はじめに
一枚の写真をいつも眺めていた。この写真が「瀕死の白鳥」と言うバレエ作品であること。谷桃子先生が踊られたと言うこと。谷桃子先生は1922年、1歳の時にお母さんに抱かれ アンナ・パブロワの来日公演で「瀕死の白鳥」を見、1930年からバレエの道を進みはじめたと言うこと。私は1991年に谷桃子バレエ団の稽古場で谷先生から「瀕死の白鳥」の指導を受け、仙台のバレエスタジオのクリスマスコンサートで「瀕死の白鳥」を踊りました。母になっても「ひとつの事を続けなさい」谷先生言葉。 2000年から2010年まで踊り続けた。「瀕死の白鳥」 私にとって谷桃子先生と言う存在が私を踊らせていたようにも思います。2015年4月26日 谷桃子先生が亡くなり鎌倉の海を眺めながら時間をかけて「瀕死の白鳥」物語を書き綴ってみようと思いました。
渡邉順子
「谷バレエ団の思い出 」
1990年 私は仙台に住んでいましたが、10月にメッセレル先生が谷バレエ団にシンデレラの振り付けで来日。私はダンス ナウと言うバレエ雑誌の取材をうけることもあり、7日間東京に宿泊した。松山バレエ団の曼荼羅。牧阿佐美バレエ団のナムーナ。堀内元さんのBALLET CAPSULB
東京ユニバーサルバレエ団 イゴール公を見る。(東京ユニバーサルバレエ団は東京小牧バレエ団のこと)春山さんの踊る瀕死の白鳥を見る。堀内元さんの作品を観ておいて良かったと思う。
その頃の私は仙台の橘バレエ学校でバレエを学び会社に勤め。夜は父の知り合いの店の手伝いをしていました。「楽屋」と言う詩を書き同人誌で賞を取り「ダンサーに憧れて」と言う題でまた賞を受賞するきっかけをつくる年でもありました。同人誌では無くいつか、自分自身のバレエ人生を書き綴った本を出版するのが夢。その夢は今も続いている夢。
1990年は谷バレエ団の稽古場でメッセレル先生からとても褒められたのでした。「貴女は努力しました 本当に素晴らしい」そして1991年 私はメッセレルに会うためにミラノ スカラ座バレエ団にレッスンに行き、谷桃子先生から「瀕死の白鳥」を学ぶことになるのです。1990年があり今の私が存在するのです。