「瀕死の白鳥物語6」

「母になっても、ひとつの事を続けなさい」JUNバレエスクール誕生。

1999年11月18日にメッセレル先生と谷桃子先生と娘と三人で映した写真。


2001年2月にJUNバレエスクールを開設。

2001年12月25日が私と娘の初舞台日。その後、小さな生徒が入るバレエスクールになりました。名前が塾に変わっても小さな生徒たち入る塾でした。2015年12月  閉鎖。2017年12月より横浜市中区で再び教えの道に戻ることになりました。

 

クララの雑誌にも娘の部屋が紹介されました。

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渡邉順子とメッセレル先生の歩んだバレエの道


私は8歳の時に仙台のバレエ研究所でバレエを学びました。母が買ってくれたバレエの本はスラミフィ・メッセレルのお兄さん アサフ・メッセレルの書かれたボリショイ・バレエの技法と言う本が生涯の宝ものになりました。

1984年8月27日   スラミフィ・メッセレル先生76歳のお誕生日の日に出会う。

1985年 仙台で スラミフィ・メッセレル先生から「瀕死の白鳥」の振り付けを学び、1991年にミラノ・スカラ座バレエ団でメッセレル先生のレッスンを受け、谷桃子バレエ団で谷桃子先生から指導を受け仙台で「瀕死の白鳥」を踊り。1992年に谷桃子バレエ団・研究所に戻り谷バレエ団の舞台に立ち結婚、出産、子育てをして再び2000年に「瀕死の白鳥」を踊りました。2001年にJunバレエスクールを開設。娘にバレエを教えるため母と子のバレエスクールを開設。2000年から2010年まで「瀕死の白鳥」を踊り続けました。2015年にJUNバレエ塾を閉鎖。2016年にチャリティー詩吟コンサート「 泣くな長崎」で瀕死の白鳥をアレンジした作品を踊り、金沢文化芸術祭では渡邉順子の代表品にもなったバレエ藤娘を踊りました。2017年のチャリティー詩吟コンサートはジャズ詩吟。金沢文化芸術祭では「生きても歓喜 死んでも歓喜」を振り付けし、出演しました。
「瀕死の白鳥」は振り付け  スラミフィ・メッセレル先生。指導:谷桃子先生。2000年から2010年まで渡邉順子は「瀕死の白鳥」を踊り続け2016年に「瀕死の白鳥」をアレンジした作品を作りました。「母になっても、ひとつの事を続けなさい」谷先生の言葉が私をずっと踊らせています。

 

1991年5月31日〜6月8日 ミラノ・スカラ座バレエ団でメッセレル先生のレッスンを受ける。9月28日・30日。11月15日に谷桃子バレエ団で谷桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導を受ける。12月14日・15日に谷桃子バレエ団の高等科・中等科のレッスンを受ける。

1992年10月 谷桃子バレエ団・研究所に戻り「くるみ割り人形」に出演。1993年 新春公演「ドン・ホ-テ」8月 谷桃子団・研究所の発表会に出演。1994年に結婚。1995年7月28日娘を出産。1997年3月に2歳になった娘を連れスラミフィ・メッセレル先生の勲三等瑞宝章を祝う会に出席した。


娘が4歳になり、メッセレル先生と谷桃子先生に再会。私は娘にバレエ教えました。

娘はバレエを辞めてしまいましたが私はまだ踊っています。


2017年  9月 金沢文化芸術祭の舞台待ちをしている私。


2017年 詩吟コンサートで舞台を待っている私。絵:鈴木崇夫

 

 

 

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