虹の彼方に5

虹の彼方に5

マイヤ・プリセツカヤ
1925年11月20日生まれ。
死没:2015年5月2日(89歳)

1968年、プリセツカヤさんが初めて日本に招かれ「白鳥の湖」を披露する。プリセツカヤさんの踊る「瀕死の白鳥」はその芸術性の高い演技で日本の多くのバレエファンを魅力した。
 
マイヤ・プリセツカヤさんの母方の叔母がスラミフィ・メッセレル先生。
父:ミハイル・プリセツキーは、スターリンの粛清により1938年に銃殺刑に処された。

サイレント映画女優だった母ラリサ・プリセツカヤ(スラミフィ・メッセレル先生のお姉)は、人民の敵」の妻と言う理由でカザフスタンへ強制送致される。そん時代のお話である。
1990年10月20日・21日に記録する。

とても難しいお話だった。
メッセレル先生の日本語で書くことにする。
1938年3月 ロシア
「スラミフィ・メッセレル 29歳。
私はボリショイ・バレエ団のプリマ・バレリーナでした。まだ、日本の国知らない頃でした。
プリセツカヤのお父さんは1937年5月1日に逮捕されました。無実の罪で。」
*1930年後半、スターリンは反対派を排除・処刑する。『大粛清』と呼ばれ、死亡者8百万〜1千万人といわれる。

「あの時、よくない時間でした。私にはお姉さんいます。ラヒリ・メッセレル。ラヒリ子どもたち、マイヤ・プリセツカヤ、アリクサンドル・プリセツキー、アザーリ・プリセツキー。
私は眠りの森の美女を踊るために楽屋でメーキャップをしていました。急にお姉さんの子供が私を訪ねて来ました。私はびっくりしました。何故ならばボリショイ劇場の楽屋に子供は入ることはできません。、私は何かあった、何かあったと思いました。その前にお姉さんのご主人、プリズンに連れて行かれました。
みんな、みんな夜誰か来ます。連れて行かれます。舞台に立たなければ。一幕のメロディーが始まりました。私は子ども達を私の楽屋に待たせました。子ども達にどうやって劇場に来たか聞きました。
プリセツカヤ『お母さん、スラミフィ叔母さんのいる劇場行きなさい。早く早く』言いました。
スラミフィ・メッセレル『アザーリはどこにいますか?』
プリセツカヤ『わからなーい』
私は兄 アサフ・メッセレルと踊っていました。
アサフの楽屋に行きました。
アサフ『ノーパニック。ノーパニック』
『踊って下さい』
「私は2幕のメロディーを聞きましたから、舞台に立ちました。この日の舞台は何を踊ったか覚えていません。私はマイヤとアリクを連れて子供達の家(ラヒリの家)に行きました。ドアは閉まったままでした。
だれもいない。
何度もドアをたたきました。
よく朝早く、お姉さん(ラヒリ)の家に行きました。ドアは閉まったままでした。だれもいない。なんどもドアをたたきました。次の日の朝早く、お姉さんの家に行きました。2人のミラタリーが立っていました。お姉さんの赤ちゃん(アザーリ・プリセツキー)とお姉さんはモスクワ市にあるブトィルスカヤ刑務所に連れて行かれました。」

マイヤはスラミフィ・メッセレルの家に、弟のアレクサンドルはスラミフィの兄アサフ・メッセレル宅に引き取られることになる。

姉ラヒリの居場所が全く分からなくなった頃、
「私は郵便局でとても小さい手紙を見つけました。新聞の端切れ。当時はトイレットペーパーがありませんから新聞紙を使ってました。
エンピツもない場所だったので、マッチの燃えかすで字を書いた手紙。アクモリンス収容所。」

*この事についてプリセツカヤの自伝「闘う白鳥」にこう書かれている。
—母は窓際に陣取る。手には新聞の切れ端が握りしめられていた。そこには、マッチ棒の硫黄で書き込んだミータ(スラミフィ・メッセレル)の住所。小さな字でアクモリンス収容所と書かれている。列車が人気のない踏切で一時停止をしたとき、小旗を手にした、綿入りジャンパーの暗い顔つきの女性と目が合った。母は丸めたメモを指先で女性の足元にはじき飛ばした—。

お姉さんを訪ねるためには、大人も子供も、家畜運搬用列車に乗るしかなく、メッセレル先生はその列車でカザフ共和国チムケントにお姉さんを訪ねて行く。

「ちょうど、ボリショイ・バレエ団、夏休みでした。私は駅へ行きました。たくさんの人、駅でキップを待ちます。私はとても若いでした。細い、細いでした。ボリショイ・バレエのプリマ・バレリーナ。一年に一回、無料で旅行が出来ます。私は駅ですぐ旅行のキップをもらいました。私は一週間かけてカザフスタンに行きました。」

「何もない所、食べる物もない。とても小さい家がありました。プリズンにお姉さんから届いた手紙を見せました。私はトラックに乗り何もない場所を走り続けました。小さい建物。とても偉い人に私は会いました。お姉さんに会いたい。
とても長い時間、部屋で待ちました。
やっとお姉さんに会えました。
収容所で重いものを運ばせられ、手押し車を引かされ重度のヘルニアにかかっていました。
私は腰の手術を受けさせてほしいと頼みました。
色々、色々努力しました。」

1941年4月に姉のラヒリとプリセツカヤの弟アザーリ・プリセツキーは釈放され帰って来る。

メッセレル先生が姪のプリセツカヤさんに「瀕死の白鳥」を振り付けしたのは1941年のことだった。

メッセレル先生からこの救出劇のお話を聞いた翌年の1991年に、メッセレル先生振り付け、谷桃子先生指導の「瀕死の白鳥」を仙台で踊った。
その後結婚し、子育てしながらJUNバレエスクールを開設。10年近く「瀕死の白鳥」を踊り続けることになる。

1991年1月11日・12日に行われた谷桃子バレエ団の新春公演「シンデレラ」はザハーロフ版をスラミフィ・メッセレル先生と息子ミハイル・メッセレル氏が復元、新振付したものだった。
谷桃子バレエ団の初のシンデレラを演じたのは高部尚子さんだった。
この頃、バレエフェスティバルで後藤早知子作品「光りほのかにアンネの日記」を観る。アンネ・フランクを主演したのも谷桃子バレエ団のプリマ・バレリーナの高部尚子さん。現在は谷桃子バレエ団の芸術監督(2017年頃〜)になられている。

宮城県民会館でプリセツカヤさんの踊る「瀕死の白鳥」を観たのは15歳の時だった。瀕死の白鳥を踊り終えたプリセツカヤさんに「スパシーバー」(ありがとう)とお礼を言い、舞台で花束を渡した。プリセツカヤさんはアンコールに応えてもう一度「瀕死の白鳥」を踊ってくれた。1984年に叔母にあたるメッセレル先生と出会う。1991年にメッセレル先生の息子のミハイル(ミーシャ)さんに、1995年にプリセツカヤさんの弟アザーリさんに会う。仙台で虹を見るたびに「瀕死の白鳥」の指導を思い出している。

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