JUN詩集(宮沢賢治編)

  JUN詩集

JUN詩集 花

JUNの詩集 へくり沢に咲く花(四谷用水)

 

(宮沢賢治編)

9600形蒸気機関車

 

JUN詩集ページを作る

JUN詩集ページの始まり

よく覚えていないけど。

2425歳頃。

仙台の本屋で画家で舞台美術家の宮内裕さんの本を買い、東京の宮内宅を訪ねた。

なんで尋ねたかと言うと。

本を読んで、その本の感想文を出版社に送った。

そしたら、出版社に私のファンレターが届いたと宮内さんに連絡が入ったらしい。

出版社から私に連絡が入り、宮内裕先生宅の住所を教えて頂き、また手紙を送りたい時にはご自宅にお願いしますと言われた。

宮沢裕さんの奥様は元モデルでファッション評論家の大内順子さん。

仙台から東京の青山の自宅マンションを訪ね、宮内先生行きつけのとんかつ屋でとんかつをおごって頂き。

私の手紙を読んだ感想を教えてくれた。

「君、詩人になれるよ」

宮内裕さんの本にサインを頂き、コスモス文学の同人誌の詩部門で佳作。

長い事、バレエの道を歩き過ぎて、最近、詩など書いていないが詩を書いてみる事にした。

宮内裕さんから頂いたサイン入りの本は今、どこにあるかな。

探してみる。

2023年5月3日

出版社 ‏ : ‎ 世界文化社 (1988/1/1)
発売日 ‏ : ‎ 1988/1/1
衣装のままで

宮内先生のサイン

渡邉順子 執筆活動

1990年6月 コスモス文学新人賞 現代詩部門「楽屋」で佳作を受賞する。

ノンフィクション部門「ダンサーに憧れて」で入選。

1990年は友達と鶴岡八幡宮、鎌倉文学館、七里ヶ浜にあったエリアナ・パブロワ館を訪ねた年でした。

プリセツカヤの叔母さんにあたるメッセレル先生との出会い

1984827

盛岡の黒沢智子バレエ研究所でメッセレル先生の講習会が開催された1984年から18年間、メッセレル先生をバレエの師とし尊敬し、

原稿を書いていました。

第14回新風舎出版

ノンフィクション部門に公募し2次を通過し、出版までは行きませんでしたが、1990年から書き続けた原稿を本にしたいと思うようになりました。

 

 

 

 

青列車

宮沢賢治を勉強した。

頭に浮かぶ言葉は青列車

そして音楽はエリックサティ

セルゲイディアギレフが率いるバレエリュス。

上演した。

上演した。

パラードを。

宮沢賢治。

私の頭に浮かぶ言葉は。

青列車。

パラード。

そして、詩集を書く事。

会いに行きます。

イーハトーブ

待ってて、下さい。

イーハトーブ。

2023年5月2日

宮沢賢治のページ

宮沢賢治の世界

センダード(仙台)からイーハトーブ(岩手)への旅

東京 名建築探し

 

私は青列車に乗ってイーハトブを訪ねたいと書いた詩です。

宮沢賢治記念館に行き宮沢賢治が弾いたチェロが見てみたい。 

宮沢賢治(1896―1933)のチェロは,宮沢賢治記念館に今も現存しています.

バレエ作品パラードと宮沢賢治の童話「月夜のでんしんばしら」の曲から何か似たようなリズムを感じる。

パラードの音楽について

セルゲイ・ディアギレフが主宰するバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)のために1916年にサティが作曲した全1幕のバレエ音楽

青列車の意味

パリから北フランスを結び夜行列車。

「カレー・地中海急行(Calais-Méditerranée Express)」が正式名称だったが、

1922年の新型車両導入時からトラン・ブルーと呼ばれるようになり、1949年からは正式な名称となった。

1922年に導入された新型車両が青かったことから、そう呼ばれるようになりました。 飛行機はもちろん、高速鉄道もまだ無い時代に、裕福なフランス人やイギリスの貴族が、保養地の南仏へ向かうために利用した、今や伝説の豪華列車です。

レストラン「ル・トラン・ブルー」の創業は1901年。

パラード

ピカソが参加したバレエ『パラード』は1917年、パリのシャトレ座初演。
パレードのフランス語訳がタイトルになっています。
バレエ・リュスで初めてピカソが手掛けた作品。また、この作品のテーマはバレエとは全く違う存在の「サーカス」をテーマにしたものでした。そうした点も大変新しい感覚の作品でした。

