JUNの仙台自由時間 2023年
「若き芸術家たちへ」佐藤忠良・安野光雅を読みながら
2023年1月 やっと読書する時間が持てた。
仙台の定禅寺通りにある老舗のカフェでパラパラと本を読み始めた。
2018年の夏に、生まれ故郷である仙台に主人と帰って来た。娘は会社に勤め、横浜で一人暮らしを始めた。私達夫婦は母宅に近い、仙台市青葉区に住み始めた。横浜ではホテル関連の仕事についていたが、仙台に帰ると医療の食事に関わる仕事につくようになった。母宅から広瀬川を渡るとすぐに宮城県美術館がある。仕事が休みの日で、母の体調がよくない日は母宅で過ごし、母の体調のいい日は美術館の創作室で絵を描く生活が始まったのは2021年から。
8歳から始めたバレエは大人になっても続き43年ぐらい続いたバレエ生活にやっと終止符を打ち、ゆっくりとした仙台暮らしが始まった。
宮城県美術館創作室
2021年5月。宮城県美術館の創作室でアクリル画を描き始める。
2021年12月アクリル画を描いているうちに絵のモデルに帰り咲。
2022年からアクリル画を描きながら絵のモデルをバイトで始めるようになった。
私は20代の頃、宮城県の大河原在住の画家太田厚先生の絵のモデルをし、横浜でも長くバレリーナの絵のモデルをしていた。2021年に宮城県美術館の創作室で趣味のアクリル画を描き始めた。2021年の暮れ杉村美術館に出かけて行った。杉村惇先生の弟子である太田厚先生の絵のモデルを若い時にしていたと話すと絵のモデル事務所に所属が決まり、2022年からアルバイトが始まった。
杉村惇美術館
横浜での絵のモデル
契約社員の仕事をしながら絵のモデルのバイトをし、美術館の創作室でアクリルコラージュ作品を作るようになり、読書と音楽鑑賞に明け暮れるようになった。
絵を描いている事と絵のモデルをしているので「若い芸術家たちへ」を読みながら自分の感じた感想を書きたいと思っています。
宮城県美術館には佐藤忠良記念館がある
美術館の庭にも沢山の彫刻がある
日々、常に、佐藤忠良氏の彫刻に触れて生活している。
佐藤忠良氏は語る
「フランスの美術館に行ったら学芸員みたいな人たちが、幼稚園か小学校1年くらいの子供たちをピカソなんかの作品の前に座らせて話して、感想を聞いたりしている。すごくいいことです。わからなくたっていい。一流のものを見せて、一流の音を聞かせる。それを繰り返していくうちに彼ら自身の物差しができるんです。」
私も小さい頃から宮城県美術館のアリスの庭を散歩するのが好きでした。横浜の中区に住んだ時に伊勢崎木町に佐藤忠良さんの彫刻があって、その彫刻を見てるだけでほっとしたものでした。
そして仙台に帰ってまた、佐藤忠良氏の彫刻に会えて、気持ちが落ち着いた。そして美術館で絵を描き始めたのです。
支倉常長像
佐藤忠良氏が語る「支倉常長像」
「支倉常長の像は宮城県に二体あるんですよ。支倉常長の船が出た浜と、仙台のお城の跡に。それからイタリアとスペインにもある。だから、たぶん、多くの人が支倉常長はわたしのつくった彫刻のような人だと思っているのじゃないか。」
仙台城址跡には仙台で有名な支倉常長の像があります。
佐藤忠良:作
佐藤忠良:作 支倉常長 スペイン
伊達侍と世界をゆく(スペイン)
佐藤忠良について
1912年宮城県に生まれる(丸森町)代表作「群馬の人」「帽子・夏」「母の顔」など。81年、パリの国立ロダン美術館で日本人初の個展を開催する。国際的な評価も高い。2011年3月没。
「ロダン」がモデルにした花子さん
花子の本名は太田ひさ
二十世紀初めに西欧で活躍した女優
佐藤忠良が語る「花子さん」
「以前わたしがロダン美術館で個展をさせられたとき、その原型を見ましたし、この間、静岡県立美術館でロダン展があってそこでも、「花子」像を見ました。我々日本人がつくるより、もっと日本人的な、悲劇的な花子やかわいい花子やいろいろある。それをちゃんとえぐり出していますね。さすがにロダンはすごい作家だなあと思いました。あのころ我々が「花子」をつくったとしても、ああいうふうにはできなかったかもしれません。」
