「ブルーな鎌倉」を書く前に
ブルーな鎌倉を描き始めました。
*このページはブルーな鎌倉を書く前に色々な資料が必要なためのメモ書きです。

旧里見邸
「ブルーな鎌倉」
この物語はフィクションです。
お時間がある時にゆっくりご覧下さい。
ブルーな鎌倉関連のリンク
鎌倉文士と呼ばれる作家の家で、私はこの物語を書いています。
フランク・ロイド・ライト風の洋風建築で京都の大工に造らせた日本建築の和室もあります。
何故、私がこの場所にたどり着いたかの物語を書き綴るには、多分、時間がかかると思いますのでゆっくりコーヒーでも飲みながら、お読み下さい。
とんかつ屋
私は横浜市金沢区に住んでいた頃、横浜のSホテルの中華料理店で皿を洗う仕事をしていました。
ある日、鎌倉のブルーホテルの宴会の日のみ.皿洗いの仕事をしないかと頼まれたのです。
*鎌倉に仕事で通った。(2011年〜2018年)
回想
夏の頭でふと鎌倉を思い出したのでした。
あれはいつだっただろう。
鎌倉のエリアナ・パブロワ館を訪ねたのは。
*(1990年は友達と鶴岡八幡宮、鎌倉文学館、七里ヶ浜にあったエリアナ・パブロワ館を訪ねたのです。)
そして、鎌倉芸術館で「瀕死の白鳥」を踊ったのは。
*2000年に鎌倉芸術館で鎌倉の本間陽子先生のスタジオの発表会で「瀕死の白鳥」と「ジゼル」の2幕のウィリーにゲスト出演させて頂きました。

2000年
「瀕死の白鳥」
仙台で8歳からクラッシュク・バレエを学び、仙台から鎌倉のエリアナ・パブロワ館を訪ねたことがきっかけで、私はエリアナ・パブロワのオハコである「瀕死の白鳥」を鎌倉で踊る仕事を頂いたのです。
エリアナ・パブロワのお弟子さんで「瀕死の白鳥」唯一、踊れる貝先生が亡くなり、貝先生と同年代の桃子先生に指導して頂き、「瀕死の白鳥」を踊ったのです。
エリアナ・パブロワさんも貝先生も亡くなっていて、桃子先生が「私も踊ったことがあるから」と指導してくださり、踊ることができた事は本当に嬉しいことでした。
鎌倉で「瀕死の白鳥」を踊ってからは横浜で10年、「瀕死の白鳥」をチャリティーコンサートで踊り続けることになったのです。多分、私の背中にはバレエの天使がついてくれていたから私は踊れたのです。
「瀕死の白鳥」を10年踊り続けている間にフルート演奏に出会いました。
彼女の名前は石笛久乃さん。
鎌倉育で横浜に住んでいるフルート奏者。
私と出会ってから、彼女は作曲をするようになり、私も石笛久乃作曲の「湘南太平記」と言う曲で踊りました。
そのフルート奏者がこのフランク・ロイド・ライト風の洋風建築の家に連れてきてくれたのです。
彼女は私にとっての天使ではなく、守護神です。
彼女の作曲した「谷戸の風」はこの家に住む山内静夫さんが書かれた本の題名で、私は山内さんの書かれた「谷戸の風」の本を読んでいました。
そして山内さんのお父様で作家の里見弴の通う小町のとんかつ屋で私はとんかつを食べて、鎌倉のブルーホテルでの宴会のみの洗い場仕事を鎌倉で10年ぐらいして、2018年に仙台に帰ったのです。
2022年、久しぶりに訪ねた鎌倉で小町通りにある天ぷら屋に久乃さんと行き、小津丼を食べ、旧里見邸を訪ねました。

文豪の聖地

銀座ルパン
昭和3年(1928年)
里見弴の名前もあった
多情仏心
里見弴原作の「彼岸花」の映画を観る。
小津安二郎監督の映画をたくさん観る。
「東京物語」の映画と「お茶漬けの味」の映画が私は好き。
図書館で里見弴の本を探したら「多情仏心」の本を見つけた。
文士邸でのんびり「多情仏心」を読み始めた。
映画で観た「彼岸花」の本も読んでないけれど、まずは「多情仏心」を読むことにする。
映画「多情仏心」もレンタルビデオ店に行き、借りてみた。

