谷桃子バレエ団・研究所 発表会の思い出 

 

谷桃子バレエ団・研究所の発表会

 

谷桃子バレエ団・研究所の発表会にたった一度だけ出演しました。1993年8月5日 郵便貯金ホール

 

仙台でバレエを学び

上京して谷桃子バレエ団・研究所でバレエを学ぶ

私は仙台で生まれ8歳からバレエを学んでいました。藤井サト子バレエ研究所の発表会プログラムには谷桃子先生の写真と祝辞。日本バレエ協会 東北支部の公演に出演していたので谷桃子バレエ団・研究所の稽古でレッスンを受けたことがありました。

*1982年  日本バレエ協会  東北支部 「レ・シルフィールド」に出演した時でした。(16歳)

東北支部
盛岡の黒瀬先生のスタジオ
古い時代の稽古場です
日本バレエ協会

1986年に日本バレエ協会 「全国合同バレエの夕べ」で東北支部の主役を踊り、8ヶ月ほど 東京の目黒区中根町に住み谷桃子バレエ団・研究所の初等科・中等科でバレエのレッスンを受けましたが、体調を壊し仙台に帰ってしまいました。

1991年にミラノ・スカラ座バレエ団でメッセレル先生のレッスンを受け、1991年には谷桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導を受けました。

「ブルーな鎌倉」

バレエ関連 「瀕死の白鳥」

虹の彼方に

渡邉順子 経歴

 

 

 

1992年に谷桃子バレエ団・研究所の高等科で谷桃子先生のレッスンを受けました。

 

谷桃子バレエ団・研究所の発表会に出演。やっと念願の発表会に出演。「白鳥の湖」より第三幕  ルースカヤ  。一般 高等科 田阿曽美に出演。高等科と準団クラスを受けていたため谷桃子バレエ団 公演「くるみ割り人形」にも出演し、バレエ団からギャラを頂きました。

谷桃子バレエ団「くるみ割り人形」にも出演する。

新春公演「ドン・ホーテ」に出演。

谷桃子バレエ団
公演 ドン・キホーテ」に出演する


旧姓  岩渕順子

谷桃子バレエ団の公演に出演した記録

平成4 年(1992年) 10月26日から「くるみ割り人形」のリハーサルが始まる

11月15日わらび市「くるみ割り人形」に出演(会館主催)

11月16日えびな市「くるみ割り人形」に出演(学校公演)

11月18日新春公演「ドン・キホーテ」のリハーサルが始まる

12月3日「くるみ割り人形」のリハーサル始まる

12月13日小川町で「くるみ割り人形」に出演(会館主催)

平成5年(1993年)1月8日川口総合文化センター「ドン・キホーテ」出演

9・10日簡易保険ホール「ドン・キホーテ」出演

7月18日 「くるみ割り人形」ハイライツ ニューフィル千葉定期公演

8月5・6日第33回生徒発表会 白鳥の湖 第3幕に出演 高等科

 

2011年からダンスカナガワフェスティバルにはJUNバレエ塾で出演しました。

*ダンスカナガワフェスティバルにて2013年6月「くるみ割り人形」アラビアの踊りを自分で振付して踊る。

多胡版「くるみ割り人形」プロブラム

 

多胡版「くるみ割り人形」に出演した時のプロブラム

多胡版「くるみ割り人形」に出演した時の写真

 

ダンスカナガワフェスティバル

くるみ割り人形より
アラビアの踊り

自分で振り付けた
アラビアの踊り

ダンスカナガワフェスティバルにて「瀕死の白鳥」を踊る(2011年6月18日)

ダンスカナガワフェスティバル「白鳥の湖」よりルースカヤ

*谷桃子バレエ団の発表会でも踊りました。

ルースカヤ

 

1993

順子 27
新春公演「ドンキホーテ」・学校公演「くるみ割り人形」に出演する。
谷桃子先生 勲四等宝冠章受賞

谷桃子先生と1993年

1994
順子 28歳 結婚

東京目黒にあるサレジオ教会

2012年

JUNバレエ塾主宰で出演する

ダンスがナガワフェスティバル

「白鳥の湖」第三幕より  ルースカヤ

「この振り付けは谷桃子先生の振り付けだった」とバレエ団の大先輩である多胡先生がおっしゃっていらっしゃいました。

ルースカヤ

2012年  谷桃子バレエ団・研究所の発表会で踊った ルースカヤを再びダンスカナガワフェスティバルで踊ることができたことに感謝しています。

 

多胡版「くるみ割り人形」に出演

2011年・12年

多胡版「くるみ割り人形」(谷桃子バレエ団系列)

多胡寿伯子のルースカヤ
谷桃子バレエ団ではルースカヤを踊っていたそうです。

谷桃子バレエ団のプロブラムに使用されていた谷先生の写真

白鳥の湖  ルースカヤ:振り付け 谷桃子

 

