ガラスのバレリーナ
(白鳥にバレエを学んだ少女の物語)
文:渡邉順子
イタリアのミラノを訪ねた、午前中はバレエのレッスン。午後はスフォルツェスコ城に行き。1559年の遺作 ミケタンジェロ88歳「未完成のピエタ」をみていた。
ピエタとは「哀しみ、同情、慈悲、信心」の意味
*「ガラスのバレリーナ」と題名は未完成のピエタと意味する。
JUNの仙台自由時間 2023年 ミラノの旅
参考になるページリンク
*「瀕死の白鳥物語」
*愛する白鳥
*愛する白鳥にガラスのバレリーナの資料を入れている。
バレエ関連のリンク
2024年作品
2006年
バレエ台本を描いて踊ってみよう
2018年「くるみ割り人形」イラストを描き始める
JUNの仙台自由時間 2023年1月 ミラノの旅
「常に自分に勝つ人が最高の芸術家」
大好きな言葉
まめ知識
●マリア・カラス(Maria Callas, 1923年12月2日 – 1977年9月16日)
20世紀最高峰のソプラノ歌手です。スカラ座に限らず、全世界のオペラ劇場を席巻した彼女ですが、やはりミラノ・スカラ座でのオペラ公演には並々ならぬ思い入れがあったようです。
スカラ座にとっても、マリア・カラスと言う歌い手なくしてはオペラ公演はあり得ないという時代もあり、事実、マリア・カラスの『椿姫』はスカラ座の歴史上において最大の成功作のひとつであり、記録的な収益をもたらした舞台となっています。
プッチーニ作曲オペラ「ラ・ボエーム」
19世紀のパリを舞台に、夢と芸術に生きたボヘミアンたちの愛の物語。
貧乏でも夢と芸術精神旺盛に生きていた若者たちの青春を描き、詩人のロドルフォとお針子ミミの愛と別れを描きます。
テノールのパヴァロッティとソプラノ、ミレッラ・フレーニの名コンビが客席を沸かせました。
「赤い靴」のドラマ
『赤い靴』(あかいくつ)は1972年10月3日から1973年9月25日まで、毎週火曜19時から19時30分までTBS系列で放映されていた連続テレビドラマ。東宝制作、全52話。
昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター資料
1981年ミラノ・スカラ座 日本公演
「ポエーム」・「オテロ」
指揮 カルロス・クライバー
ドイツ出身の指揮者。第二次世界大戦期にアルゼンチンに亡命し、後に父の国籍であるオーストリア国籍を取得した。父は世界的な指揮者であったエーリヒ・クライバー
ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ
19世紀を代表するイタリアのロマン派音楽の作曲家。
1813年-1901年没
オテロのオペラ王👑👑👑「オテロ」「椿姫」・「リゴレット」・「アイーダ」などの作品で有名。
オセロという名前は、シェイクスピアの四大悲劇のひとつ「オセロ」が由来。
ミラノ・スカラ座のDVD
2005年2月
NBSニュース
佐々木忠次・ベジャール・秋谷氏
佐々木忠次
民音文化賞 受賞
NBSの専務理事であり、東京バレエ団の代表をつとめる佐々木忠次に、去る1月6日財団法人民主音楽協会から「民音文化賞」が贈られました。民音の理念による平和創出と文化交流への貢献が認められたものです。佐々木忠次は1963年の民音創立以来、民音世界バレエ・シリーズなどの企画を手がけ、また民音と共に、ウィーン国立歌劇場(1980年)やミラノ・スカラ座(1981年)の初来日公演を実現させました。
秋谷栄之助民音最高顧問からメダルと賞状が手渡されたのに加え、かつて一緒にベルギーのモーリス・ベジャールを訪ねたときに撮ったスナップ写真がプレゼントされ、昔話に花が咲きました。
民主音楽協会 資料