監督:小沢茂弘
里見弴の代表作の一つ。
1957年
2022年7月14日
「文章を考える事は難しい」
話しは変わって、私の自己紹介をすることにした。
私の名前は 舞鶴 夏
夏に生まれたから夏。
仙台生まれ、仙台育ち。
8歳からバレエを学び、仙台から鎌倉のエリアナ・パブロワ記念館を訪れ、今は亡きエリアナ・パブロワの「瀕死の白鳥」を踊ったバレリーナ。文才力は無し。バレエを辞めてから絵を描いたり、絵のモデルをしている。
横浜に住んでいた頃、鎌倉のブルーホテルで仕事をする日に小町にあるとんかつ屋でとんかつを食べた。その後、鎌倉の寺巡りが始まる。
私の好きな鎌倉は安国論寺の富士見台から富士山を眺める事。光則寺の前に咲く時計草を眺める事。そして鎌倉文学に触れる事。
有島武郎の「カインの末裔」・「或る女」・「一房の葡萄」・「生まれ出づる悩み」を少しは読んだことがあったけれど、里見弴の文学をあまり知らなすぎて、今、四苦八苦しながら里見弴を勉強中。
2022年 上野にある国際子ども図書館を訪ねた。
*東京名建築探しのページに国際子ども図書館の写真があります。
私はこの子ども図書館で児童雑誌「赤い鳥」が読みたいと思った。

国際こども図書館
児童雑誌 赤い鳥(全3巻)
代表作 童話の部
くもの糸 芥川龍之介
ないてほめられた話 有島生馬
一房のぶどう 有島武郎
有島武郎(1878年3月4日-1923年6月9日)小説家検索
学習院中等科卒業後、農学者を志して北海道の札幌農学校に進学、洗礼を受ける。1903年に渡米。ハバフェード大学で1年ほど歴史、経済学を学び。帰国後、志賀直也や武者小路篤(むしゃのこうじさねあつ)らと共に同人「白樺」に参加する。1923年、軽井沢の別荘で波多野秋子と心中した。
映画「華の乱」を見れば、軽井沢の別荘で波多野秋子と心中事件の雰囲気が映像で見れかもしれない。

華の乱
映画「華の乱」
1988年 監督:深作欣二
与謝野晶子ー吉永小百合
有島武郎ー松田優作
波多野秋子ー池上季実子
松井須磨子=松坂慶子
*松井須磨子については私が1991年にコスモス文学 ノンフィクション部門で受賞した「ダンサーにあこがれて」の原稿にも書いている部分があるので後で松井須磨子についての原稿を書き写すことにする。
鎌倉文士 里見弴
本名:山内英夫
1888年7月14日〜1983年11月21日
兄:有島武郎・生馬
俳画 里見弴の絵と文字。有島武郎の短歌。与謝野晶子の松陰詠草が信州新町美術館にあることが分かった。
私は有島生馬の千曲川の絵が好きになった。
ピアノは生馬の奥さまと娘さんが弾いていたようだ。
2022年 鎌倉 旧里見弴邸を訪ねる
帝国ホテル設計で知られる建築家フランク・ロイド・ライトの影響を受けている家だった。中でも私のお気に入りは六角形の窓。

玄関を入ってすぐの窓
アンチック
私が気に入った六角形窓
文章を書くことは苦手
2022年7月15日
書店で里見弴の「多情仏心」の前編を購入予約し、映画「多情仏心」の検索かけてレンタル取り寄せた。
一応、里見弴原作の映画「彼岸花」を見たぐらいの私からは少し成長して、「多情仏心」を本を買う。図書館で借りたら返さなきゃならないので本を購入した。レンタルDVDの映画を見た。
7月に訪ねた鎌倉。
旧里見弴邸を訪ねる鎌倉は、私の中にある「君よ舞ゆけ劇の如くに」と言う言葉を思い出させた。
東北を激励し和歌を書いて下さった先生の文。
私にとって大切な文学の先生の言葉が心に響いた。
私は読む事は出来ても、書けないけど、
私なりに書いてみたいと思った。
「多情仏心」のレンタル映画を見たい。
やっと手元に「多情仏心」の本が届き、ゆっくり本を読みことにした。
素直に書くことが必要だと言う感じ、ブログに私も私の知る鎌倉を書いてみたくなった。
里見弴の言葉の中に
「口をきいて過不及なく
文を書いて過不及なし」
と言っている
過下及(かふきゅう)とは
度がすぎないことと、及ばないこと。適度でないこと。過不足。

