「瀕死の白鳥物語」遺言

「瀕死の白鳥物語」遺言

 

谷桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導をうけたのは1991年だから、今から26年前のことになる。2000年から2010年まで踊り続けた「瀕死の白鳥」は、最後の場面で息を止め死んでいく。私の瀕死は最後に眠るように息を止めるため、手首を上手く回転させて肩にも回転が入ると自然に呼吸が止まる。速度はゆっくりし息を止める。早く回転するとすぐに息が止まる(笑)。息の止め方一つの練習に10年という歳月をかけた。死んでいく白鳥の最期には、常に栄光の光を感じながら呼吸を止める。

1991年に谷桃子先生から「瀕死の白鳥」を学んだ時は、あまり強く言われなかったが、2000年に「瀕死の白鳥」を踊る時には「きちんと息を止めて踊りなさい」という指導を頂き踊った。1991年頃の指導では「私より先に死ぬな」、「年功序列」と谷先生に言われ、最後の場面ではいつも手首をひねる程度で、先生の目の前で息を止めることはなかった。

1991年の「瀕死の白鳥」のリハーサルでは真剣な部分もあったが「死」に対しては、まだこれから学ぶものという未来があり、谷先生自身もいつかは訪れる死であっても「今は順子ちゃんに教えていると楽しいわ~」という雰囲気の中でのリハーサルだった。但し、「まっとうして死ぬ」という言葉になると、まるで谷先生自身に言い聞かせているかのように真剣になられた。

仙台から上京し、谷桃子バレエ団・研究所に学び始めた私の心には「諦めが肝心」という答えが先に出ていて、自分自身の心に負けていた。8ヶ月間の東京暮らしを終え帰省した私は、絵のモデルをしながら、絵を描き、気持ちの整理をしていた。谷桃子先生からは「お元気になられたら、何時でも谷桃子バレエ研究所にいらして下さい。あせらずに…ね」というお手紙を頂戴した。そして1986年に谷桃子バレエ団・研究所で学んでから5年の歳月を経て、ついに、やっと谷桃子先生から「瀕死の白鳥」の指導を受けることができた。

谷桃子バレエ団・研究所の初等科・中等科のレッスンを受けている私が、谷桃子先生のレッスンを受け、直接指導をうける日なんて来ない、諦めが肝心だわ、私は思っていた。私はたぶん谷先生に「東京へは遊びに来ただけです。」と話し仙台に帰ったように思う。大きな夢が破れた気持ちだった。8歳からバレエを始めた私は、谷桃子先生の写真を眺めながら、いつか谷桃子バレエ団に入って公演に出演するのが夢だった。日本バレエ協会の東北支部の主役だって踊れたし、次の夢は谷桃子バレエ団の団員になること。だが、東京暮らしを始めた途端、その夢を現実にするのは到底無理な話だと逃げ出したのだ(笑)。でもこの無理を何とか可能にすることができた。仙台の橘バレエ学校とメッセレル先生が仕事をしているミラノ・スカラ座バレエ団でレッスンを受け、憧れの谷桃子先生の直接指導を勝ち取ったのだ。私はまっとうして「瀕死の白鳥」を踊れるようになった。

「瀕死の白鳥」を踊り終えてからのレベランス(お辞儀)

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