ミラノ・スカラ座の舞台が日本で観られるなんて、ほとんどの人が思わなかったのではないだろうか。1981年9月に、その招聘が実現する。
最初の交渉が始まったのは、当時の民音専務理事秋谷栄之助氏によれば1965年というから、紆余曲折を経て16年目の大願成就になる。歌い手やコーラス、オーケストラ、衣裳、舞台装置まで、スカラ座の建物以外すべてミラノからやって来た。出演者やスタッフ、裏方、料理人など総勢500人ちかい陣容で、ワインも樽ごと運ばれてきた。
NBSの資料
2009年日本公演 通算公演100回達成
1981年の初来日公演からミラノ・スカラ座の日本通産公演が100回を達成しました。この後には、舞台上に歌手だけでなく、オーケストラのメンバーも上がり、ステファン・リスナー(ミラノ・スカラ座総裁・芸術監督)、マリア・ディ・フレーダ(ミラノ・スカラ座ジェネラル・ディレクター)、ダニエル・バレンボイム、杉田亮毅(日本経済新聞社会長)、佐々木忠次(財団法人日本舞台芸術振興会専務理事)の5名が法被姿で、鏡割りを行いました。と言う記事がNBS(財団法人舞台振興会)HPに書かれていました。
バレエ童話「ガラスのバレリーナ」
楽町
杏樹とよし子8 才
学校が終わると川に行き、パンの耳を川に住む白鳥に食べさせている。
白鳥は渡り鳥だから一年中、川に住んでいるはずはない。
しかし、羽を怪我した白鳥はこの楽町に住んでいた。
楽町は古くから音楽の町と呼ばれる町で川原でもよくバイオリンの音やサックスの音色が響き渡っている。
杏樹が白鳥にパンの耳に持っていく川にも、よし子ちゃんがいつもいて、リコーダーを吹いている。
杏樹は川原で白鳥に餌を与え終わるとよし子ちゃんのリコーダー演奏を聴きて、宮沢賢治の「双子の星」の童話を読んでもらっていた。
杏樹は本を読むのが大嫌いな子でもっぱら白鳥と一緒に片足バランスをするのが好きな子だった。
白鳥の真似をして羽ばたきの練習をしたり、白鳥の観察日記を描いていた。
杏樹とよし子の夢
杏樹とよし子は10才になった。
白鳥のいる川原でいつもリコーダーを上手に吹く、よし子と読書嫌いの杏樹の夢は
「カミーユ・サン=サーンスに褒められたい」だった。
何故、そんな夢を持つようになったかと言うと。
読書嫌いの杏樹が音楽の時間にピアニカを教わることになり、川原でピアニカの練習を始めたことがきっかけだった。
杏樹:「よし子ちゃんは音符が読めて、リコーダーを吹くのが好きだからいいけど。」
「杏樹は音符が読めるようになってもピアニカの練習をするのが大嫌いなの。」
よし子は呆れるように言った。
「杏樹は本を読むのが大嫌いで、ピアニカの練習をするのが大嫌い。
なんか好きな曲とかないの??」
杏樹:「白鳥の曲なら好き」
「こないだ音楽の時間に勉強したのよ」
「シャルル・カミーユ・サン=サーンスは10歳でコンサート・デビューしたんだって」
よし子「なんかすごいねー」
杏樹:「よし子ちゃんがリコーダーでコンサートデビューできるかもしれない話だと思って真剣に先生のお話を聞いたのよ」
杏樹:「サンサースの白鳥という曲でミハイル・フォーキンと言う振付家がバレエ作品を作ったんだって」
「アンナ・パブロワと言うバレリーナがその白鳥を踊ったんだって」
杏樹はすっかりバレリーナの気分で、白鳥になって手をバタバタさせて踊り始めた。
よし子:「私、演奏家になってサンサースさんに褒めてもらいたいなー」
杏樹:「私はサンサースさんの曲で白鳥を踊って褒めてもらいたいなー」
その後、杏樹はバレエを習う事になり、よし子はフルートを習う事になった。
*「カミーュ・サンサースに褒めてもらいたい」と言う夢が杏樹とよし子の人生の中で大切な夢になり、よし子が作曲した曲で杏樹がバレエを踊る日がずっとずっと先の未来に訪れるのでした。
*よし子 作曲 杏樹が振付して踊った。「鷺娘」