里見弴作
「多情仏心」
博物館 明治村
里見弴が魅了された建築物「帝国ホテル中央玄関」が博物館 明治村にあります。
*YouTubeで検索すると映像も見られます。
公式サイト「博物館 明治村」を検索してみて下さい。
帝国ホテルは20世紀建築界の巨匠として名高いフランク・ロイド・ライト(1867-1959)によって設計されました。
移築秘話
戦後の高度経済成長期に高層化の計画が始まり、取り壊しが決定。フランク・ロイド・ライトがデザインした由緒ある建造物
は昭和43年(1968年)、中央玄関部分のみが明治村に寄贈され、昭和60年より展示公開されています。
設計者:フランク・ロイド・ライト(1867-1959)
20世紀を代表する建築家の一人。

博物館 明治村 公式サイト
愛知県犬山市字内山1 番地
鎌倉 里見弴邸
1926年(大正15年)に里見邸は建てられた。
長編「安城家の兄弟」の舞台になった家。
「善心悪心」「多情仏心」「極楽とんぼ」が代表作。
映画監督:小津安二郎とも親しくしていた。
彼岸花の書き下ろしなど映画制作にも関わった。(1958年)
里見弴が38歳の時に建て、48歳まで過ごし家。
その後、扇ガ谷に住み94歳で亡くなる。
里見邸は昭和11年に里見に手放した後は米軍の接収後、ホテルとしても使われ、赤い絨毯がそのまま残されている。
*ピアノは有島生馬の奥さんと娘さんも弾いていたのかもしれない。

ピアノが置かれ、階段をのばると日本間がある

電気も素敵

階段をのぼる間に見えたステンドグラス

呼び鈴
使用人を呼ぶためのベル
有島武郎・有島生馬・里見弴旧居跡
住所:東京都千代田区六番町3-5 ベルテ六番町 石垣に案内板が設置されている。
父親(有島武)が家を建て里見兄弟が育った場所。
私が知った里見邸
私は「谷戸の風」と言う本を読んで旧里見邸を訪ねた。
「谷戸の風」の一節を引用する
山内静夫氏は里見弴の息子
「谷戸の風」
われら昭和世代
私は大正14(1925)年の生まれ。大正15年は昭和元年であるから昭和の年代と私の生年月日は全く同じである。昭和の年代は従って非常にわかりやすかった。
生まれたばかりの1歳の時に父が初めて自分の家を鎌倉・西御門に建てた。洋風建築の大きな家で、その頃の西御門辺りでは目立つ豪邸だった。私はそこから二階堂の第二小学校へ通った。
西御門は鎌倉特有の谷戸で、谷戸の入り口の左側には鎌倉師範学校の大きな炊事場があって、朝早くから賑やかだった。
鎌倉検定の本
鎌倉検定の本を参考に鎌倉文学と鎌倉映画を説明しょうと思います。