静岡県立美術館 オーキュスト・ロダン オンラインガイドブックより
20世紀初めから第一次世界大戦前後までヨーロッパで活躍した日本の女優花子。晩年のロダンのモデルを務めた、唯一の日本人である。
本名を太田ひさといい、1868(明治元)年愛知県に生まれた。幼い頃から踊りや三味線を習っていた花子は、コペンハーゲンの博覧会に踊り子として出演するため、1902(明治35)年単身渡欧し、その後も旅芝居の一座を組んでヨーロッパ中を巡業した。花子という名は、モダン・ダンスの旗手であり、興行師でもあったロイ・フラーによって命名された芸名である。1906年にマルセイユの植民地博覧会で公演していた花子は、ロダンと運命的な出会いをする。ロダンは、パリ公演の後マルセイユ入りしたカンボジア人ダンサーの一行をスケッチするために追ってきたのだった。花子が演じていた役柄は、主に腹切りや仇討ちなどの日本的なモティーフを盛り込んだもので、ロダンは花子の死の表情に魅了された。その後、花子は芝居興行の合間に、モデルとしてロダンのアトリエを訪れた。およそ5年間で制作された作品は、彫刻だけで58点に及ぶ。これは、一人のモデルを対象にした数では最大である。
佐藤忠良の影響でしょうか、私自身も彫刻に興味を持ちました。ロダンについても後でゆっくり勉強します。
ミラノの思い出 ピエタ
若い時にミラノ・スカラ座でバレエのレッスンを一週間ほど受けた事があった。ミラノの街並みは、とても美しかった。スフォルツェスコ城にはよく行きました。
スフォルツェスコ城は15世にスフォルツェスコ家がかつてのヴィスコンティ家の城跡を改装して居城とした。レオナルド・ダビィンチも建築に加わったと言われる古城です。ミラノのピエタも有名です。
ミラノのドゥオーモの屋上に登れた事はうれしかったですね。
一週間のミラノ滞在でしたが、彫刻にはとても興味を持ちました。
イタリアの詩人たちなど 須賀敦子の本を読むようになった。
1991年にミラノ・スカラ座バレエ団でメッセレル先生のレッスンを受け、1991年には谷桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導を受けました。
スラミフィ・メッセレル先生は世界的に有名なロシアのバレリーナ、マイヤ・プリセツカヤの叔母にあたります。ボリショィバレエ団のプリマバレリーナでボリショィバレエ学校の先生。東京バレエ団の前身である東京バレエ学校の先生もされ、日本のバレエに深く関わったバレエ教師。
ミラノ・スカラ座のDVD紹介
伊達政宗像
小室達(コムロトオル)
仙台市青葉山の天守台に立つ「伊達政宗公騎馬像」の作者。
明治32年8月10日、槻木村大字入間田(現在の柴田町大字入間田)に、後に槻木町長を務める小室源吾の三男として生まれた。
2022年、船岡まで訪ねた。
船岡にはよく行きます。
桜の頃、曼珠沙華の頃。
2022年夏 上野にある黒田記念館を訪ねる
「若き芸術家たちへ」の本にも登場する黒田清輝氏
「たとえば原田直次郎なんていう偉い人でも、黒田清輝でも、誰も絵を買ってくれない。肖像画を描かせてほしいと頼んでも、簡単に注文は来ない。いちばんいいのは弟子を育てて、先生になる事なんですが、そうじゃない場合は紙芝居の絵を描いたりしていたそうです。」と書かれていた。
黒田記念館は、洋画家黒田清輝(1866-1924)の遺言により、その遺産によって建てられ、昭和3年(1928)に竣工、同5年に帝国美術院附属美術研究所として開所しました。当館では、黒田清輝の油彩画約130点、デッサン約170点、写生帖などを所蔵し、特別室と黒田記念室で展示されています。
黒田清輝(1866~1924)は、近代日本の美術に大きな足跡を残した画家であり、教育者であり、美術行政家であったといえます。