杏樹
ミラノ・スカラ座でバレエのレッスンを受け、オペラを見る。
1981年のミラノ・スカラ座日本公演から10年後の1991年にミラノ・スカラ座バレエ団を訪ねる。
杏樹はオペラ「ボエーム」をミラノ・スカラ座で見たのです。
1981年に初の日本公演でも「ボエーム」は上演されました。
*「ボエーム」作品についての作品説明は後から書きます。
1991年当時のミラノ
すべてがオーケストラと歌で推し進められる 音楽劇。
日本には,オペラと似た総合舞台芸術の伝統文化は歌舞伎が ある。
杏樹は楽町の川原から海に出て、ミラノという町に出かけて行った。
ミラノと言う町のオペラ劇場で杏樹は「ボエーム」と言うオペラを鑑賞するのです。
杏樹がみたことがある歌舞伎と言ったら『義経千本桜』(よしつねせんぼんざくら)。
歌舞伎やオペラには関心のない、杏樹は歌舞伎なら「義経千本桜」。オペラなら「ボエーム」と言う作品と言いながらジャコモ・プッチーニの大ファンで楽町の川原で「トゥランドット」」や「蝶々夫人」の曲を聴いているのが好きな子だった。
特にマリア・カラスの歌うプッチーニ:「私のお父さん」・プッチーニ:「トスカから歌に生き恋に生き」・プッチニー「ラ・ボエームからさよなら」プッチーニについても熱心に勉強する杏樹だった。
カセットデッキを川原に持って行き、一人、静かにプッチーニの音楽を聴く杏樹。
たまに、よし子が川原に現れ、自分で作曲した「腰越状」と言う曲をフルートで奏でていた。源義経が壇ノ浦の戦いの後、兄の頼朝に鎌倉入りを禁じられ留まった寺で、義経が和解を求めて記した書状「腰越状」の弁慶筆の下書が残っている。その「腰越状」をよし子が作曲した。
*JUNブログ 谷戸の風にのって「腰越状」を紹介しています。
楽町に「バレエ」が来る
杏樹がミラノに出かける少し前の事だった。
楽町の駅にある大きな音楽堂で「白鳥の湖」全幕の上演があった。
杏樹は音楽の先生から赤い色のチケットをもらった。
「杏樹、この赤い色のチケットでバレエを見てきて欲しい」
「この赤い色のチケットは様々な学校の高校生に配られている。
「なんでも白鳥の湖を踊る主役のバレリーナがフランスでバレエを学んできて、
音楽やバレエを学んでいる高校生たちに是非、バレエを見て欲しい」と言う企画らしい。
「実は先生たちもご招待されているんだよ。」
勿論、よし子も赤い色のチケットを渡され、杏樹とよし子は「白鳥の湖」全幕公演を見に音楽堂へ出かけて行った。
楽町には沢山の音楽家が活躍していて、2 日間の公演は舞踊家や音楽家を志する学生や先生で埋め尽くされる公演だった。
杏樹のバレエ・バレエ・バレエ人生
杏樹のバレエ人生は川原で白鳥たちと舞。
「踊ろう赤い靴 光の湖で 小鳥が舞うように・・・」と歌いながら小学校の廊下を踊り歩いていた。
その頃の杏樹にとってバレエは夢の世界。
まだまだ、バレエを習っていない杏樹でした。
そんな杏樹がお友達の習っているバレエ教室でバレエを習い始めたのは10歳。
発表会では「くるみ割り人形」の雪のワルツを踊った。
チャイコフスキーの音楽に合わせて、雪の精になって舞う。
杏樹にとってバレエは最高の芸術だった。
そして何よりも
「常に自分に勝つ人が最高の芸術家」
くるみ割り人形
杏樹はバレエを習い10才から18才までチャイコフスキーの「くるみ割り人形」のバレエ作品ばかり発表会で踊ってきた。
雪のワルツのコールド・バレエ・雪のワルツの女王様・スペインの踊り・アラビアの踊り・葦笛の踊り・花のワルツのコールド・バレエ。花のワルツの女王様。金平糖の女王様。
杏樹にとってバレエとは「くるみ割り人形」を踊ってお金をもらえるバレリーナと言う職業に憧れたのでした。
メッセレル先生との出会い
コメントを残す