鎌倉検定の本
昭和に入り、鎌倉文士たちの中心となるのが、1936年(昭和11)久米正雄の呼びかけによって構成された「鎌倉ペンクラブ」だ。メンバーには、川端康成、林房雄、深田久弥、里見弴、小林秀雄、大佛次郎、大岡昇平、太田水穂、神西清、高浜虚子、横山隆一、中里恒子、野田高悟、今日出海、小杉天外、小牧近江、三好達治、島木健作ら鎌倉在住の文学者などが名を連ね、大いに親睦を深める場となった。鎌倉検定の本の中に里見弴邸での新年会の写真がある。
鎌倉と映画の部分は後でかく
私の書いた「谷戸の風にのって5」を引用する
1990年は友達と鶴岡八幡宮、鎌倉文学館、七里ヶ浜にあったエリアナ・パブロワ館を訪ねたのです。とても楽しい会話をしながら、食べながらの鎌倉観光でした。
今は無き、エリアナパブロワ館の壁には「しらとりは哀しからずやそらのあを うみのあをにも染まずたたよふ」若山牧水の和歌が書かれていました。
20歳の時に東京一人暮らしを経験し、体調を崩し帰省。仙台に帰った私は抜け殻のようになり、これから自分が何をすべきなのかの道を失ってしまったのです。
未練ありありで、Tバレエ団の公演を観に東京へ行くことから歩き始めました。それから段々、海外のバレ
エ団の公演を観にいくようになり、鎌倉まで足を伸ばし、絵を描いたり文章を書いたり会社勤めをし、1988年に仙台でバレエを再開。
書き物をした甲斐あってか、1990年にコスモス文学新人賞を受賞。また元気を取り戻した私は、再び東京暮らしを始めたのです。
1986年から1991年までの5年間は「ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき」藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけあそん)。この和歌のように光りの見えない道でも前向きにを歩き続けたのです
私は18歳の時に盛岡でバレエ教師スラミフィ・メッセレル先生の講習会を受け、19歳の時に仙台でレッスンを受けました。
「アルファベットがすべて覚えられなければ単語は書けない」とバレエの基礎の大切さを学んだのです。
1986年、私が20歳の時にメッセレル先生がロシアで踊ったグリンカ作曲「ルスランとリュドラ」の主役を踊り1991年にメッセレル先生を訪ねイタリアのミラノ・スカラ座バレエ団を訪る。
20代の私は自分の歩く道が分からなくなった時期がありました。
その頃、鎌倉を訪ねたのです。
56歳になった私は20代の頃の私と同じように微かな光の道を歩いています。
そして鎌倉を訪ね、鎌倉の思い出を書き綴ってみようと思ったのです。
長谷寺の思い出
20代の頃、私は仙台から何度か鎌倉を訪ねました。その頃の私は光の見えない道を歩いていた頃で、鎌倉を尋ねると長谷寺の洞窟を訪ねました。
長谷寺に弁天窟という洞窟があります。その洞窟に入るのです。洞窟にはロウソクを持って入ります。弁天窟は弘法大師が修行された場所でその洞窟の中に弁天様があり、ロウソクを奉納するのです。
30年も前の事で、あまり記憶にはないのですが「鎌倉にまた来たい」と言うのが私の願いでした。長谷寺は結婚して横浜の金沢区に住み娘が生まれてからも訪ねたことがありました。その頃の私は洞窟に入る事はありませんでした。洞窟があることも分からなくなっていました。
そして娘が小学生になると北鎌倉で絵を習い始め金沢区から北鎌倉に通いました。娘が高校生になると私は鎌倉のホテルでアルバイトをしに行きました。金沢区から中区に住んでも鎌倉に仕事に行きました。
私は由比ヶ浜から見る空が好き。そして、長谷寺の見晴台から見る町と海。安国論寺の富士見台から見る空と海が好きです。ブルーな鎌倉が好き。

鎌倉地図

安国論時の富士見台から見た空

由比ヶ浜のローソン近くの空
エリアナ・パブロワ
エリアナ・パブロワロシア革命を逃れて来日したエリアナ・パヴロバは、関東大震災の直後から鎌倉・七里ガ浜に住み、多くの門下生にバレエの魅力を伝えましたバレエ教師・バレリーナ。里見弴邸に「七里ヶ浜パブロワ館」の本があった。
*1990年は友達と鶴岡八幡宮、鎌倉文学館、七里ヶ浜にあったエリアナ・パブロワ館を訪ねたのです。
仙台から東勇作氏が鎌倉のエリアナ・パブロワ学校に行き、バレエを学んだ事を調べて書いた作品が「伊達の風」です。
1927年に鎌倉にエリアナ・パブロワ バレエ学校を開設。
1941年にエリアナ・パブロワは中南支慰問先で病没。

