「瀕死の白鳥物語7」

谷桃子先生との出会い  1982年

私が高校1年生の時だった。日本バレエ協会 東北支部 「全国合同 バレエの夕べ」に出演するため 東京の郵便貯金ホールに出かけた。郵便貯金ホールの隣にあるホテルのロビーで谷桃子先生を見かける。仙台で習っているバレエ研究所の発表会のプログラムの祝辞の写真でしか見た事のない谷先生が目の前を通り過ぎてた。まるで ラ・シルフィードの妖精のように。16歳の時に谷桃子バレエ団・研究所の中等科クラスを受けさせて頂き、谷先生とも挨拶を交わしました。その後、1986年5月4日 盛岡の黒澤先生のスタジオで谷桃子先生とお会いして東京暮らしを始めることになりました。(*1984年盛岡の黒沢先生のスタジオでメッセレル先生の講習会が行われメッセレル先生と出会った。)

1986年 7月 20才 東京 目黒区中根町

私が東京の目黒区中根町で一人暮らしをしながら谷バレエ団の研究生になり、中根町界隈を歩き廻り始めると谷先生がバレエ団の仕事を終え帰りる途中でバッタリお会いすることがありました。初等科・中等科クラスを受けていた私にとって谷先生とロイ先生の教える高等科は山の上にあるクラスのようにも思えました。谷先生が気さくに「頑張ってる」と声をかけ下さることが嬉しかったです。谷先生とロイ先生のレッスンが受けられるようになりたいなーとその頃は思っていました。
その後 、多胡先生のスタジオでバラシンスタイルを習うのも結婚し、出産、瀕死の白鳥を10年踊ってからのことでした。(2011年・2012年)

1987年 谷桃子バレエ団 新春公演「リゼット」を見、日本バレエ協会主催 谷桃子振り付け 「ジゼル」を見た。メッセレル先生がローランプティ・バレエ団のゲスト教師で来日し再会。
自分一人の力で自分の夢を叶えた、そうその頃は思っていました。

メッセレル先生あっての渡邉順子だと言うまでには少々時間がかかります。(笑)

20歳の時の私は谷バレエ団・研究所の発表会に出演することはできなかったけど、16歳の時に出会ったバレエの妖精が住む町に私は住み、レッスンを受け、道端で会うことが出来きた。小さい頃から憧れていた谷桃子バレエ団でレッスンが受けれた。そう思い。1987年5月体調不良で仙台に帰る。涙・涙の物語。1989年12月2日〜4日メッセレル先生の講習会が谷バレエ団・研究所であり、再び谷桃子バレエ団・研究所の稽古に出かけました。1991年イタリア ミラノ・スカラ。」座バレエ団でメッセレル先生のレッスンを受けた後、谷桃子バレエ団の稽古場で谷桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導を受け、1992年に谷桃子バレエ団の「くるみ割り人形」に出演1993年新春公演「ドン・キホーテ」。やっと谷桃子バレエ団・研究所の発表会に出演し1994年に結婚しました。小さい頃からの夢は叶い結婚、出産、子育てしながら横浜で「瀕死の白鳥」を10年踊り続ける渡邉順子ができがあるのです。今もなを「瀕死の白鳥」の」振り付けは形を変え生き続けています。50歳になっても、たまに、目黒の中根町辺りを散歩することがあります。20歳の時に通った銭湯もまだある。中根町から自由が丘に続く道も何も変わってはいない道だけれど、もう谷先生は亡くなり、中根町にある谷桃子バレエ団・研究所のスタジオも使われていない。

1991年9月28日・30日。11月15日に「瀕死の白鳥」を谷桃子先生から学んだことについて書かせていただきます。

谷先生の言葉は「心を強く持ちなさい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメントを残す