17歳で、法律の勉学を目的にフランスに留学しましたが、二年後には絵画に転向し、フランス人画家ラファエル・コラン(Louis-Joseph-Raphael Collin)に師事しました。九年間にわたる留学中、アカデミックな教育を基礎に、明るい外光をとりいれた印象派的な視覚を学びました。
明治26(1893)年に帰国し、日本にそれまで知られていなかった外光表現をもたらし、その背後のリベラルな精神と思想とともに大きな影響を与えました。
明治29(1896)年には、美術団体白馬会(はくばかい)を結成、またこの年創設された東京美術学校(The Tokyo Art School)の西洋画科の指導者となりました。以後、黒田は、この白馬会と東京美術学校において、多くの新しい才能を育てるとともに、やがて美術界の中枢となりました。
また、画家としても、外光表現だけではなく、「智・感・情」(Wisdom,Impression,Sentiment)、「昔語り」(Talk on Ancient Romance)など、アカデミズムとしての「構想画」(grand composition)の制作をこころみるなど、本格的な西洋絵画の移植につとめました。後年には、絵画制作のかたわら、貴族院議員や帝国美術院長を歴任し、美術行政家として活躍しました。
絵本作り
2021年から宮城県美術館の創作室で絵本が描きたくて絵を書くようになりました。
私の絵本の原点は「おおきなかぶ」
宮城県美術館に展示されています。
2022年2月に開催された「絵本原画の世界」宮城県美術館
缶バッチ集めを楽しむ。限定のガチャガチャ
「ポンペイ」展
「フェルメールと17世紀オランダ絵画展」
仙台に帰ってからは、宮城県美術館の展示をよく見ていました。
2021年の絵本作りは本を読みながら絵を描き始めました。
1. 「くるみ割り人形」の絵を描くことから始めました。
2 .次が「蝶々」の絵本作り
3. 2022年はフジ子・ヘミングの音楽を聴きながら絵を描き始める。
*リンクを貼りました。
2022年はフジ子・ヘミングさんのCDを聴くようになったのは「青い目」の絵本の絵を見てからでしたそして、12月にコンサートを聴きに行きました。
2022年はCOLORSの本は毎日持ち歩き読みました。
COLORSの本を読みながら音色の勉強し、描き始めたのです。
「若き芸術家たちへ」の本の中に安野光雅氏の言葉に
たとえて言えばモデルが楽譜です。楽譜を見て演奏しているような感じです。風景という楽譜があって、それを演奏している。
音楽としてでき上がっていく
絵が音楽になっていくと言う意味だと思います。
花祭りのジェンツァーノの絵が素敵。ヴェネチアの橋の上の絵も素敵。また本を借りて読む予定。旅の絵本シリーズが有名。
この言葉を読んだ時、私は絵を描きながら音楽を奏でようと頑張った一年だったのだと言うことがよくわかりました。
多分、2022年の私にはフジ子・ヘミングさんの音楽が必要でした。どう、奏でればいいか、わからないけど、フジ子・ヘミングのCDを聴いていると絵が描きやすくなるのです。
アートの世界
谷桃子バレエ団で学んだアート
20歳の時に谷桃子バレエ団の研究生を8ヶ月して、仙台に帰り宮城県の大河原で太田厚先生の絵のモデルの仕事をしました。橘バレエ学校仙台教室でバレエを学び直し、再び谷桃子バレエ団の高等科で谷先生のレッスンを受けたり、準団クラスを受けたり、谷桃子バレエ団の公演にも出演しましたが、すぐに結婚してしまいました。
独身時代に谷先生に「瀕死の白鳥」の指導もして頂き、結婚、出産、子育てしながらバレエの先生になり「瀕死の白鳥」を横浜で10年踊り続けました。その後、私自身が白鳥の衣装を着て絵のモデルの仕事を続け、白鳥の衣装を着た絵も残っている事に感謝しています。*私自身は奥村土牛氏の鎌倉の別荘(現在は鎌倉とも乃)に行き、バレリーナモデルをする時には鎌倉とも乃(しらす屋)でしらす山椒を買って、朝に食べバレリーナモデルの仕事に気合が入れました。