谷桃子バレエ団のレパートリー ヒストリー

くるみ割り人形

谷桃子バレエ団2013年
くるみ割り人形プログラム

くるみ割り人形

「1960年、ソ連の文化省から日本にバレエ学校がオープンし経験豊かな教師を必要としているというお話があるまで、日本の国、行ったこと無かったです」(メッセレル先生談)

東京バレエ団の母体である「チャイコフスキー記念東京バレエ学校」が1960 年開校し、1964 年に閉校するまでの顛末が記されています。

1961年にチャイコフスキー記念東京バレエ学校、ボリショイ・バレエによる日ソ合同バレエ公演が行われ、メッセレルとワリラーモフの振付による「くるみ割り人形」が上演された。東京文化会館を皮切りに、大阪、福岡、八幡、長野、浜松、仙台、札幌など、日本各地を巡演する大公演。

メッセレルとワルラーモフが教えてくれた「くるみ割り人形」は谷桃子バレエ団のレパートリーになり、私自身も谷バレエ 団の1992年に「くるみ割り人形」に出演した。

1992年

「くるみ割り人形」のアラビアの踊りの芯は大塚礼子さん。

私はキレ持ちで踊っただけだったけど、その頃、結婚して金平糖のソロを踊ったり、多胡版くるみ割り人形に出演したり、ダンスカナガワフェスティバルで自分で振付して踊るまでになる。

*2013年
順子 47歳
谷桃子バレエ団 新春公演「くるみ割り人形」を観に行く。
     王子 斎藤拓
     金平糖の女王 林麻衣子

2018年からくるみ割り人形の絵本作りにハマり、何枚も絵を描いた。

くるみ割り人形2021年作成

くるみ割り人形絵本アラブアの踊りイラスト画イメージ画
ワイノーネン版のくるみ割り人形に出演した時の絵

「バヤデルカ」と「リゼット」、「ドン・キホーテ」

メッセレル先生亡命騒動

メッセレル先生がアメリカに亡命されたのは1980年。メッセレル先生が東京バレエ団の仕事で東京に滞在中に息子さんがボリショイ・バレエ団のダンサーとして来日され、息子さんと共に在日アメリカ大使館に助けを求め、母子共にアメリカに亡命されたのです。

メッセレル先生の言葉でその当時の事を書きます。「あの時、私は東京バレエ団の仕事で半月ほど、東京にいました。モスクワに帰る4日ほど前、私は身体の調子が悪くなりました。国立病院でレントゲンを撮り、色々な検査を受けました。あまり、よく無い。
私はソ連の大使館に電話しました。ビザの期限切れます。けれども身体はよくない。少しの間、日本にいたい。大丈夫、大丈夫 モスクワに着いたら検査しましょう。
私はものすごーく怒りました。
丁度、モスクワからボリショイ・バレエ団が来日。私の息子も来日しました。私は息子をホテルに呼びました。自由になりたい。アメリカいきましょう」

メッセレル親子が亡命した年はモスクワオリンピックが開催された年でしたが、日本、アメリカ、中国、西ドイツが不参加のまま、オリンピックが行われました。

メッセレル先生72歳。
元ボリショイ・バレエ団のプリマ・バレリーナ。
ボリショイ・バレエ学校の教師。

アメリカに住んでから日本の谷桃子さんから手紙が届きました。日本で「バヤデルカ」を上演したいと。私は再び、日本で「バヤデルカ」の振り付けをするため谷桃子バレエ団を訪ねました。

日本初演を飾ったバヤデルカ

谷桃子バレエ団の日本初演は1981189日 東京文化会館 スラミフィ・メッセレル招聘公演

谷桃子バレエ団にはメッセレル先生が日本に紹介したバレエ作品「リゼット」、「ドン・キホーテ」の二作品があります。

「リゼット」日本初演 1960年

谷桃子バレエ団のリゼットは、

1960年、谷桃子先生がチャイコフスキー・バレエ学校に入学し、スラミフィ・メッセレル先生、バルラーモフ先生の指導を受けたのち、1962111日・2日に東京文化会館で日本初演を飾りました。

谷桃子バレエ団
40周年記念公演
この絵は好きです。

若き日の谷桃子先生「リゼット」

 

「ドン・キホーテ」日本初演 1964年

谷桃子バレエ団
公演 ドン・キホーテ」に出演する1993年

バヤデルカ

日本初演を飾った「バヤデルカ」はメッセレル先生の亡命騒動後に上演された作品です。

2006年
順子( 40歳)
谷桃子バレエ団「ラ・バヤデール 全幕」を観に行く。

2004年にメッセレル先生が他界。メッセレル先生の追悼公演。

スラミフィ・メッセレルメモリアル

2006年2月25日

谷桃子バレエ公演
ラ・バヤデール全幕

ニキヤ 朝枝めぐみ
ソロル 今井智也
ガザムッティ 林麻衣子
黄金の仏像 桑原智昭
バラモン 赤城圭(24日と共通)
ドロラグヴァ 梶原将仁(24日と共通)
上野文化会館へ観に行く。
このバレエ作品は谷バレエ団にとって貴重な作品。