パラード(組曲)エリックサティ

コラール(賛美歌の曲の意)・赤いカーテンの前奏曲・中国の手品師・アメリカの少女・二人の軽業師・終曲

パラード
ピカソが描いた絵

【演目】
バレエ《パラード》

振付:レオニード・マシーン
台本:ジャン・コクトー
音楽:エリック・サティ
装置&衣裳:パブロ・ピカソ

 

DVDも購入できる

DVD
パラード

バレエ・リュスを率いたセルゲイ・ディアギレフが活躍した20世紀初頭のパリには才能ある芸術家が集まり、後世の残る作品を次々と生み出しました。

ピカソが描いたディアギレフとスライグベルグ。ストラヴィンスキー

この映像は、その時代の数ある名作からパブロ・ピカソが衣装と舞台装置を手掛けた、サティの『パラード』とストラヴィンスキーの『プルチネルラ』の2つのバレエ作品を収録。
ピカソのイタリア訪問100周年を記念して、古代ローマ・ポンペイ遺跡の中の野外大劇場で行われた公演の模様です。

宮沢賢治の童話や絵本を読んでいるうちに見つけたのが「月夜のでんしんばしら」の童話。

この童話には歌がありました。

バレエ作品と宮沢賢治の持つ世界に不思議な共通点を見つけました。

宮沢賢治の銀河鉄道は、青列車と言う伝説の豪華列車をイメージする部分があります。

 

宮沢賢治童話「月夜のでんしんばしら」

童話のあらすじ

ある夜、恭一少年は鉄道線路の横を歩いていた。すると彼は信じられない光景に出くわす。「ドッテテ、ドッテテ、ドッテテド」というリズミカルな歌が聞こえたきたかと思うと、線路に沿って立つ何千本と並ぶ電信柱が一斉に行進を始めたのだ。様々な姿形の電信柱が通り過ぎる中、やがて彼らに号令をかける老人が歩いてくる。それは「電気総長」と名乗る人物だった。

 

宮沢賢治が描いた電信柱の絵

月をバックに歩く1本の擬人化された電信柱を描いた水彩画。原画は1945年の戦災で焼失し現存しないが、写真が現在まで伝わっている

水彩画
絵:宮沢賢治

ドツテテドツテテ、ドツテテド、
でんしんばしらのぐんたいは
はやさせかいにたぐひなし
ドツテテドツテテ、ドツテテド
でんしんばしらのぐんたいは
きりつせかいにならびなし。

ドツテテドツテテ、ドツテテド
二本うで木の工兵隊
六本うで木の竜騎兵
ドツテテドツテテ、ドツテテド
いちれつ一万五千人
はりがねかたくむすびたり

ドツテテドツテテ、ドツテテド
やりをかざれるとたん帽
すねははしらのごとくなり。
ドツテテドツテテ、ドツテテド
肩にかけたるエボレツト
重きつとめをしめすなり。

ドツテテドツテテ、ドツテテド、
寒さはだえをつんざくも
などて腕木をおろすべき
ドツテテドツテテ、ドツテテド
暑さ硫黄をとかすとも
いかでおとさんエボレツト。

ドツテテドツテテ、ドツテテド、
右とひだりのサアベルは
たぐひもあらぬ細身なり。

ドツテテドツテテ、ドツテテド、
タールを塗れるなが靴の
歩はばは三百六十尺。

ドツテテドツテテ、ドツテテド
でんしんばしらのぐんたいの
その名せかいにとゞろけり。

 

楽譜

(楽譜は『新校本宮澤賢治全集』第6巻本文篇p.332より)


宮澤賢治は、「でんしんばしら」をさまざまな角度からうたった、日本で最初の詩人かもしれません。
東京市内では、電灯は1912年の時点でほぼ完全に普及したとのことですが、これ以後も日本全国への電気の拡大はつづき、1927年に全国の電灯普及率は、87%にまで達したと記録されています。
賢治が山や野原を歩きまわっていた時期は、まさに電信柱も、日本全国の野山のすみずみに至る「進駐」をつづけていた時期だったのだと思います。*HPを参考にしました。

 

2023年5月10日

「銀河鉄道の父」の映画を見る

銀河鉄道の父

 

 

 

 

 

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