奥村土牛の名作「踊り子」
絵のモデル 谷桃子
昭和31年秋に第41回院展に奥村土牛氏が描いた「踊り子」のモデルが谷桃子先生でした。谷桃子先生は画家の奥村土牛氏に絵のスケッチを頼まれた時、「一生の光栄」と奥村土牛氏のモデルを引き受けたと言う事です。谷先生のお母様は「お前が消えても絵は残る」とおっしゃったそうですが、今も山種美術館に谷先生がモデルになった「踊り子」の絵はあります。憧れの谷桃子先生の絵が今も光輝いている。
谷桃子について
日本のバレリーナに紹介されている文を引用します。
戦花の中の花一輪
「谷桃子が踊っていたことだけが、あの戦争中のショツクであり、味気ない時代の安らぎであった。
戦時中のくらい時代に、ドキドキするような歓喜と哀愁を味わった谷桃子の踊りと書かれています。
日本バレエ史を引用
スターが語る私の歩んだ道
ダンスマガジン編
谷桃子
バレリーナの半世紀
「美術家の岡鹿之助、奥村土牛、三岸節子、宮本三郎の絵のモデルにもなりました。
本もたくさん読んでほしい。そう言うところから自分の感性や考えを作っていけると思うんです。
音楽を聴くと、あの繊細な音の動きが、もし身体で表現できたらとおもうとか。いいものに触れていれば、自然にいい方向に向いていくじゃないですか。
音楽でも、美術でも、ほかの芸術からたくさんのことを栄養として吸収できることは知っておいてほしいですね。」
谷桃子バレエ団のアート
谷桃子バレエ団公演で私が好きだった舞台装置
妹尾河童
1962年初演
谷桃子バレエ団のブラフィクデザイナー
舞台装置:妹尾河童「リゼット」
キャスト リゼット 谷桃子
コーラ 内田道生 小林功
ニケーズ 小林恭
舞台美術:妹尾河童
1965年 日本初演2010年
2010年 創立60周年記念公演
「ドン・キホーテ」を上野文化会館で観る。
*1981年に日本初演を飾った「バヤデルカ」
舞台美術:妹尾河童
1981年 息子と共に亡命後 谷桃子バレエ団
2006年
谷桃子バレエ団「ラ・バヤデール 全幕」を観に行く。
(2004年にメッセレル先生が他界したメッセレル先生の追悼公演。)
*日本初演「ラ・バヤデール」
再演出・再振付:高部尚子 現在は芸術監督
原振付: マリウス・プティパ
演出・振付:スラミフィ・メッセレル
音楽: レオン・ミンクス
舞台美術: 妹尾河童
衣裳美術: 緒方規矩子
「谷桃子の軌跡」の本に舞台美術妹尾河童が焼け跡の「白鳥の湖」から「ラ・バヤデール」までの長〜い思い出を記載。58年の谷桃子バレエ団の舞台作りと言う文で締めくくっている。
*谷桃子バレエ団の舞台装置には小磯良平の名もあった。「火の鳥」の舞台装置担当。
*谷先生が絵のモデルになった画家たち:宮本三郎(二期会)・岡鹿之助・笠木実・三井永一(春陽会)・三岸節子と記載されている。
三岸節子:1954年に谷桃子がパリへ留学した時に、滞在中の三岸節子に世話になっている。*「バレリーナ谷桃子の軌跡」より
*「ブルーな鎌倉」・「虹の彼方に」にリンク貼りました。
妹尾河童についても学ぶ
1939年(昭和5年)神戸生まれ、独学で舞台美術を修め1954年「トスカ」でデビュー。演劇、オペラ、バレエ、ミュージカルなどの舞台美術を初め、テレビ美術などの映像デザインの分野においても活躍中の、現代日本を代表する舞台美術家。
妹尾河童さんの舞台美術の中で踊れる事や舞台を見る事はとてもいい経験でした。
この本を図書館から借りて読みました。井上ひさしさんの書斎、川端康成「雪国」の間。横澤彪さんの「笑っていいとも」のセットの絵は懐かしかった。びっくりしたのはレーガン大統領の「執務室」。今は「河童が覗いた仕事師12人」を読み始めた。
「河童が覗いた」シリーズが色々ある。
バレエを学びながら絵のモデル仕事
渡邉順子が谷桃子バレエ団の公演に出演した記録
平成4 年(1992年) 10月26日から「くるみ割り人形」のリハーサルが始まる
