横浜で「瀕死の白鳥」を10年踊り続けて

横浜で10年 踊り続けた「瀕死の白鳥」

2000年 4月鎌倉芸術劇場、5月横浜市イズミ公会堂

2001年 JUNバレエスクール開設、12月鎌倉芸術劇場、12月根岸駅前ステップジョイホール

2002年 8月関内ホール、相模大野グリーンホール

2003年 「白鳥の湖」相模大野グリーンホール

2004年 9月関内ホール、11月よこすか芸術劇場

2005年 6月八王子芸術劇場、11月関内ホール

2006年 9月関内ホール、10月よこすか芸術劇場

2007年 2月目黒パーシモンホール、4月神奈川県民ホール

2008年 4月神奈川県県民ホール、10月テアトルフォンテ

2009年 10月テアトルフォンテ

2010年 6月神奈川県立音楽堂、8月いわきアリオス、10月テアトルフォンテ

2010年〜2015年ダンスカナガワフェスティバルに出演。

2011年〜2018年まで、谷桃子バレエ団員 多胡寿伯子先生に師事受ける。

2018年9月12日からセントラルウェルネスクラブ北仙台にて体操の助手を務めている。

「瀕死の白鳥」の振り付けで私が一番難しいと感じたのは、地べたに伏して死の瞬間を感じながらも片脚アチチュードでもう一度立ち上がる振り付けだった。そのシーン、何度練習しても難しかった。1991年には片脚アチチュードで立ち上がったのだが、2000年からはその振り付けはカットしてしまった。谷先生の「スパッ」の掛け声がないと上手くできなくなったのかもしれない。どんなに辛いことがあったとしても「スパッ」と立ち上がらなければならない時がある。2014年、私は静養のため主人と海外へ行った。2015年には家族でボホール島に行ってきた。負けるものかってちょっとは踊ってみた。

ボホール島でスパッと2015年

結婚、出産。子育て中にメッセレル先生・谷先生と再会。

バレエの道に再び戻るようになる。1999年

谷先生、娘、私、メッセレル先生1999年

 

娘にバレエを教えるために2001年 JUNバレエスクールを開設。

2004年の「瀕死の白鳥」

常に自分に勝つ人が最高の芸術家
光を求めて10年間  私は私なりに舞続けた。

 

 


1986年  谷桃子バレエ団・研究所の初等科・中等科で学び。体調を崩し仙台に帰える。1991年「瀕死の白鳥」を谷桃子先生に指導して頂くため仙台から通う。1992年 谷桃子バレエ団・研究所の高等科・準団クラスを受け、谷桃子バレエ団の公演にも出演。結婚、出産、子育てをしながらJUNバレエスクールを開設。2008年からJUNバレエ塾と名前を変えた。2011年から谷桃子バレエ団 団員  多胡寿伯子先生に師事。多胡版「くるみ割り人形」に出演。

多胡版「くるみ割り人形」に2011年、2012年に出演しました。

 

2017年 最後の舞台前のスナップ写真

谷先生の「瀕死の白鳥」とは違うかもしれないけれど、私は私なりの「瀕死の白鳥」をこれからも踊り続けていこう。私の「瀕死の白鳥」は「生きるも歓喜、死ぬも歓喜」という言葉がふさわしいものに変わって行ったと思う。最後に大勝利する「瀕死の白鳥」。未熟でも最後に大勝利できるよう頑張ろうと最後に舞ました。

どんなに大変でも立ち上がる勇気が必要、谷先生が「スパッ」と立ち上がったように、私自身も「スパッ」と立ち上がってみせたい。2017年「瀕死の白鳥」は最後に大勝利する作品。「生きるも歓喜 死ぬも歓喜」最後に生命の底力を見せる舞。「スパッ」の振り付けを少しアレンジして最後に入れた。。1991年の「瀕死の白鳥」から26年の歳月が過ぎ、踊り続けてこられたことへの感謝の舞。最後に生命の底力を見せる舞。

天より四種の花ふり虚空に音楽聞こえ。諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや」御書を学び舞い踊りました。最後の生命の舞。

2017年が最後の舞台となり、2018年7月14日に主人と仙台市民となる。ブログも「仙台に帰ってきた」と変わりまたブロブを更新できるようになった。

横浜で10年「瀕死の白鳥」を踊り続けることができて良かったと思っています。

文:渡邉順子

 

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