセレル先生

虹の彼方に5

マイヤ・プリセツカヤ
1925年11月20日生まれ。
死没:2015年5月2日(89歳)

1968年、プリセツカヤさんが初めて日本に招かれ「白鳥の湖」を披露する。プリセツカヤさんの踊る「瀕死の白鳥」はその芸術性の高い演技で日本の多くのバレエファンを魅力した。

マイヤ・プリセツカヤさんの母方の叔母がスラミフィ・メッセレル先生。
父:ミハイル・プリセツキーは、スターリンの粛清により1938年に銃殺刑に処された。

サイレント映画女優だった母ラリサ・プリセツカヤ(スラミフィ・メッセレル先生のお姉)は、人民の敵」の妻と言う理由でカザフスタンへ強制送致される。そん時代のお話である。
1990年10月20日・21日に記録する。

とても難しいお話だった。
メッセレル先生の日本語で書くことにする。

1938年3月 ロシア

「スラミフィ・メッセレル 29歳。
私はボリショイ・バレエ団のプリマ・バレリーナでした。まだ、日本の国知らない頃でした。
プリセツカヤのお父さんは1937年5月1日に逮捕されました。無実の罪で。」
*1930年後半、スターリンは反対派を排除・処刑する。『大粛清』と呼ばれ、死亡者8百万〜1千万人といわれる。

「あの時、よくない時間でした。私にはお姉さんいます。ラヒリ・メッセレル。ラヒリ子どもたち、マイヤ・プリセツカヤ、アリクサンドル・プリセツキー、アザーリ・プリセツキー。
私は眠りの森の美女を踊るために楽屋でメーキャップをしていました。急にお姉さんの子供が私を訪ねて来ました。私はびっくりしました。何故ならばボリショイ劇場の楽屋に子供は入ることはできません。、私は何かあった、何かあったと思いました。その前にお姉さんのご主人、プリズンに連れて行かれました。
みんな、みんな夜誰か来ます。連れて行かれます。舞台に立たなければ。一幕のメロディーが始まりました。私は子ども達を私の楽屋に待たせました。子ども達にどうやって劇場に来たか聞きました。
プリセツカヤ『お母さん、スラミフィ叔母さんのいる劇場行きなさい。早く早く』言いました。
スラミフィ・メッセレル『アザーリはどこにいますか?』
プリセツカヤ『わからなーい』
私は兄 アサフ・メッセレルと踊っていました。
アサフの楽屋に行きました。
アサフ『ノーパニック。ノーパニック』
『踊って下さい』
「私は2幕のメロディーを聞きましたから、舞台に立ちました。この日の舞台は何を踊ったか覚えていません。私はマイヤとアリクを連れて子供達の家(ラヒリの家)に行きました。ドアは閉まったままでした。
だれもいない。
何度もドアをたたきました。
よく朝早く、お姉さん(ラヒリ)の家に行きました。ドアは閉まったままでした。だれもいない。なんどもドアをたたきました。次の日の朝早く、お姉さんの家に行きました。2人のミラタリーが立っていました。お姉さんの赤ちゃん(アザーリ・プリセツキー)とお姉さんはモスクワ市にあるブトィルスカヤ刑務所に連れて行かれました。」

マイヤはスラミフィ・メッセレルの家に、弟のアレクサンドルはスラミフィの兄アサフ・メッセレル宅に引き取られることになる。

姉ラヒリの居場所が全く分からなくなった頃、
「私は郵便局でとても小さい手紙を見つけました。新聞の端切れ。当時はトイレットペーパーがありませんから新聞紙を使ってました。
エンピツもない場所だったので、マッチの燃えかすで字を書いた手紙。アクモリンス収容所。」

*この事についてプリセツカヤの自伝「闘う白鳥」にこう書かれている。
—母は窓際に陣取る。手には新聞の切れ端が握りしめられていた。そこには、マッチ棒の硫黄で書き込んだミータ(スラミフィ・メッセレル)の住所。小さな字でアクモリンス収容所と書かれている。列車が人気のない踏切で一時停止をしたとき、小旗を手にした、綿入りジャンパーの暗い顔つきの女性と目が合った。母は丸めたメモを指先で女性の足元にはじき飛ばした—。

お姉さんを訪ねるためには、大人も子供も、家畜運搬用列車に乗るしかなく、メッセレル先生はその列車でカザフ共和国チムケントにお姉さんを訪ねて行く。

「ちょうど、ボリショイ・バレエ団、夏休みでした。私は駅へ行きました。たくさんの人、駅でキップを待ちます。私はとても若いでした。細い、細いでした。ボリショイ・バレエのプリマ・バレリーナ。一年に一回、無料で旅行が出来ます。私は駅ですぐ旅行のキップをもらいました。私は一週間かけてカザフスタンに行きました。」

「何もない所、食べる物もない。とても小さい家がありました。プリズンにお姉さんから届いた手紙を見せました。私はトラックに乗り何もない場所を走り続けました。小さい建物。とても偉い人に私は会いました。お姉さんに会いたい。
とても長い時間、部屋で待ちました。
やっとお姉さんに会えました。
収容所で重いものを運ばせられ、手押し車を引かされ重度のヘルニアにかかっていました。
私は腰の手術を受けさせてほしいと頼みました。
色々、色々努力しました。」

1941年4月に姉のラヒリとプリセツカヤの弟アザーリ・プリセツキーは釈放され帰って来る。

メッセレル先生が姪のプリセツカヤさんに「瀕死の白鳥」を振り付けしたのは1941年のことだった。

メッセレル先生からこの救出劇のお話を聞いた翌年の1991年に、メッセレル先生振り付け、谷桃子先生指導の「瀕死の白鳥」を仙台で踊った。
その後結婚し、子育てしながらJUNバレエスクールを開設。10年近く「瀕死の白鳥」を踊り続けることになる。

1991年1月11日・12日に行われた谷桃子バレエ団の新春公演「シンデレラ」はザハーロフ版をスラミフィ・メッセレル先生と息子ミハイル・メッセレル氏が復元、新振付したものだった。
谷桃子バレエ団の初のシンデレラを演じたのは高部尚子さんだった。
この頃、バレエフェスティバルで後藤早知子作品「光りほのかにアンネの日記」を観る。アンネ・フランクを主演したのも谷桃子バレエ団のプリマ・バレリーナの高部尚子さん。現在は谷桃子バレエ団の芸術監督(2017年頃〜)になられている。

宮城県民会館でプリセツカヤさんの踊る「瀕死の白鳥」を観たのは15歳の時だった。瀕死の白鳥を踊り終えたプリセツカヤさんに「スパシーバー」(ありがとう)とお礼を言い、舞台で花束を渡した。プリセツカヤさんはアンコールに応えてもう一度「瀕死の白鳥」を踊ってくれた。1984年に叔母にあたるメッセレル先生と出会う。

1991年にメッセレル先生の息子のミハイル(ミーシャ)さんと出会う。

1995年にプリセツカヤさんの弟アザーリさんに会う。

仙台で虹を見るたびに「瀕死の白鳥」の指導を思い出している。

 

 

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