11月15日わらび市「くるみ割り人形」に出演(会館主催)
11月16日えびな市「くるみ割り人形」に出演(学校公演)
11月18日新春公演「ドン・キホーテ」のリハーサルが始まる
12月3日「くるみ割り人形」のリハーサル始まる
12月13日小川町で「くるみ割り人形」に出演(会館主催)
平成5年(1993年)1月8日川口総合文化センター「ドン・キホーテ」出演
9・10日簡易保険ホール「ドン・キホーテ」出演
7月18日 「くるみ割り人形」ハイライツ ニューフィル千葉定期公演
8月5・6日第33回生徒発表会 白鳥の湖 第3幕に出演 高等科
*ダンスカナガワフェスティバルにて2013年6月「くるみ割り人形」アラビアの踊りを振付して踊る。多胡版「くるみ割り人形」の音楽を使用。
ダンスカナガワフェスティバルにて「瀕死の白鳥」を踊る(2011年6月18日)
ダンスカナガワフェスティバル「白鳥の湖」よりルースカヤ
1993年
新春公演「ドンキホーテ」・学校公演「くるみ割り人形」に出演する。
谷桃子先生 勲四等宝冠章受賞
順子 28歳 結婚
自作自演の「瀕死の白鳥」とは言うものの百年以上前の原作に近く、奇を衒わず品よく踊った。近年多くのバレリーナが生への執着を濃厚に見せるのに対し、これが本来の姿かもしれない。
2022年 仙台に帰ってからは私服の絵のモデルをたまにしています。
2018年に仙台に帰り2020年から仙台暮らしを描き始めた。
写真
2023年は「白鳥」の写真を撮ることから初めています。
日々格闘中
「瀕死の白鳥」を踊りつづけ、仙台に帰り「白鳥」の写真を撮り始める。
JUNの自由時間
尊敬するカメラマン
ロバート・キャパ
1913年10月22日ー1954年5月25日
カフェでゆっくりパリを味わう
最近は「若き芸術家たちへ」「牛の歩み」「パリ音楽散歩」この三冊を最近は持ち歩き、コーヒーまたはカフェラッテを飲んでゆっくりする時間が好き。
フジコ・ヘミングの書いた「パリ音楽散歩」
フジ子さんは2001年にパリのモンモルトの丘に住み、2002年にサン・ルイ島にある館の一室に移った。2005年にパリの中でも賑やかなエリア、市庁舎の近所。やっとフジ子さんは自分の居場所に落ち着いたと書いている。多分この部屋が「フジコ・フミングの時間」の映像で見た、場所なのだと思う。
パリ音楽散歩の中で好きな章は「第3章 パリの音楽家たちを訪ねて」この章が好き。
モーリス・ラヴェル、ショパン、クロード・ドビュッシー、フランツ・リスト、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、カミーユ・サン=サーンス・リヒヤルト・ワーグナー、ガブリエル・フォーレ、エクトル・ベルリーオーズ、エリック・サティ、ジョルジュ・ビゼー、フランソワ・クープラン、セザール・フランク。
モーリス・ラヴェル
「マホガニー色の古いピアノ。ラヴェルの弾いたピアノの弾けたのよ。「亡き王女のためのパヴァーヌ」を弾いてからドビュツシーやショパンも弾いた。」私は文章を読みながら心が踊り、素敵と感じた。
*英国ロイヤルの夕べのDVDにラヴェルの音楽のバレエも見つけた。
*ショパンのパリの話より私はスペインのマヨルカ島に行った話の方が好きかもしれない。
ショパンは 1838 年に作家のジョルジュサンドを伴ってスペインのマヨルカ島を訪れました。彼らはラカルトゥハデヴァルデモッサ修道院のセル No.4を借り、そこでショパンはパリからプレイエルピアノを受け取りました。
滞在中、彼はこのピアノを使って、いくつかのプレリュード、ポロネーズ、2番目のバラード、3番目のスケルツォなどの素晴らしい作品を作曲しました。
ショパンはマヨルカ島で所有していたピアノをカヌー家に売却しました。
1932年以来、ショパンが演奏したのと、同じプレイエルピアノが部屋に展示されています。(東京にある民音音楽博物館)にもプレイエルピアノは展示されています。
