谷戸の風5

谷戸の風5

吉川久子さん奏でる谷戸の風の春を聴いていると鎌倉の様々な春を思い出します。
妙本寺の梅、鎌倉八幡宮の桜、由比ヶ浜の海 
江ノ電に乗って腰越駅まで行く間に見る風景

吉川久子の奏でる「さくらさくら」や「春の海」はとても素敵で、いつも曲を聴きながらバランシンスタイルのバレリーナ達が私の頭の中で舞い踊っています。

ジョージ・バランシンは、ロシア出身のダンサー、振付家。
彼はアメリカにバレエを広めるために招かれ、アメリカ人の気質に合ったバレエを作り出しました。例えばニューヨークの若者、カップルたちが、ミュージカル映画を観に行くと同様にバレエも観に行ける、そんなバレエ作品作りを目指したのです。
鎌倉なら小町通りと若宮大路でグルメを楽しみ、鎌倉の川喜多映画記念館で映画を見るようにバレエを見る鎌倉スタイルのバレエです。
ですから「谷戸の風」の曲は鎌倉スタイルで、バレエ作品がいつか上演されることを願い書いてみます。

 1986年(20歳)上京。
 1987年5月(21歳)帰省。
 1988年 谷桃子バレエ団 新春公演
「白鳥の湖」を観に上京。
初めて、鎌倉まで足を伸ばしました。
1990年は友達と鶴岡八幡宮、鎌倉文学館、七里ヶ浜にあったエリアナ・パブロワ館を訪ねたのです。とても楽しい会話をしながら、食べながらの鎌倉観光でした。

今は無き、エリアナパブロワ館の壁には「しらとりは哀しからずやそらのあを うみのあをにも染まずたたよふ」若山牧水の和歌が書かれていました。
私は18歳の時に盛岡でバレエ教師スラミフィ・メッセレル先生の講習会を受け、19歳の時に仙台でレッスンを受けました。
「アルファベットがすべて覚えられなければ単語は書けない」とバレエの基礎の大切さを学んだのです。
1986年、私が20歳の時にメッセレル先生がロシアで踊ったグリンカ作曲「ルスランとリュドラ」の主役を踊り1991年にメッセレル先生を訪ねイタリアのミラノ・スカラ座バレエ団を訪ねたことがあったのです。

20歳の時に東京一人暮らしを経験し、体調を崩し帰省。仙台に帰った私は抜け殻のようになり、これから自分が何をすべきなのかの道を失ってしまったのです。
未練ありありで、谷バレエ団の公演を観に東京へ行くことから歩き始めました。それから段々、海外のバレ
エ団の公演を観にいくようになり、鎌倉まで足を伸ばし、絵を描いたり文章を書いたり会社勤めをし、1988年に仙台でバレエを再開。
書き物をした甲斐あってか、1990年にコスモス文学新人賞を受賞。また元気を取り戻した私は、再び東京暮らしを始めたのです。
1986年から1991年までの5年間は「ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき」藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけあそん)。この和歌のように光りの見えない道でも前向きにを歩き続けたのです。そしてこの暗い道を歩いた後に1993年に谷桃子バレエ団の公演にも出演。右足の靭帯を痛めバレリーナになる夢は捨て、1994年に結婚。
結婚し子育てしながら、2000年に鎌倉で「瀕死の白鳥」を踊り2001年にバレエ教師として、またバレエの道に戻りました。

大正11年(1922年)に20世紀を代表するロシアのバレリーナ、アンナ・パブロワが来日。「瀕死の白鳥」を見て観客は「ロシアの鷺娘」と感動、日本舞踊に大きな影響を与えたと言われています。
私は「瀕死の白鳥」を10年踊り続けました。「瀕死の白鳥」を踊り続ければ芸術を深く知ることができると信じていたのです。金沢区で日本舞踊の先生と巡り会い、2014年「バレエ鷺娘」を吉川久子さんの「湘南太平記」で踊ることができた事は私の人生の宝になっています。

吉川久子さん作曲「湘南太平記」の曲で初めて踊ったのは2008年11月。「我一人正義の旗物なり」で扇を持ち舞いました。その後、2010年に金沢区で行われた「金沢文化芸術祭」に参加し、お琴の先生と日本舞踊の先生に出会い2013年に「さくらさくら」の曲で日本舞踊的な創作バレエを踊りました。

18年と言う間のバレエの道は希望の光りを感じながら進んだ道でした。
そして2018年に再びの帰省。
文章を書いていた昔の自分を思い出し2020年6月。54歳、迷う事なく執筆の道を進む事にしました。

吉川久子さんの鎌倉のCDには「東風吹かば」が導入されており、谷戸の風の春と「東風吹かば」2曲をバレエ音楽として考えることにします。
「魂の輝くところにその人の前進あり」で執筆を頑張ります。

さあ、谷戸の風の舞台の幕が上がる。

エリアナ・パブロワ

渡邉順子 経歴

虹の彼方に2

2020年7月

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