島崎藤村
島崎藤村と東北学院
島崎藤村 25歳
仙台で「自分の生涯の夜が明けて行くやうな心待ち」を味わった。
日本近代詩の夜明けの地
「仙台の名影町といふところに三浦屋といふ古い旅人宿と下宿を兼ねた宿屋がありました。その裏二階の静かなところが一年間の私の隠れ家でした。「若葉集」にある詩の大部分はあの二階で書いたものです。」
藤村 「若葉集」時代より
「まだあげ初めし前髪の・・・」
若葉集より
明治29年〜30年にかけて島崎藤村が東北学院に赴任。
東北学院の中・高校の作文教師
*東北学院の旧中・高校は現在 仙台トラストシティに再開発された。
アイネクライネラクジークのロケ地 ウェスティンホテル26Fレストラン シンフォニーがある。
2005年から仙台市宮城野区小鶴字高野。
東北学院はミッションスクール。
明治29年(1896年)仙台駅前「針久」支店に宿泊
東北学院の始業式
池雪庵に転居
支倉町10番の田代家に転居
*支倉町の近所には宮城県知事公館がある。
「仙台に帰ってきた」(四ツ谷用水編八幡町近辺)
明治29年、名掛62番地の三浦屋で詩の創作活動に勤しむ。
「まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思いけり」
明治30年7月1日に東北学院を辞任
上京 8月29日に「若菜集」が出版される。
*支倉通には北杜夫が住んでいた事を仙台文館で知る。
仙台城下町の町名由来と町割
仙台文学館
宮城県仙台市青葉区北根2-7-1
https://www.sendai-lit.jp/
島崎藤村記念館
岐阜市中津川市馬籠4256-1
文学碑
太陽の言葉
「誰でもが太陽であり得る。わたし達の急務は、ただただ眼前の太陽を追いかけることではなくて、自分等の内に高く太陽をかかげることだ」随筆集「春を待つつ」所収「太陽の言葉」より
島崎藤村(本名 島崎春樹)
明治5年(1872)3月25日 中山道馬籠宿の旧本陣に生まれる。
明治14年、9歳で学問のため上京、同郷の吉村家に寄宿しながら日本橋の泰明小学校に通う。明治学院普通科卒業。
卒業後「女学雑誌」に翻訳・エッセイを寄稿しはじめ、明治25年、北村透谷の評論「厭世詩家と女性」に感動し、翌年1月、雑誌「文学界」の創刊に参加。
明治女学校、東北学院で教鞭をとるかたわら「文学界」で北村透谷らとともに浪漫派詩人として活躍。
明治30年には第一詩集『若菜集』を刊行し、近代日本浪漫主義の代表詩人としてその文学的第一歩を踏み出した。
『一葉舟』『夏草』と続刊、明治32年函館出身の秦冬子と結婚。
長野県小諸義塾に赴任。第四詩集『落梅集』を刊行。
『千曲川旅情のうた』『椰子の実』『惜別のうた』などは一世紀を越えた今も歌い継がれている。
詩人として出発した藤村は、徐々に散文に移行。
明治38年に上京、翌年『破戒』を自費出版、筆一本の小説家に転身した。
続けて透谷らとの交遊を題材にした『春』、
二大旧家の没落を描いた『家』などを出版、
日本の自然主義文学を代表する作家となる。
明治43年、4人の幼い子供を残し妻死去。
大正2年に渡仏、第一次世界大戦に遭遇し帰国。
童話集『幼きものに』、小説『桜の実の熟する時』、『新生』、『嵐』、紀行文集『仏蘭西だより』『海へ』などを発表。
昭和3年、川越出身の加藤静子と再婚。
昭和4年より10年まで「中央公論」に、父をモデルとして明治維新前後を描いた長編小説『夜明け前』を連載、歴史小説として高い評価を受ける。
昭和10年、初代日本ペンクラブ会長に就任、翌年日本代表として南米アルゼンチンで開催された国際ペンクラブ大会に出席。
昭和18年、大磯の自宅で、『東方の門』執筆中に倒れ、
8月22日 71歳で逝去。
大磯町地福寺に埋葬される。
馬籠の菩提寺永昌寺には遺髪・遺爪が分葬される。
毎年命日の8月22日には菩提寺である永昌寺にて、
関係者らにより藤村忌が執り行われています。
藤村記念館
藤村記念館
東北学院大学 土橋キャンパス
東北学院旧宣教師館
「デフォレスト館」
明治20年に宣教師のために建てられた。
国指定重要文化財
2020年撮影
コロニアル・スタイル
島崎藤村は中学・高校の先生だった。
島崎藤村
仙台駅前
アンパンマンミュージアムのある東口
仙台駅の東口にはヨドバシカメラが見えてきます。
初恋通り
突き当たりに塩釜神社があります。
塩釜神社
島崎藤村と名掛丁東名会
島崎藤村が下宿した「三浦屋」跡地。
蝶々の形が今も残っている
初恋
草枕
草枕
潮音
ブログのためメデァテーク図書館で借りる。
支倉町
近所には知事公館がある
支倉丁
1965年〜宮城県知事公館
仙台市青葉区広瀬町5-43
知事公館正門
県指定有形文化財
宮城県知事公館
仙台文学館
仙台文学館
仙台文学館
関連
コメントを残す