「瀕死の白鳥 物語1」

「瀕死の白鳥 物語 1 」

「さぁ瀕死の白鳥を踊ってみましょ。学んでみましょう」

「瀕死の白鳥」から勉強しょう。

私は世界的に有名なマイヤ・プリセスカヤさんの叔母さんにあたるスラミフィ・メッセレル先生と1984年8月27日  メッセレル先生の76歳のお誕生日の日に出会いました。

1986年3月26日に日本バレエ協会「全国合同バレエの夕べ」東北支部  ルスランとリュドミラ 」を踊る。(ルスランとリュドミラ はメッセレル先生の振り付けです)

*この作品は2011年 6月18日 神奈川県舞踊祭 ダンスがナガワフェスティバルでもヴァリエーションを踊りました。



メッセレル先生
はボリショイ・バレエ学校を卒業後、1926年からボリショイ・バレエ団のプリマ・バレリーナとして25年間踊りボリショイ・バレエ学校の教師を務めました。息子と共に亡命。日本では東京バレエ学校が開設され、バレエ教師として招かれました。東京バレエ学校がチャイコフスキー記念東京バレエ団となり、2004年6月3日 95歳で亡くなるまで日本のバレエ界に大いなる貢献をなさった偉大なるバレエ教師。アメリカ、ロイヤル・バレエ学校でも教え多くの日本人ダンサーを教えた先生です。日本でも1997年3月に勲三等瑞宝章と言う素晴らしい勲章をいただいた先生です。

私はメッセレル先生から「瀕死の白鳥」とルスランとリュドミラ」を振り付けして頂きました。

私は8歳から仙台でバレエを学び、18歳の時にメッセレル先生と出会いました。19歳の時に「瀕死の白鳥」と「ルスランとリュドミラ」の主役パートの振り付けをして頂きました。20歳の時に日本バレエ協会 東北支部で「ルスランとリュドミラ」の主役を踊り、谷桃子バレエ団・研究所で8ヶ月ほど研究生として学び。1991年5月(25歳)の時、にメッセレル先生がミラノ・スカラ座バレエ団でバレエの教えのお仕事をしていたため、一週間ほどミラノ・スカラ座バレエ団でメッセレル先生のレッスンを受けました。谷桃子バレエ団の稽古場で「瀕死の白鳥」の指導を谷桃子先生から受け、1991年に仙台で踊り、1992年3月 第49回全国舞踊コンクールの予選で「瀕死の白鳥」を踊り谷桃子バレエ団・研究所の高等科で谷桃子先生のレッスンを受け、準団クラスを受け谷桃子バレエ団公演「くるみ割り人形」「ドン・キホーテ」に出演。谷桃子バレエ団・研究所の発表会にも出演しました。1994年3月に結婚。出産して子育てしながら1997年にバレエを再開。1999年 横浜の金沢区に住み、メッセレル先生のお弟子さんである鎌倉在住の本間陽子先生のスタジオを訪ね「瀕死の白鳥」の練習に明け暮れました。そして2000年に「瀕死の白鳥」を本間先生の発表会と筒井先生の発表会でゲスト出演し、2001年にJUNバレエスクールを開設しました。2008年にJUNバレエ塾に名前が変わり2015年にバレエの教えは辞めました。今も舞台には立っています。横浜市中区に引っ越して早4年、そろそろ教えの準備を始めています。

2004年6月3日にメッセレル先生が他界 横須賀芸術劇場で追悼の思いで踊った「瀕死の白鳥」

10年間  踊り続けた「瀕死の白鳥」

スラミフィ・メッセレル先生

若い日のスラミフィ・メッセレル


2000年  鎌倉の本間陽子先生のスタジオでメッセレル先生の写真を見ながら「瀕死の白鳥」の練習に励みました。


2010年 6月 神奈川県立音楽堂  ダンスがナガワフェスティバルで踊った「瀕死の白鳥」


ミラノ・スカラ座バレエ団


ミラノ・スカラ座バレエ団 スラミフィ・メッセレル先生と一緒の写真

「瀕死の白鳥物語」はまたゆっくり書いていきます。

2004年  「瀕死の白鳥」

文・写真 渡邉順子

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