 

谷桃子バレエ団の日本初演は1981189日、スラミフィ・メッセレル招聘公演
東京文化会館
演出・振り付け スラミフィ・メッセレル
舞台監督 谷桃子

ソロル ミハイル・メッセレル(客演)
ニキヤ 尾本安代/広瀬和子
ガムザッティ 大塚礼子/前田藤絵

*1981年は、谷桃子バレエ団が8月に初の海外公演(台湾公演)を行なった年でもある。
「谷桃子バレエ団の40年」の本を参考に。

谷桃子バレエ団の1981年の「バヤデルカ」はボリショイ・バレエ版、「ラ・バヤデール」と題名が変わり2010年、2013年に谷桃子・望月則彦の演出・振り付けで上演され、2019年に高部尚子の演出・振り付けで上演された。

バヤデルカ(ラ・バヤデール)の原振り付けはマリウス・プティパ。

「白鳥の湖」

谷桃子バレエ団

創立者の「白鳥の湖」プロブラム

谷桃子バレエ団
白鳥の湖

奥村土牛作「踊り子」
モデル谷桃子

 

 

「シンデレラ」

1991年1月11日・12日

初演シンデレラ
プロブラム

メッセレル先生
メッセージ

私と谷桃子さんとは30年という長きにわたって芸術上の交友関係があります。1960年にチャイコフスキー東京バレエ学校が創設されましたが、谷さんは2年間この学校の私のクラスでレッスンを受けられました。その時の谷さんはすらりとした体格で、才能あふれ、表現力、音楽性、そして技術的な完成度は相当なものでした。

谷桃子バレエ団のため私が初めて演出したのは3幕の「リゼット」(音楽、ヘルテル)で、その次が4幕の「ドン・キホーテ」(音楽、ミンクス)。

また、3幕の「バヤデルカ」(音楽、ミンクス)は私とミハイル・メッセレルが協同で演出しました。そして今回の「シンデレラ」(音楽、プロコフィエフ)も私とミハイル・メッセレルが担当しました。

谷桃子バレエ団のダンサーは全員十分に訓練されており、彼らのダンスには強い意気込みが感じられます。シンデレラを演じるのは、剥指導のもとロイヤルバン工学校を卒業した、才能豊な若いプリマの高部尚子さんです。

1991年 谷桃子バレエ団公演「シンデレラ」の舞台の楽屋にてメッセレル先生

高部尚子

*現在は谷桃子バレエ団芸術監督

1990年
順子 24歳
6月 コスモス文学新人賞 現代詩部門「楽屋」で佳作を受賞する。
10月20日、21日に谷桃子バレエ団・研究所を訪ねる。
メッセレル先生がロイヤル・バレエ学校で高部尚子さんを教えた。「シンデレラ」を尚子さんの振り付け・指導するため来日。順子はメッセレル先生について書きたいと思いバレエ団を訪ねる。

*1991年 コスモス文学(同人誌)ノンフィクション部門で受賞する。

 

「ジゼル」

谷桃子と言えば「ジゼル」

「ジゼル」と言えば谷桃子

谷桃子先生
ジゼル

谷桃子先生のジゼルの写真

 

最後の別れ 2015年5月3日
谷桃子先生の葬儀

2015年(平成27年)4月26日、敗血症のため病院で亡くなる。

 

文 渡邉順子

1990年・1991年と谷桃子バレエ団にメッセレル先生が振付した作品を取材する

谷桃子バレエ団で初の「シンデレラ」を上演するためメッセレル先生と息子さんが来日された。

コスモス文学(同人誌)でノンフィクション部門で受賞

マイヤ・プリセツカヤさんの母方の叔母がスラミフィ・メッセレル先生。
父:ミハイル・プリセツキーは、スターリンの粛清により1938年に銃殺刑に処された。

サイレント映画女優だった母ラリサ・プリセツカヤ(スラミフィ・メッセレル先生のお姉)は、人民の敵」の妻と言う理由でカザフスタンへ強制送致される。そん時代のお話です。
1990年10月20日・21日に記録する。

*本の出版までには至りませんでしたがJUNグログの「虹の彼方に」にアップされています。

虹の彼方に

 

Sメッセレル先生、私、ミハイル・メッセレル(メッセレル先生の息子さん)

 

メッセレル先生関連の本

闘う白鳥

プリセツカヤ

マイヤプリセツカヤの本

ボリショィ・バレエの技法

バレエ大国

谷桃子バレエ団公演鑑賞

1987年
順子 21歳

1月 谷桃子バレエ団公演「リゼット」
谷桃子バレエ団の公演を初めて観る。

10月 谷桃子バレエ団公演「ジゼル」を観に東京へ行く。

1988年
順子 22歳
1月 谷桃子バレエ団の「白鳥の湖」を観に東京に行く。

詳しく「虹の彼方に」のページをご覧ください。

虹の彼方に

 

 

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