2022年12月にマヨルカ島を訪ねたフジコ・ヘミングさんの映像も拝見しました。
フジコ・ヘミングのマヨルカ島の映像を見た感想 2022年12月24日
フジ子さんは幼少時代、日本人であったお母さんの弾くショパンの曲を聴きながら夜は眠ったそうです。母親は、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)出身のピアニスト。ピアノは身近な生活の一部。5歳の頃から、母の指導でピアノを弾く毎日となった。「ショパンとリストを弾く使命のピアニスト」と世界で絶賛されたフジコ・ヘミングの映像には圧巻。
ドビュッシー
ドビュッシーの生家で館長に許可してくれたので、「亜麻色の髪の乙女」「月の光」「沈める寺」「喜びの島」ドビュッシーを中心にラヴェルやショパンの曲も交えて、一気に弾いた。
「音楽はこの世で最も美しい表現手段」ドビュッシー
フジ子さんの本を読みながら、私が知るドビュッシーを思い浮かべた。音楽は「美しい夕暮れ」「夢」「月の光」の曲。
本は大佛次郎著「パリ燃ゆる」。
2023年1月24日
「ちいさい隅」の四季の本を仙台メディアテークの図書館で借りた。
大佛次郎のエッセー
1958年〜72年 「ちいさい隅」を神奈川新聞に連載。
覚え書き
1931年 横浜ホテルニューグランドに仕事場を置く。
小説「霧笛」を東京・大阪毎日新聞に連載1933年。
1948年「帰郷」を毎日新聞に連載。昭和25年同作で芸術院賞受賞、英訳され六カ国語に翻訳され出版される。
1961年 夫婦でヨーロッパ旅行。フランスではパリ、コミューン関係の資料を収集。「パリ燃ゆ」を朝日ジャーナル、世界に連載。
1978年(昭和53年)横浜市の港の見える丘公園に大佛次郎記念館が開館。
*ショパンの音楽を聴きながらにリンクを貼る。
フジ子さんの音楽散歩の本を読むのはとても楽しい。フジ子さんの文章はとても読み易い。
図書館に行き、ドビュッシーとフジ子さんの耳の中の記憶を借りてきた。
*ドビュッシーはバレエ音楽も作曲しているから本を借りて少し勉強した。
耳の中の記憶から
ピアノの涙
私のピアノの音色 好きになってくれる人も 聴いて涙を流す人も どこか私と共通点が あるんじゃないかと思う だから そう言う涙は 私にとっても愛しいものです。
バレエ伴奏者の歴史
作:永井玉藻
パリ・オペラ座バレエ団バレエ・ピアニストの仕事
ミシェル・ディートランさんに聞く
世界最高峰のバレエ団で働くバレエ・ピアニストは、日々、どのようなことを考え、バレエの世界を見つめているのだろう?
ミシェル・ディートランさんは日本ツアー中のバレエ・ピアニストとして、来日されたこともあるピアニストでオペラ座バレエ団に所属するバレエ・ピアニスト7人の中の一人。
公演の稽古伴奏者「シェフ・ド・シャン」。クラス・レッスンを担当する伴奏者は「ダンス・クラスの伴奏者」と呼ばれています。お互いの仕事時間もはっきり分かれています。
僕たちのように公演担当者のバレエ・ピアニストは、ソリストのためにも、コール・ド・バレエのためにも仕事をします。僕らは全員、作品の全体的なヴィジョンを持っていて、楽譜の隅々まで理解しています。
バレエ・ピアニストという職業には、どのように出会いったのですか。
中略
ベジャール・バレエのダンサーだった教師がいたのですが、ベジャールが優れた音楽的センスの持ち主だったようで、そのダンス教師も音楽のセンスがあったのです。
その後、ミシェル・ディートランさんは、オペラ座バレエ団のピアニストの募集に応募して、バレエ団の仕事に入りました。
ディートランさんは、2021年にオペラ座で初演された、バール振付の「泉」で、リハーサル担当のバレエ・ピアニストを務めた。
エネルギーのある音楽とダンスの両方の融合が重要だと感じると最後は締めくくっている。
踊る側にとってのバレエ伴奏者バレエ教師、ダンサーに聞く
