虹の彼方に7

虹の彼方に7

「バレエ大国」
チャイコフスキー記念東京バレエ学校 1960-1964
著者  斎藤慶子 
2019年12月13日 初版第一刷発行
丹念な調査とインタビューによって掘り起こした力作ノンフィクション。

2020年2月29日に仙台でこの本を購入。
私自身もメッセレル先生へのインタビューや資料を元に書いておきます。

バレエ大国

スラミフィ・メッセレル先生は、1908年8月27日に8人兄弟の6番目の子として、リトアニアの歯科医の家庭に生まれる。

兄のアサフ・メッセレルはボリショイ・バレエ団のダンサー・教師。著書に「ボリショイ・バレエの技法」があります。旧ソビエト時代、アサフ・メッセレルとスラミフィ・メッセレルは多くの海外公演に参加されました。フランス・ドイツ・デンマーク・オランダ・スウェーデン・ノルウェー・ユーゴスラビア・ブルガリア・ルーマニア・イラン・中国など。

「1960年、ソ連の文化省から日本にバレエ学校がオープンし経験豊かな教師を必要としているというお話があるまで、日本の国、行ったこと無かったです」(メッセレル先生談)

東京バレエ団 40周年に寄せて
           スラミフィ・メッセレル
1959年は、私のバレエ教師としての人生における大きな転換点となりました。ソ連文化省に呼ばれ、2年間日本へ行かないかという誘いを受けたのです。林さんという長野市の情熱的なプロデューサーと、同じ長野出身でクラッシック・バレエを愛する北野さんというスポンサーが「チャイコフスキー記念東京バレエ学校」を設立しょうとしているということでした。問題は教師でした。2人は当時のソ連文化省に問い合わせ、文化省はボリショイ劇場の演出家アレクセイ・ワルラーモフと私に声をかけたというわけです。
 私は以前から日本に惹かれていました。日本は世界最大級の石油タンカーを製造し、最新のコンピュータ製品には「メイド・イン・ジャパン」のマークがありました。そして飛行機のようなスピードの電車も、他ならぬ日本でその当時登場したばかりでした。このような経済の驚異を成し遂げた島国の暮らしを肌で感じてみたいと思いました。ワルラーモフと私は、空路では当時唯一の方法であった驚異的なルートで東京へ赴きました。まずモスクワからコペンハーゲン、ロンドン、ローマ、キプロス、パキスタンを経由し、翌朝にはバンコクに着き、そこでようやく東京行きの飛行機に乗ることができたのです。
 林さんは知的ですばらしい人でした。私たちは六本木に住まわせてもらい、自由に使うことができる運転手付きの車と通訳をつけてもらいました。学校では、私が子どもと女性のクラス、ワルラーモフが男性のクラスを担当することになりました。ロシア人バレエ教師のニュースはテレビでも紹介され、あっという間に東京中に広まりました。本当に幼い子どもから、踊るのはもう無理たのではないかとおもわれるような年齢の大人たちまで、入学希望者が殺到したのです。そこで、入学の条件は6歳以上と決めましたが、実験的に4歳の子どもたちも数人受け入れることにしました。
 日本の伝統は時として非常に便利なものでした。例えば室内に入る時は靴を脱ぐ習慣がありますが、私は毎朝学校へ着き、きれいに並べられた靴の数を見ればその日のレッスンに何人の生徒が来ているのかすぐにわかるのです。しかし、靴の数は驚くべきスピードで増えていきました。そのうちにチャイコフスキー記念東京バレエ学校の生徒は350人になってしまったのです。
 日本人にバレエを教えることは真の喜びでした。レッスンでは教師の意見が絶対で、両親の意見よりも尊重されるようでした。私はいつもそれを感じていましたが、特に生徒たちの規律には感心させられました。彼らにとって、レッスンに遅刻することはまるで神への冒涜であるかのようでした。生徒たちは皆、レッスン開始の数分前にはバーにタオルをかけ、第一ポジションで待っているのでした。初めのうちはもちろん、林さんが手配してくれた通訳を介して生徒をほめたり注意したりしていました。でも通訳はバレエのことをあまり知らなかったため、言いたいことがなかなか伝わらないのです。まるで外国から電話を通じてレッスンをしているような感覚でした。そこで、私は日本語を勉強することにしました。まず人の絵を描き「手」「足」「肩」「頭」などの日本語を書き込みました。レッスンではこの虎の巻が大変役に立ちました。さらに、動詞、数詞、文法の勉強も始めました。私は数ヶ月後には日本語でわかりやすいレッスンを行うことができるようになり、後にはテレビに出演したこともありました。
 東京での2年間の生活を終えようとしていた頃にキーロフ・バレエ団が来日し、私は流暢な日本語で舞台挨拶をしました。客席の1列目に座っていたナタリア・ドベジンスカヤとコンスタンチン・セルゲイエフのその時の驚いた表情といったら「信じられない!」と思っていることは一目瞭然でした。テクニックの指導とともに、年上の生徒たちのために作品の振付指導も行いました。ソロの踊りとあらゆるパ・ド・ドゥを教えました。来日から半年位経った頃には、ワルラーモフと「くるみ割り人形」の振付を全幕で一切省略せずに教えることになりました。私は運良くこの作品の振付をすべて暗記していました。目を閉じればワイノーネン版の全てのパを思い出すことができました。ボリショイ・バレエ学校の卒業公演のために20年もこの作品の振付指導をしてきた経験のおかげです。日本で「くるみ割り人形」の振付を教えるのはそれが最初の試みでしたから、私たちは先駆者の実感がありました。当時完成したばかりだった上野の東京文化会館でこの作品を上演し、大成功に終わりました。
   中略
「くるみ割り人形」の後、私はワルラーモフとアイヌの生活を題材にした作品「まりも」を振付けました。石井歓が躍動感と民族的な要素に富む美しい音楽を作曲し、上演は成功に終わりました。
残念ながら、学校にははなない運命が待ち受けていました。私とワルラーモフもそれぞれ家族が待っており、2年間の契約を終えて帰国しなければなりませんでした。
  中略
東京バレエ学校解散後の1964年、佐々木さんは優秀な生徒たちを集めて東京バレエ団を創立しました。

「バレエ大国」
チャイコフスキー記念東京バレエ学校 1960-1964
著者  斎藤慶子の本には、この内容がもっと詳しく書かれています。

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