七里ヶ浜パブロワ館
鎌倉仕事より
2016年の夏に常栄寺(ぼたもち寺)や八雲神社を訪ねた。
2018年1月10日 大町の安国論寺を訪ねる。
2018年1月は安国論寺を訪ね富士見台から富士山を眺めたかったが風が強く富士山は見ることができなかった。
1月21日は仕事前に日蓮聖地に建つ妙法寺(苔寺)に行く。平日は参拝できないため土曜・日曜・祭日でないと苔の階段を見ることはできない。やっと参拝した。3度足を運ぶ、
2017年7月の月曜日は苔寺も安国論寺もお休み。2018年1月10日は安国論寺に参拝。念願叶う。
21日は妙法寺(苔寺)の参拝で念願叶う。鎌倉の大町はあまり観光客がいない場所だと私は思った。
「鎌倉名建築探し」から
雪の下にある鎌倉 鏑木清方記念美術館を訪ねるのが好きだった。
鎌倉で仕事をしていたので、鎌倉駅から由比ヶ浜まで色々な寺を廻りながら仕事場へ行くのが好きだった。
大巧寺→妙本寺→常栄寺→八雲神社→安養寺→妙法寺→安国論寺→
安国論寺の寺にある富士見台を登り、富士山を見るのが好きだった。
小川亜矢子(バレエ教師)
22歳の時に、イギリスの日本文学研究者のアイヴァン・モリスと結婚し、彼と共にパリに渡ったことで、フランスのバレエを学ぶ機会を得た。さらに彼がコロンビア大学の東洋学部の教授として招聘され、60(昭和35)年にはアメリカへ。
イギリスの日本文学研究者のアイヴァン・モリス
英語圏での古典・近代日本文学の研究進展に寄与し、英文著書のほか三島由紀夫の金閣寺、大佛次郎「旅路」など多数を英訳。同学のドナルドキーン友人であった
二人は離婚した。
谷桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導も受け、再び、谷桃子バレエ団でバレエを学ぶようになりましたが、心が弱い事と靭帯の怪我が原因で谷桃子バレエ団の1983年の新春公演「ドンキホーテ」に出演し、結婚バレエを辞めてしまいました。
結婚し出産後、子育てをしながらバレエのレッスンに通うようになりました。
その当時は東京の杉並に住んでいたので独身時代よく通ったスタジオ一番街のオープンクラスにまた通ってみょうと思うようになりました。しかし、スタジオ一番街は青山にあるベルコモンズの中にスタジオに変わり、名前も「青山ダンシング・スクエア」と言いました。子どもを連れてスタジオに行かなければならないこともあり、あまりスタジオ通いはできませんでしたが、杉並に住んでいたので新宿村スタジオを借りてレッスンしていた事もありました。青山ダンシング・スクエアで学んでいた先生が安藤雅孝先生で、発表会では安藤先生振付のリベルタンゴの曲で生徒20人ぐらいで踊りしました。
*スタジオ一番街の主催者小川亜矢子先生で仙台から六本木のスタジオに通い、結婚してからも通いました。小川先生のレッスンも受けていました。本も出版した。

作:小川亜矢子
三島由紀夫の「金閣寺」を読んだ。感想は後で書く。
「春の雪」の映画を見る、私的には好きだった。原作三島由紀夫「美しい星」も面白さがある映画だった。
↑映画紹介と言うか見た映画の記録を載せています。

原作:三島由紀夫
「春の雪」

美しい星
ミラノスカラ座でレッスンを受けた1991年の話を書くために調べる

ミラノスカラ座

ダビンチ

サンバビラ教会

すフォルツェスコ城

教会

門

ミラノの街かど

ドゥオモの上

ガレリアの天井

ガレリアの中にあるカフェ

オペラのパンプ
2022年は日々、ガラスのバレリーナのバレエ童話を書くために奮闘中

イタリアの詩人たち
須賀敦子

レオナルド・ダ・ヴィンチ
図説

世界の名作バレエ団

イタリアの彫刻家
ベリクレファッツィー二
「猫」
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