アンドレイ・クレムさん(パリ・オペラ座バレエ団で長年クラス・レッスン教師を務め世界各地で指導者として招聘)「バレエ伴奏者とは、常に学び続ける人」
パリ・オペラ座のエトワール マチアス・エイマスさん「良い伴奏者がいることは、ダンサーにとっても最も重要」
東京フィルハーモニー交響曲楽団コンサートマンスター近藤薫さん、東京フィルハーモ交響曲楽団ヴィオラ首席奏者須藤三千代さん、バレエ・ピアニストの仕事はウィーン国立歌劇場バレエ団所属ピアニストの滝澤志野さん。バレエ・ピアニスト、指導者の稲葉智子さん。バレエ・ピアニストの松岡優さん。
新国立劇場バレエ団のプリンシパル・ダンサーの米沢唯さんのインタビュー記事が載っている本です。
*JUNブログは私が読んだ本やDVDを買ったり、借りたりした記録もアップしています。良かったら、見て下さい。定禅寺通りにあるメディアテークの中にある図書館で本を借りる事が多い。美術館でアクリル画を描いているため、美術館内にあるカフェによく行ったけど。2023年は1月31 日から6月ぐらいまで開館。なんとリューアルするため閉館になるらしい。定禅寺通りのカフェでのんびりして本を読みことがとても贅沢な時間。
仙台に帰ってからは辻票探しや、四ツ谷用水を調べたりした。
*2023年1月に見た「ジャズとダンス」の舞台感想を書きてみました。仙台定禅寺ジャスフェスのページに書きました。
2023年2月「谷桃子バレエ団の40年」の本を読み直す
小磯良平 舞台美術1950年 「白鳥の湖」第2幕 ・1951年 「火の鳥」
岡鹿之助 岡先生の手紙記載されている。
岡画伯の手紙は日本の舞台史上の貴重な記録として残しておきたいと思いあえて綴った。
岡画伯は1925年ー1939年の長いパリ生活のあと、第二次大戦のため止むなく帰国。同じ、パリのアパートで互いに尊重し合う仲間であった阿部女史の進めならと谷桃子のオデットを見た。これが出会いであった。谷桃子と直接会い、自分の見たパリのバレエの話、また舞台の数々、寄席の芸人が一回一回に、いかに全霊を込めて演じているかなどを語るようになった。
「おそらく、白鳥湖の装置としては最上のものと思います。ことに第三幕は傑作。奥深さの効果。壁の色の美しさ。その壁の色と衣装との比較。衣装の色のグループ別の効果は狙う通りの効果を上げたように私も考へられます。ナポリターナは美しかったですね。
全体が優雅な色調に出来ておりましたし、構成に変化があって、海外の舞台をみている感じでした。ゴランランも成功。
第二幕の単色調と森の表現は私は賛成します。この場面は他の場面と違った一種の幻想をたたえてをりました。決してトッピなものではなく、意識しすぎたものなく、云はばごく自然を現れ方であるのに、この場面は確かに異様な雰囲気を作り出すのに成功しておりました。しかもこの表現は新しい。湖水に浮かぶ城は、二階席からでは半分しか見られないので、よくわかりませんでしたが、湖水のへりの岩(フィルムが良い)の表現など大いに賛成で、ひとりニヤニヤして眺めたことでした。確かに今後の舞台装置は全幕を通じて画家の意図するものが一本ギュと感知され、まことに結構なお仕事だったと喜んでをります。ご苦労の見事な結実と存じます。
お疲れでせう。充分なご加餐を念じ上げます。
1955年 11月13日
その後、1969年に岡画伯が「記念公演によせて」
洋画家 岡鹿之助の祝辞が本に書かれていました。
「モスクワでの国際バレエ・コンクールで審査員の大任をすませた谷さんがパリに見えたのは去年の七月も上旬のシーズン・オフのさなか・・ 」服部・島田先生と谷先生のパリのバレエ見物の話はとても島田先生が車を飛ばし大変だったエピソードを何かに書いていましたが、パリ在住の岡画伯も巻き込めたご様子が書かれたバレエ生活30周年の祝辞を本に書いていました。
2023年 宮城県美術館の図書館で「ひたすら造形のことば」単行本 岡鹿之助の本を見つけた。1998年 中央公論美術出版
ローラン・プティの「狼」のスケッチなどパリ暮らしの話が書かれていた。岡画伯はパリの藤田嗣治の部屋を借りて住んでいた。
*1949年「フランスの画家たち」岡氏が書いた本はメディアテークで借りた。
「谷桃子バレエ団の40年」引用
1969年の「白鳥の湖」谷・貝谷・松山三団体合同
オデット 谷桃子(11月24日)11日・23日はルースカヤ 谷桃子と記されている。
*1977年「白鳥の湖」の舞台装置が新しくなったと本に書かれていた。
私自身も谷桃子バレエ団・研究所の発表会でルースカヤを踊らせれ頂きましたが谷桃子先生も踊れたルースカヤと分かり、とでも嬉しくなりました。
*メディアテークからロシア・バレエとモダン・アート 華麗なる「バレエ・リュス」と舞台芸術の世界の本を読み勉強中。
本を読みながら
1917年5月18 日 シャトレ座(パリ)
音楽:エリック・サティ
美術館:パブロ・ピカソ
「パラード」全1幕のバレエ
パラードの幕を書いたピカソ絵が観たくて映像探しをした。
映像を見た途端、バレエではなく、演劇のような世界だった。
エリック・サティの曲はジャズやラグタイムが入ったサティの曲を振付家のレオ二ード・マシーンが新しいダンスをつくるのにぴったりでる。サティの音楽は現在の音(タイプライターの音、船の汽笛、飛行機のエンジン音など)を取り込んだ。
「1917年に私たちは、なにか新しい、われわれの時代をあらわすのもに関わってた。」とマシーンは言っている。
「もっと知りたいシャガール」の本により
エコール・ド・パリ
パリ派の意味
「20世紀初めにパリのモンマルトルやモンパリナスで活躍した画家たちを指す。シャガールをはじめ、モディリアーニ、スーティン、キスリング、藤田嗣治などの外国籍の者が多く、特定の様式や流派にとなわれない画風の個性的な集団だった」と書かれている。
2023年 2月4日〜宮城県美術館展示 佐藤忠良展
2023年2月1日 宮城県美術館に行く
フジコ・ヘミングのパリ音楽散歩にも登場した酒場「ル・シャノワール」(現在は閉店)
黒猫のポストカードが欲しくって宮城県美術館に行って来た。
テオフィル・アレクサンドル・スタンランの絵のポストカード・クリアファイルを購入。
テオフィル・アレクサンドル・スタンラン
画家・版画家
1859年11月10日スイスローザンヌ-1923年12月13日 フランス・パリ
「ル・シャノワール」
1881年11月モンマルトの丘にあった酒場。音楽家のドビュッシー、エリック・サティ・ワグナーや画家、版画家、彫刻家などの芸術家で賑わった場所。
このル・シャノワールの黒猫のポスターを書いたのが画家・版画家・彫刻家のテオフィル・アレクサンドル・スタンラン。
斎藤秀雄氏の彫刻
若き芸術家たちへからの引用
小沢征爾(指揮者、斎藤秀雄に学びフランスに留学。国際的評価も高くボストン交響楽団やウィーン国立歌劇場などで音楽監督を務める)
「やあ、忠良先生は斎藤先生によく似ていらっしゃる」と小沢君(小沢征爾)が言うのね。斎藤さんの写真見たらいい男なんだよ。でも彫刻にしたら、なんだか自分に似た顔になっちゃった。
佐藤忠良の作品で高見順の作っている
高見順
小説家、詩人
1907年-65年
高見順さんが苫小牧の王子製紙を舞台にして小説を書こうとされて、「挿絵は佐藤忠良に」って言ってくださった。
高見順さんが喉頭癌が見つかった。
小説の挿絵の仕事はその4回なんです。
高見順さんの奧さんから電話を頂いた。
「高見が病院に入っているときに、お前には何も残してやれなかったから、佐藤忠良に俺の顔をつくってもらえと言っていたんです。だからつくってもらませんか」
三回やりなおしたけど、難しかった。
「高見順についてはブルーな鎌倉のページに書いている部分がある。
2023年 JUNの自由時間のページに続く
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